東北電力女川原子力発電所2号機(宮城県女川町、石巻市)の再稼働をめぐり、宮城県の村井嘉浩知事は11月11日、女川町の須田善明町長と石巻市の亀山紘市長との3者会談を開き、再稼働の前提となる地元同意を正式に表明した。既に各紙が報道しているが、なぜか報じられていないものがある。女川原発が東日本大震災時に震源に最も近く、15mを超える津波を受けたにもかかわらず、冷温停止を達成し、一時避難所として地元住民を救ったという事実だ。
史実に学ぶことの意味
女川原発の建設にあたり、東北電力は社内委員会を設置し、東北大学の地震や津波の専門家を入れ、半年間にわたる侃々諤々の議論を経て敷地の高さを床面で15mとしていた。
我が国には貞観津波の詳細な記録がある。貞観11年(西暦869年)の大地震発生とその後の被害状況について、記録には「雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達し野原も道も大海原となった。千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった」と記されている。
被災から4カ月後には、清和天皇が詔を発し、公民か夷狄かを問わず救護にあたらせ、死者はすべて埋葬するように命じた。被災者に対しては租税と労役義務を免除している。
東北地方各地には、「ここから下に家を建てるな」と記した石碑があるが、女川原子力発電所の敷地の高さも貞観津波の史実を教訓に決定されたものだ。土壌調査によれば、貞観津波が遡上した範囲は、東日本大震災の津波とほぼ一致した。
非常用発電機が機能発揮
地震発生時,1号機と3号機は運転中、2号機は定期検査中だった。震度6弱の揺れで全機が自動停止したが、1号機と2号機では非常用のディーゼル発電機計5台が直ちに自動起動した。
1号機では地震発生直後の14時55分には非常用冷却機器への電源が確保された。14時57分にはタービン建屋の地下1階にある常用系の高圧電源盤内で配線がショートして火災が発生したものの、すぐに電気火災用の炭酸ガスで消火している。「逃し安全弁」で原子炉内の圧力レベルも安全範囲に維持された。格納容器下部の圧力抑制プールの冷却も残留熱除去系で行われ,発災翌日の3月12日午前零時58分に冷温停止を達成した。
2号機は起動開始直後であったため,自動停止後ただちに冷温停止となった。原子炉建屋付属棟地下階に海水が流入して2台の非常用ディーゼル発電機が停止したが、もう1台の非常用発電機の機能は維持された。3号機も原子炉補機冷却系が正常に運転を続けたため、3月12日午前1時17分に冷温停止を達成し、全号機が安全状態になった。
住民救った付帯施設の開放
震災当日、日暮れを前に女川原発に近い石巻市鮫浦地区の区長らが発電所を訪れ、「鮫浦が全滅だ。集落にはまだ人がいる。避難させてほしい」と申し入れた。女川町や石巻市の海岸沿いの集落は津波によって壊滅状態にあり、東北電力は即決で受け入れを開始。11日に発電所で受け入れた避難者はたちまち100人規模に達した。
13日には、女川原発の体育館が解放され、最大364人の地域住民を収容する一時避難所となった。6月6日までの約3カ月間、発電所員と被災住民は寝食を共にした。女川原発は震源に最も近い発電所でありながら、全号機が冷温停止を達成し、避難所としての役割も果たしたのだ。
安全対策も万全
東日本大震災に耐え、冷温停止を達成した女川原発は写真のように高さ29メートルの防潮堤が築かれ、原子炉の事故の確率は隕石の落下確率より一桁小さい1億分の1まで下がった。再稼働に地元が合意した2号機は、福島第1原発と同じ沸騰水型軽水炉(BWR)だが、平成7年に営業運転を開始した比較的新しい型式で、厳しい新規性基準も全てクリアした。放射性物質を濾し取る設備であるフィルターベントも設置され、安全対策も万全である。
記者会見を開いた村井知事は「わが国は資源が少なく、二酸化炭素の排出量の増加が懸念される中、火力発電への依存が増している。一方で再生可能エネルギーは需要構造を支えるほどではない」と指摘した上で「安全性も確認されており、女川、石巻の両議会と県議会では(再稼働の)容認もなされている」と再稼働に同意した理由を説明した。地元住民を救った原発に対する地元の信頼は厚い。