公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2020.06.02 (火) 印刷する

米国の領空開放条約離脱の意味 黒澤聖二(国基研事務局長)

 5月21日、領空開放(オープンスカイ)条約(Treaty on Open Skies)からの離脱を米政権が発表した。この条約は、加盟国の軍事施設を上空から相互に監視するもので、非加盟国のわが国には馴染みが薄い。しかし、極東ロシアを査察する米機が横田基地を経由してわが国領域を通過しており、全く無縁とは言えない。そもそも同条約はいかなるもので、米国の離脱にどのような意味があるのか、この機会に整理してみたい。

 ●信頼醸成と相互監視
 領空とは、国家の領域上の空間であり、たとえば国際民間航空条約(シカゴ条約)第1条は「締約国は、各国がその領域上の空間において完全かつ排他的な主権を有することを承認する」と定めている。このように領空では、領海に見られるような無害通航の権利は認められず、絶対的な主権が及ぶのだが、そこに相互信頼醸成措置の一環として例外を設けたのがオープンスカイ条約である。
 2002年に発効した同条約は、米ロをはじめ、東西対立時の両陣営(NATO=北大西洋条約機構及び旧WPO=ワルシャワ条約機構の諸国)で構成される34カ国が批准し、指定された非武装の航空機が、相互に上空から、軍事施設や紛争地域の様子を査察し、得られた情報を共有するというものだ。その内容はたとえば、年間の飛行割り当て(第3条Quotas)、使用できる感知装置(第4条Sensor)、査察機の種類(第6条Choice of Observation Aircraft)や飛行ルートなど、非常に細かく規定されている。
 なかでも、感知装置は ①光学カメラ ②ビデオカメラ ③赤外線装置 ④合成開口レーダーの4種類のみで、いずれも商業的な汎用品であることや、それぞれの解像度などの上限も厳しく決められており、無条件でオープンというわけではない。
 これまで18年間に1500回以上のフライトが実施されてきた同条約の下で、米国の正式な離脱は、締約国に通告された6カ月後に発効することになる。離脱の理由は、ロシアが一部の地域で査察飛行を制限し、条約違反が是正さていないと米政権が判断しているからだという。

 ●形骸化で影響は少ない
 米国の主張するところでは、ロシアはかねてよりバルト海沿岸、ポーランドとリトアニアに挟まれた飛び地にある軍事的要衝のカリーニングラードへの査察飛行を制限し、これが条約違反になるという。この地は、欧州全域を射程に収める中距離ミサイルの配備先になるとの見方も濃厚で、欧州諸国からの関心は非常に高い。また、親ロシア派が実効支配するジョージア領南オセチアでの査察制限も問題視されている。
 加えて、ロシアは米国内への査察飛行を通じ、サイバー攻撃の対象になる米国内の基幹インフラの位置を確認しているとの内部情報もあるという。
 しかし、飛行制限を設けているのはロシアに限らず米国も同じで、ワシントンDCなど数カ所で制限を課している。またトルコはロシアが予定したNATO基地に対する査察飛行を拒否している。
 つまり、軍事活動の透明性を監視するという目的に照らせば、実体としてはすでに同条約は形骸化しているとも言える。さらに、感知装置自体に厳しい制限があることから、偵察衛星以上の重要な情報を得られる確証はない。ならば、相互の監視飛行には友好親善の意味合いがあるとしても、米国の脱退による安全保障上の影響は、少ないと見るべきだろう。

 ●中国の台頭で事態変化
 5月25日、米国の脱退表明を受け、仏独伊など欧州11カ国が共同声明を発出した。声明は、米ロ両国を非難するとともに、通常兵器管理や共通の安全保障にとって有益な領空開放条約を今後も履行するとしている。だが、米国が脱退した場合、運営資金や指定航空機の割り当てなど、安定的な継続のための課題は多く、条約の枠組みを再考する必要が生じるに違いない。
 加えて、米ロ間の主要な軍縮条約のうち、2019年8月には中距離核戦力(INF)全廃条約が失効し、欧州でロシアの脅威が増している。さらに2021年2月には、戦略核弾頭の配備上限などを定めた新戦略兵器削減条約(新START)の延長期限を迎えるが、米国は、あらゆる核戦力を条約の制限対象にすべきとして中国の参加を主張しており、延長交渉は難航が予想される。
 米国が既存の条約から脱退する裏には、これまでの東西冷戦体制の残滓を引きずってきた軍備管理体制が、中国という強大なプレーヤーの急成長という事態に追い付かず、様々な欠陥が露呈してきたことがあるとも言えそうだ。それならば、世界の軍備管理体制の全面的見直しは可能なのか。その答えは残念ながら悲観的と言わざるを得ない。

 ●理想主義より現実主義で
 そもそも、重要な国際的諸問題を解決するはずの国際機関は、中国の政治利用の場と化している。現在15ある国連専門機関のうち、国際民間航空機関(ICAO)など4つの機関で中国人がトップを務め、着実に影響力を増している。
 中国人がトップにいなくても、世界保健機関(WHO)がコロナウイルス感染で中国寄りの発言をするなど、多くの機関がチャイナマネーの軍門に下った感を否定できない。対する米国は5月29日、WHOからの脱退を表明したが、米国という最大の拠出国を失えば、中国依存はむしろ加速するだろう。
 さらに、国際機関などで包括的な軍備管理体制が話し合われ、仮に中国不利に向かえば、南シナ海の仲裁裁判で見せたように、中国は独善的な理屈を展開し、自己に都合の悪い決定には「紙屑同然」として従わないことも容易に予想される。
 このような状態では、残念ながら、もはや国際機関には多くを期待できないし、新たな多国間の枠組み作りも、リーダーシップ不在で先が見通せない。このままでは綻びの目立つ軍備管理体制が早急に立て直される可能性は低いだろう。
 国際社会は理想主義ではなく現実主義で動く。米国の領空開放条約からの離脱が、期せずして我々に提示したのは、国連至上主義などの理想論を排し、国益と国益が衝突する国際社会の実態を直視しなければ、国家の生存は図れないという現実だ。