公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

国基研ろんだん

  • HOME
  • 国基研ろんだん
  • 単純な計算式で応用問題は解けぬ―西岡氏への再反論 富坂聰(拓殖大学教授)
2017.03.01 (水) 印刷する

単純な計算式で応用問題は解けぬ―西岡氏への再反論 富坂聰(拓殖大学教授)

 もはや論点が少なくなってしまったので、再反論の必要はないかとも思いましたが、事務局から促されたので最後の反論をしようと思います。
 要するに、歴史問題をめぐって私の見解が「宮家邦彦氏と同じ」だと言いたいということなのでしょう。宮家さんも、私にある種のレッテルを貼るためだけに利用されて気の毒だと思います。また宮家さんが『WEDGE』(2015年6月号)に寄稿された文章も、1億3000万人の民を抱える国の経営に責任を持つという視点に立てば極めて自然な発想だと理解します。ただ、それでも残念ながら私の意見とは同じではありません。

 ●「頑張ったが負けた」でいいのか
 私が2月13日付の本欄で、「(歴史認識問題を)政治・外交の場に持ち込むのなら、当然、日本の立場を利する行為か否かを精査する必要」に言及しているのは、何かと交換可能か否かの判断をするということではありません。政治的に最適な環境やタイミングを精査する必要を指摘しているのです。分かりやすくいえば、「仕掛けるからには勝算はあるのでしょうね」と問うているのです。
 行動を起こせば資源の投入が不可欠です。人手や資金を消費しながら「頑張ったけど負けました」では納得できませんよ、ということです。至極簡単な話です。
 さらに問題は、国際社会で戦う以上、負ければ必ずペナルティーを覚悟しなければならず、それが我が国の利益を確実に削ってしまうということです。だから「政治・外交の場に持ち込むのなら確実に結果を残せるのか」が問われます。結果を残すためには緻密な計算が必要なのは言うまでもありません。
 その上で疑問を記しておけば、例えばいま中国に歴史問題を挑んだとして、中国はどのような反撃をしてくるのでしょうか。考えられる限りのリアクトを提示し、それに対する対策を西岡氏は示せるのでしょうか。戦いを挑むというのなら、相手を知ることは最低限の条件です。さて、どんな反応が予測されるのでしょうか。対策も含めて具体的に示してください。
 こんな既視感のある指摘をしている時点でため息が出る思いですが、私にはいま、少なくとも3パターンほど中国の反撃が予測できます。そのうちの1つは世界を巻き込んでさらに日本が新たな非難にさらされかねない問題となりかねませんが、それは本当に「日本の名誉を守る」ことになるのでしょうか。

 ●歴史問題で戦う態勢は盤石か
 歴史認識について日本と中国の間には日中歴史共同研究の実績があり、両論併記ながら南京大虐殺の被害者数も2万人から20万人との幅がもたされました。つまり学術の世界ではすでに数字に瑕疵があることは、認められたとまではいわないものの、それなりの修正が入っているわけです。
 それでも南京大虐殺が、中国にとって戦争の災禍を代表する存在でなければならないのは、それが記号だからだと推測されます。戦後も内政の混乱で貧しい時代を過ごした中国には、自ら歴史を精査してシンボルを持つ余裕もなかったということも理由です。
 ですが、いまは潤沢に資金も用意し、眠っていた歴史研究に専門の研究者を専従させることもできるでしょう。
 一方の日本は、中国が次々に投げてくる新たな歴史問題というボールを、いちいち精査するために現地に赴くことにも苦労するのが実態ではないでしょうか。
 つまり、日本側が歴史問題という箱を開けたとして、戦うための態勢は盤石ですか、ということです。先の戦争も含め、準備不足のまま「価値観」を優先させて戦いを挑むことが、最も日本国と日本人を苦しめるのではないでしょうか。

 ●複雑な方程式の解求められる政治
 最後に、西岡氏は歴史認識問題で「宮家氏的論理」を否定する例として安倍首相の言葉を引用しています。いうべきことを言ったという意味なのでしょうが、それならばその政治の場で最終的に落ち着いた昨年末の日韓合意はどうとらえたらよいのでしょうか。私自身、決して合意には否定的ではないのですが、客観的に見れば明らかに河野談話時より日本側の主張は後退したのではないでしょうか。そしてこの合意がもし、「他の問題との関係で譲ってもよい」と考えた結果ではないのだとすれば、どういう判断の末のことだと理解すればよいのでしょうか。それはつまり、首相ご自身がそう納得したから、という合意なのでしょうか。
 西岡氏が指摘した考え方の違いは明らかです。しかしそれは西岡氏が指摘するような、歴史を他のものと交換可能と考えるか否かという差異ではなく、「最終的にきちんと勝ち切る」(これは日本の被害を最小限にするという意味)という発想を持てるか否かの違いということです。
 目の前の間違いを指摘することは実はそれほど難しいことではありません。だが、事実を突きつけて終わるのは学術の世界の話で、政治の場ではそうはいきません。ましてや国境を跨ぎ、相手の名誉にもかかわればなおさら複雑な方程式を解かなければなりません。その応用問題を単純な計算式だけで挑む姿勢に、私は疑問を呈しているのです。