日本人へのうぬぼれを見せびらかす韓国人が増えているのが気になる。文在寅大統領は8月29日の閣議で、日本政府の韓国に対する輸出規制について「日本は経済報復の理由すら正直に明らかにせず、言葉を変えながら合理化しようとしている」と批判し、「歴史問題に対する態度も正直でない」とも述べた。
文大統領の対日発言には、ときに子の間違いを正す親風の発言があって気色悪い。「盗人猛々しい」と訳されて話題になった8月11日の「賊反荷杖」の発言もそうだし、8月15日の光復節の演説にも日本へのうぬぼれがあり、まるで道徳的優越者のスピーチだった。より正確にいうと、この大統領の対日スピーチには機会主義と道徳的優越性の調合があって、それがあの一見やさしいお兄さん風の笑みとともに、国民には束の間の安心感を与えているのだろう。
●憑りつかれた文氏の本気度
この対日うぬぼれの態度、文在寅の独創というわけではない。1993年に大統領になった金泳三にもそれがあったし、その後の金大中や廬武鉉にもそれがあって、金大中の場合は、うぬぼれがよく自己コントロールされた例であり、廬武鉉の場合には、それがやや気恥ずかしそうに演じられた例である。
文在寅は、そのナイーブ派大統領の弟分に当たるが、廬武鉉的な気恥ずかしさが消えていることに注目したい。ここにはこの20年間の韓国の変化とともに文在寅の個性が反映しているのだろうが、気恥ずかしさが消えたということは、この人のうぬぼれがかなり本気であることを意味する。
とはいえ、それは自分が何者であるかを忘却したシャーマン的な本気であって、本物の道徳的優越性というわけではないだろう。金正淑夫人は釜山時代に裏千家の茶道教室に熱心に通っていたというし、娘は国士舘大学の21世紀アジア学部の留学生であった。大統領にとって最も重要な2人の女性が日本に道徳的優越性などを抱く人間でなかったことを彼が知らないはずがない。
●日韓関係誤らせる偽善の交流
政治家のことにばかり触れたが、個人的にいえば、韓国の政治家とのつき合いはほとんどないから、それでいやな目にあったことはない。しかし日本へのうぬぼれは近年、研究者やジャーナリストの世界にも蔓延していて、日韓をテーマにした研究会とかシンポジウムなどに行くと、そのうぬぼれが人文科学や社会科学の精神に融合して、まるでどこかの新興宗教の集会に紛れ込んだような気分になる。
うぬぼれ屋に共通するのは偽善者という態度で、思えば、この国はいつの間にか偽善者が蔓延する国になってしまった。偽善者とは善良であると偽る輩を意味するもので、近年の日韓交流とはこの韓国人偽善者と日本人偽善者たちとの交流という形をとることが多いが、偽善者たちの交流がこれからも続き、それが人々の心の習慣になると、いずれ日本人も韓国人も国際社会では変な人と見られるようになるのは間違いない。いやもうすでにそうなっているのではないか。われわれはしかし自らを辱める存在になってはいけない。