北朝鮮が度重なる弾道ミサイルの発射に加え、9月3日には6度目の核実験まで行った。むかし流行った山本リンダの歌ではないが、まさに金正恩の「どうにもとまらない」だ。
あの歌には、「はじけた花火にあおられて 恋する気分がもえて来る」という一節があるが、米国との交渉に持ち込むためという理由など、すでに飛び越えてしまったようだ。もはや、パラノイア、ストーカーのレベルである。
これは冗談ではない。今、金正恩が急に話し合いに応じるなどと言い始めても、国際社会は妥協のしようがない。そもそも、米国が全部放り出して東アジアから手を引くか、中国が人民解放軍でも投入して平壌を制圧しない限り、金正恩は核・ミサイル開発をやめないだろう。
これほど北朝鮮が注目されるのは、核・ミサイル開発をやっているからで、それを手放した北は、ただの貧乏な独裁国家にすぎない。妄言には誰も耳を貸さないだろう。もちろん、核・ミサイルを手放すなどと言えば、金正恩の権力基盤は失われる。そうなると、どう事態が展開しても、何らかの形で早晩、破局は来るということである。
●自らの手で救出する覚悟を
拉致問題について言えば、その間に金正恩が拉致被害者を返す取引に応じる可能性はほとんどない。可能性があるとすれば、日本が独自に核兵器を持つなどして、北に自らの核・ミサイルによる威嚇が自滅をもたらすと認識させたときだろう。だが、安倍晋三総理にそのような意志はない。もちろん安倍さんに限らず、次の総理を目指している政治家の誰にもないだろう。
北朝鮮の体制が破局を迎えたときは、日本にも難民が押し寄せるだろうし、その前段階でも、ミサイルの着弾とか、特殊部隊による攪乱とか、様々な非常事態が起こり得る。それはもはや、「これは存立危機事態なのだろか」などという悠長な議論をしている状況ではない。法律で対処できない事態も覚悟しなければならないのである。
そう考えれば、そもそも法律を無視して拉致された自国民の救出を他国に頼るのは論外である。国際法上は、自国民保護のための武力行使は認められている。もちろん部隊が上陸して戦闘をし、被害者を救出するという映画のような話は米国でも難しいから、現実的には交渉に軍事的圧力や情報戦、謀略戦も含めてやるということだが。
●国として当然の姿勢に返れ
この国は、いや私たちは、これまで戦後体制の中で、米国に守ってもらうことを前提とする歪な国家を維持してきた。今、その戦後体制が音を立てて崩れようとしている。北朝鮮による日本人拉致は、まさにその戦後体制の矛盾の象徴である。いかなる方法を用いても被害者を救出するという、国家としての当然の姿勢に立ち返るべきである。
「どうにもとまらない」には、「いつでも楽しい夢を見て 生きているのが好きなのさ」という一節もあった。私たちは、自分たちだけが舞台で楽しい夢を見て、舞台から足を踏み外したり、引きずり降ろされたりして夢を見られなくなった人たちを見捨ててきたのである。次の世代に、この状態のまま国を託すことだけは絶対にしてはならない。