公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

国基研ろんだん

  • HOME
  • 国基研ろんだん
  • 名誉毀損と表現の自由 植村裁判について(下) 髙池勝彦(国基研副理事長・弁護士)
2020.11.25 (水) 印刷する

名誉毀損と表現の自由 植村裁判について(下) 髙池勝彦(国基研副理事長・弁護士)

 前回に続いて、植村裁判の問題点を述べる。第2の論点は、名誉毀損と表現の自由に関する問題である。

植村氏は、櫻井氏や西岡氏から、捏造記事を書いたと批判されたのである。新聞記者(でなくとも)が、捏造記事を書いたといふことになれば、その社会的評価は下がるであらう。人の社会的評価を下げる行為を名誉毀損といふ。これは人格権に対する侵害である。通常は、損害賠償や、訂正記事、謝罪広告などを求める民事事件となるが、刑事事件となることもある(刑法230条)。

一方、捏造記事であると信ずる者が、捏造記事であると批判すれば常に名誉毀損になるといふのでは、表現の自由に対する重大な足枷となつてしまふ。そこで表現の自由と人格権との較量が問題となるのであり、従来、この問題は基本的人権の衝突・調整の問題として処理されてきた。

刑法では、名誉毀損に当たる行為であつても、公共の利害に関する事実であつて、専ら公益目的で行はれ、その事実が真実である場合には名誉毀損とはならないと定められてゐる(真実性、刑法230条の2)。真実ではなくても、条文の規定にはないが、判例で、真実であると信ずる相当の理由がある場合には、やはり名誉毀損ではないとされてゐる(真実相当性)。

民事では、名誉を侵害した場合は不法行為となり、損害賠償を請求できるほか、損害賠償以外に名誉を回復するのに適当な措置を請求できる旨の規定が設けられてゐる(民法710条、723条)。ただし真実性や真実相当性については何の規定もなく、判例により同様に取り扱はれてゐる。

緩和傾向の判断基準に問題

表現の自由は、精神的自由権の一種であり、個人の人格の形成発展のために必要であり、民主主義の維持発展のためにも必要であるといふ2つの面がある。

従来から表現の自由の意義のうち、個人的な人格権の面が強調され、名誉毀損との較量においても基本的人権の衝突の面が強調されてきた。しかし、アメリカなどでは、表現の自由は、民主政治の維持といふ意義が強調されてきたことともあいまつて、我が国でもその面が強調されるやうになつてきた。

ところがその反面、主として週刊誌などによる名誉毀損を例にして、損害額が低すぎるなどの批判が出てをり、損害額が高額化してゐる。これは、当初、公明党の国会議員が国会において損害額が低すぎないかと質問し、最高裁がそれを認めたことから裁判所の研究会が損害額の高額化を提唱して、ある時から一斉に高額化したのである。平成13年のことである。

松井茂記大阪大学名誉教授・加ブリティッシュコロンビア大学教授は、損害額の高額化に伴つて、裁判所が名誉棄損を認める判断基準がどんどん緩やかになつてきてをり、表現の自由を基盤とする民主政治に不可欠の要素が軽視されてゐると批判してゐる。

左翼お得意のご都合主義解釈

植村氏は櫻井氏を提訴する前、櫻井氏とワック社に損害賠償と謝罪を求める通知書を送つた。櫻井氏らはその要求を拒否したが、ワック社は、『WiLL』に紙面を提供するから文句があるなら反論を書いたらどうかとの回答書を植村氏に送つた。しかし、植村氏はそれに返事をせず、提訴した。一方、西岡氏には何の通知もせずに直ちに提訴した。

植村氏は、自分は捏造記事など書いてゐないと反論し、そこで論争が起きれば、何が問題点かが明らかになり、国民の知る権利に大いに貢献することになつたはずであるのにそれをしなかつた。

植村氏の訴訟は、一種の政治闘争であり、名誉毀損など単なる口実であるかのやうである。なぜなら、植村裁判を支援する左翼は、誤つた事実を「捏造」と表現したことが、表現の自由とは考へず、他方、愛知トリエンナーレ事件でみられるやうに、国民統合の象徴である天皇の写真を燃やしたりする映像が表現の自由の範囲内であるなどとする御都合主義の解釈を取つてゐるからである。

私は、左翼によるこの種の政治闘争である名誉毀損訴訟が近年、乱発されてゐるやうに思ふ。政治闘争として訴訟を利用してはならないといふつもりはないが、今回の植村裁判の論点は単純すぎる。名誉毀損と表現の自由の較量といふ重大な問題の論争に、あまり寄与しないのは残念である。