この5月3日、日本国憲法は施行70周年を迎える。
金森徳次郎(1886~1959)は、昭和21(1946)年、第1次吉田茂内閣の憲法担当国務大臣として入閣し、帝国議会で約千五百回もの答弁をこなした。自ら「憲法の産婆役」と称し、国民の憲法への理解を求めて各地を行脚した。
そのため、現憲法最大の擁護者と目された金森だが、昭和33年、日経新聞の『私の履歴書』に登場し、「(憲法の)実体に悪いところはないと今も確信している。だが、戦争放棄に関する部分には気がかりな所がある。ポツダム宣言受諾以来やむを得なかった点があったが、今はもっと広い立場で考えてよいだろう」と述べている。
この金森見解をより確実にする証言が、この度、平山周吉氏の手によってもたらされた。金森の次女、中村あや氏とその夫君、中村純二氏(東大名誉教授・宇宙物理学)へのインタビューがそれである(平山周吉「『憲法の産婆役』金森徳次郎の遺言」『新潮45』2017年5月号)。
●金森徳次郎を護憲派と見ることの誤り
中村純二氏はいう。「私は第9条の戦争放棄はやめるべきだと思っていましたから、(義父に)聞きました。お答えは、アメリカの占領下なのでどうしようもない。『戦争放棄も象徴天皇制も憲法に入れざるを得なかった。あと数年たって占領が解ければ、第9条はやめたほうがいいです』。そうご本人からうかがって、非常に安心した覚えがあります」。金森を単なる“護憲派”と見るのは間違いである。
昭和21年の帝国議会は活発をきわめ、共産党の野坂参三の「自国防衛のために戦ふ戦争は正義の戦争である、わが憲法改正案にも戦争一般でなくて侵略戦争の抛棄を明記すべきである」という発言が飛び出した。
新憲法における天皇の地位と国体について問われた金森は、「見極め得る歴史の時代を通じて日本の国体は憧れの中心としての天皇を基本としつつ国民が統合している、この点は
●「芦田修正」を認めなかった真意とは
金森は、第9条2項のいわゆる「芦田修正」についても、議会での論議がなかったという理由で批判的だった。したがって、「芦田修正」を根拠に自衛のための戦力を保持できると解釈するのは無理があるという姿勢を保ち続けた。
平山氏は、前掲インタビュー記事の解説で、金森の長男である金森久雄氏の著作(『エコノミストの腕前』)から、「父は戦力を持たないのはあらゆる場合に当てはまると解釈していた」という部分を引用している。
この金森の判断は、結局、正しかったのではないか。現行憲法は、世の指弾を恐れるあまり「解釈改憲」を重ねた結果、ますます不磨の大典化していった。
柄谷行人氏は、その著『憲法の無意識』で、フロイトの「超自我」を援用しながら、憲法9条は国民の戦争に対する“無意識の罪悪感”を示しているとし、挙句、「選挙で勝っても、(改憲の是非を問う)国民投票で敗北すれば、政権は致命的なダメージを受けることになります。『解釈改憲』すら維持できなくなってしまう可能性もある。むろん、選挙でも、九条改正を唯一の争点としたなら、大敗するでしょう。だから、政府・自民党は、ふだんは公然と九条の改正を唱えているにもかかわらず、選挙になると、決して九条改正を争点にしないのです」と発言する。
柄谷説をフロイトに頼った牽強付会と一蹴するのはたやすい。しかし、朝鮮半島など国際情勢の危殆に瀕してもなお、遅疑逡巡を繰り返す自民党政権の“心理”を忖度すれば、この論は意外に正鵠を射ているのではないか。
昭和9年のこと、金森は法制局長官(現在の内閣法制局長官に相当)に就いた。が、まもなく美濃部達吉らとともに天皇機関説を展開したとして、軍部や右翼思想家の蓑田胸喜らからその責を問われ、辞任のやむなきに至る。
だが、谷崎潤一郎の旧制一高の同級生として、巧みなエッセイを書き、俳人としても知られた“文人官僚”金森は、心のどこかに余裕があったようで、「蓑田胸喜氏はいつも攻撃陣のえらい軍師だった。私たちも小さいながら被害者だった。河合栄治郎氏などもいじめられて結局病死した。蓑田氏は、終戦後熊本かどこかで自殺した。いつかお墓参りをしようと思っている。これだけいじめてくれた人は外にないから、こんな気を生ずるようになるのだろう」と書いた(『私の履歴書』)。
昭和23年、無類の蔵書家であった金森は、国会図書館の初代館長に就任した。いま、東京千代田区の北の丸公園にある国立公文書館では、金森の業績を中心に「誕生 日本国憲法」展が開かれている(5月7日まで)。