米ミネソタ州で黒人男性が警官の暴行を受けて死亡した事件以降、全米で激しい抗議運動が続いている。余波は映画にも及び、アカデミー賞作品『風と共に去りぬ』には差別的な表現があるとして、その配信が一時停止された。
時は1960年に遡る。16歳、高校2年生になったばかりの私は、学校の図書室で『風と共に去りぬ』を見つけた。時あたかも“60年安保”騒動が最高潮に達したころで、級友の何人かは国会前のデモに参加し、翌朝の教室で、ズボンをまくっては「お巡りに蹴飛ばされた」と脛の青あざを自慢げに見せつけたりした。そんな雰囲気は、かえって、南北戦争(1861~1865年)を背景とする小説に熱中させることとなった。
北軍(ヤンキー)の攻勢を前に敗北の色を濃くしていく南部人(サザナー)には、様々な人々がいた。美人ではないが男たちを惹きつけてやまないスカーレットをめぐるアシュリー、レットの三角関係、運命的な出会いに揺れる愛と性の葛藤は、16歳には眩しかった。
●決めつける危うさ
何より印象に残ったのはマミーと呼ばれる黒人の小間使いだった。この老奴隷は、厳しい躾でスカーレットをレディに育て上げていく。マミーという女性のたたずまいに感動した16歳は、果たして、奴隷制度容認の差別主義者として非難されるべきだろうか。
南北戦争のちょうど160年前の元禄14年、江戸城松の廊下では『忠臣蔵』の元となる刃傷事件が起こった。小林秀雄は、この事件を「歴史家が、たかが喧嘩に過ぎなかったと言い去るなら、美術家が、光琳の『かきつばた』は、たかが屏風に過ぎぬ」と語るに等しく、「切腹という封建的処刑の形式は、今日の絞首刑の形式より、それほど野蛮なわけではなかった」ともいった。
元禄の頃ともなれば、切腹の作法は洗練され、介錯人への合図は三方(台)の上の扇子を動かすだけでよかった。だから、「内匠頭は、首を打たれたので、腹を切ったのではない」。(引用いずれも『忠臣蔵Ⅰ』)戦後進駐して来たGHQが唱えた『忠臣蔵』=残酷な復讐劇説へのひとつの反論である。
●まず通説を疑え
フランスの政治思想家のトクヴィルはその著『アメリカのデモクラシー』(1835年、第一巻刊行)で、黒人以上に差別されていたインディアンへの見聞を書く。ミシシッピ川左岸に住むチョクトー族は、アメリカ政府の命令に従って安住の地をその右岸に変えようとしていた。
「私は彼らが大河を渡るべく船に乗るのを見たが、厳粛極まるその光景は決して私の記憶から去らぬであろう。(略)インディアンたちは一人残らず彼らを運ぶ船に乗ったが、連れてきた犬たちは岸辺に残された。船がついに岸から離れていくのを見るや、動物たちは一斉に恐ろしい吠え声をたて、ミシシッピの凍てついた流れに身を投じ、主人の後を泳いで追いかけた」(松本礼二訳)
こうしたインディアンの悲惨に最も心を痛めた大統領は誰か。リンカーンか、ケネディか、オバマか。それは、誰あろうニクソンであった。日本でニクソンといえば、ウオーターゲート事件で汚れてしまった大統領という印象だが、インディアンの一番の理解者だった。
本や事件や人物等を判断するには、まず、通説を疑ってみよということなのだろう。