公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2016.11.04 (金) 印刷する

習近平政治を「権力闘争」でしか語らぬ不思議 富坂聡(拓殖大学教授)

 10月27日、六中全会(中国共産党の第18期中央委員会第6回全体会議)が閉幕した。習近平政権の折り返しまであと1年に迫った最後の中央委員会全体会議であらためてわかったことは、習近平の〝一強〟ぶりと党内粛清の嵐が今後も吹き荒れるということ、そして群衆(大衆)路線の強調が同じように今後も重視されることだった。
 中国の中堅幹部以下の世界には、上の政策に対して対策で骨抜きにする狡猾さがあるものの、あれだけ徹頭徹尾、明けても暮れても「大衆に奉仕しろ」、「綱紀を粛正しろ」とやられれば、出世競争(つまりは権力闘争)の基準を大きく変え、ひいては社会を大きく変える作用を果たすようになっている。
 日本のメディアは、相変わらず習近平政治の特徴を、いまだに中南海の「権力闘争」に落とし込んで理解しようとしているようで、「江沢民派(上海閥)を追い込んだ」、「団派(共産主義青年団=共青団)が狙われている」「太子党を新たに重用し多数派工作をした」などと報じているが、筆者はいつも不思議に思うのは、その結果として中国の何がわかったのだろうか、ということだ。

 ●腐敗撲滅はライバル追い落としの口実ではない
 党内闘争は1980年代から保守派と改革派の間で激しく行われ、世界中のメディアがそうした対立構図のなかで中国政治を解説してきたが、結局、実際に起きた現象は鄧小平という改革派の巨頭が同じ改革派の後継者を次々に更迭したという事実であり、単純化した二極対立の公式がきちんと中国政治を説明できたとは言い難いのである。
 それ以上に問題は、「保守派が優勢」、「改革派が盛り返した」と人事を報じる一方で、中国共産党の上層階で行われている政治闘争が一般社会とかい離したなかで進められているように報じられることだ。
 江沢民派が勝ったと説明されて、われわれが何を理解したというのだろうか。
 80年代の争いでは、後に経済特区など一部の地域が市場経済を取り入れ、貧富の格差を容認した結果、その地域の人々の生活の乱れ――つまり腐敗――が凄まじいスピードで進行し、急進的な変化を嫌う人々からアレルギー反応が出た。次第に明らかになったのは、そうした論点であった。
 つまり、彼らは「何派だから」追い落とした――もちろんそうした側面がなかったとは言わないが――のではなく、ベースになる政策の違いをきちんと持っていたのである。
 そして鄧小平は、改革開放という大きな流れまでもが否定されないように、政治的な開放を求める部下を、自ら任命したにもかかわらず次々と切っていった。その究極の終着点が天安門事件だったのである。
 この過程を振り返るまでもなく、共産党にとって腐敗の問題は、ずっと党の存亡を左右しかねない重大関心テーマであり続けてきたのである。そして現在、習近平が2012年の政権交代をきっかけに大きく腐敗撲滅に舵を切ったのも極めて理屈に合った行動であって、決してライバルを追い落とす口実などではないのだ。
 それを「上海閥」、「団派」、「太子党」が単に相手の勢力を減らすためだけの争いという小さな視点に落とし込んでしまっては、実際にいま中国が抱える問題との接点は何もわからなくなるのではないだろうか。

 ●「核心」でなかったのは胡錦濤だけだ
 今回、習近平を党の「核心」と位置付けたことにも注目が集まったが、これはむしろ胡錦濤がそうしなかったことが例外だと筆者は考えている。事実、毛沢東も鄧小平も江沢民も「核心」であった。党の歴史に触れるとき、必ず繰り返される毛沢東から鄧小平の「改革開放」、江沢民の「3つの代表」、そして胡錦濤の「科学的発展観」まで、そのなかで「核心」でなかったのは胡錦濤だけだ。
 六中全会が閉幕した翌日の記者会見で「核心」について訊かれた党中央宣伝部は、「習近平総書記の核心的地位を明確化させたことは、わが党及び国家の根本的利益であり、党の指導の堅持と強化を根本的に保証するものである。また中国の特色ある社会主義建設という新しい歴史の偉大な闘争を進めることとも合致している」(常務部部長)としている。
 全体会議コミュニケは、荒訳だが、「民主集中制は党の原則」とした上で、「集団指導体制と個人の分業による責任分担の融合は民主集中制の重要な要素」と位置付けている。つまり「分業」であってどちらか片方というわけではないのだ。
 そんなことよりも、「全党の同志は習近平同志を核心とする党中央の下に団結し、全面的に今回の全会の精神を貫き、政治意識、改革意識、革新意識、模範意識を樹立し、党中央の権威、党中央の集中、統一的な指導を推進し全面的に党を厳しく管理することを推進し、ともに風紀の良い政治政体を作り上げ、団結をもって人民を率いて中国の特色ある社会主義の建設事業の新しい局面を切り開く」とした真意は、本当に日本の読者にきちんと伝わったのだろうか。
 六中全会のメインテーマは明らかに党員に対する引き締めであった。中国人ではないので「両学一做」や「三厳三実」の意味を知っているべきだとは言わないが、こういった数字を交えたスローガン――実は中国共産党はこれが大好き――が無数に出され、それらがすべて党員の学習目的のためであり、また綱紀粛正の目的であるというのは驚きの事実であろう。
 加えて党員の規律を取り締まる方向では、たださえ厳しい規律(「中国共産党廉潔自律準則」、「規律処分条例」、「八項規定」など)に加え、今回の会議で「中国共産党党内監督条例」が採択された。
 こうした動きを踏まえた上で六中全会をまとめてみると、「厳格な党内統治」、「党内政治活動の粛正」、そして「党内監督の整備」がおおよそのテーマであったとみることができるだろう。
 まさしく習近平の危機感が反映された内容だ。

 ●側近登用を多数派工作ととらえることへの違和感
 こうした諸々をすっ飛ばしておいて、習近平の独裁体制が加速したといって日本人が何を理解するのだろうか。
 来年秋に予定される党大会(中国共産党第19回全国代表大会)に向けて、中国は政治と人事の季節を迎える。今後――といっても、もうとっくに始まっているが――地方人事が1年かけて大きく動き、フィナーレの中央の人事へと続く。その過程では、「〇〇派が」とか「習近平に近い人物が抜擢された」といった報道が続くはずだが、胡錦濤時代の人事のまま切り盛りしてきた習近平が初めて自分の人事で周りを固めるのが二期目の特徴だとすれば、側近を登用するのは当たり前だ。またそれを多数派工作ととらえるのにも違和感がある。
 何といっても政治局会議において、13対12で習近平の提案が通らないなんてことが起きるとはとうてい思えないからだ。

編集部注:「両学一做」とは二つの学習と一つの行いの意味で、「党章党規と習近平総書記の一連の講話を学び、党員としてふさわしい行いをすること」。また、「三厳三実」は、「厳しく身を修め、権力を使い、自分を律するとともに、切実に物事をなし、創業し、身を持すること」を意味するとされる。