公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2020.09.28 (月) 印刷する

渋沢栄一の知られざる一面 斎藤 禎(国基研理事)

 三つの文章を並べてみる。

① 時刻は夜十時ごろである。城の後門からひそかに忍び出た。このとき城門の衛兵が、「たれか」と銃をかまえて誰何した。慶喜はすかさず、「御小姓の交替である」といった。

② 四ツ(午後十時)すぎであった。門のかたわらに立つ衛兵が、近づく慶喜たちを眼にして、「だれか」と声をかけた。板倉が「御小姓の交替である」と、答えた。

③ 夜陰に乗じて大坂城外に出た。ときに正月六日夜亥の刻(午後十時)ごろである。一行は衛兵に誰何されたが、だれかが、「御小姓の交替である」といったので深くはあやしまれなかった。

この三つの文章は、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに自ら出馬すると見せかけて群臣をだまし、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静らわずかの供を連れて、夜逃げ同然に大坂城を脱出した際を描いたものだ。

シチュエーションは酷似し、「御小姓の交替である」という部分は、まったく同一である。

①は司馬遼太郎『最後の将軍―徳川慶喜』、②は吉村昭『彰義隊』、③は江藤淳『海舟余波』からの引用である。

幕末政治研究でも優れた業績

普通なら、盗作かと疑われかねないところだが、誰も盗作とは思っていない。有名作家の手になる文章だからだろうか。いや、そうではない。ご明察の通り、この脱出シーンには歴とした種本④が存在するからだ。

④ 六日の夜亥の刻(午後十時頃・原注)ばかりに、ひそかに後門より出で給ふ。衛兵の見咎みとがめて誰何しけるに、『御小姓の交替なり』といつわりたれば、深くもあやしまざりき。

種本とは、渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』のことである。司馬は例によって小説だからと同書を資料として上げていないが、吉村と江藤は明記している。

渋沢栄一は、第一国立銀行をつくり、五百余の会社を創立し、日本資本主義の大立者と専ら経済の面から紹介されることが多いが、彼が著者である『徳川慶喜公伝』がなければ、幕末維新を書いた小説は、ほとんど成立しないといっても過言ではない。

上の場面など、そのほんの一例である。

日本近代政治史の坂野潤治東大名誉教授は、明治・大正の大実業家として歴史研究の対象になっている渋沢栄一は、同時に幕末政治のすぐれた研究者でもあったのである。(『西郷隆盛と明治維新』)と、研究者としての渋沢を高く評価している。

後世に残した主君・慶喜の実像

十五代将軍徳川慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の第七子に生まれた。神君家康の再来と謳われ、十二代将軍家慶によって一橋家を継いだ。が、一方、先が見えすぎる慶喜は、鳥羽伏見の戦いでの出処進退でもわかるように、その言動には毀誉褒貶はなはだしいところがあった。

渋沢は、武州榛沢郡血洗島(今の埼玉県深谷市)で、藍玉を商う苗字帯刀を許された富家に生まれた。北辰一刀流を使い、攘夷の信念固く、横浜異人館の襲撃を企てようとしたほどの激しい気性の持ち主だったが、慶喜を賢君と見込んで数えで25歳の時、押し掛け同然にその家来となった。いとこ渋沢成一郎は、彰義隊の頭取(隊長)の一人である。

渋沢の信念は、通り一遍のものではなく、一たび公を主君と戴いた以上は、身を終はるまで臣子の分を尽くさなければならぬ(『徳川慶喜公伝』自序)を文字通り貫いた。

慶喜の異母弟、徳川昭武の従者として、渋沢がパリ万博(1867年)に赴くことができたのは、慶喜の推挙による。渋沢は、この時の見聞を一生の宝とした。

こうした主従関係の下、渋沢は、慶喜の“汚名”を雪ぐべく、その伝記の刊行を思い立った。最初は、福地源一郎を筆者に立てたが、明治40(1907)年、新たに兜町に伝記編纂所を開き、歴史・国文学者の萩野由之博士を主任として6人の気鋭の学者が編纂に当たった。脱稿したのは、慶喜没後4年の大正6(1917)年だった。10年の歳月を要したことになる。

批判的記述も従容と受け入れ

本伝4冊、付録3冊、索引1冊の堂々たる伝記だが、渋沢は経費と日時を惜しまず、一切を萩野博士らの専門家に任せた。(現在は、本伝4冊が平凡社東洋文庫版『徳川慶喜公伝』として読むことができる。)

文献蒐集家として知られ、『大君の通貨』など歴史・時代小説をものした佐藤雅美は、こう書いている。

「慶喜は自己を飾ることと責任を回避することに終始した卑怯者である。世にこれほどの卑怯者は珍しい。萩野博士以下もそんな慶喜の伝記を執筆することになってさぞや頭を痛めたのに違いないのだが、最後の最後まで筆を枉げなかった。慶喜を庇わなかった。たんたんと事実を事実として記述した。結果として『徳川慶喜公伝』は非の打ち所のない歴史書に仕上がっている。」
『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』

萩野博士らの筆を熟読し従容たる態度をとった渋沢もまた偉い。来年の大河ドラマの主人公、あるいは新1万円札の顔としての渋沢は、彼のある一面を示すにすぎない。