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2021.04.26 (月) 印刷する

前首相の寄稿削除と拡散、習体制内外に募る不満 阿古智子(東京大学教授)

 中国で2013年に引退した温家宝前首相(78歳)が、亡くなった母を偲ぶ「私の母親」という文章をマカオの週刊紙『マカオ導報』に寄稿した。3月25日から4月15日にかけて、4回にわたって掲載するという力の入れようだったが、中国大陸の新聞には掲載されず、ネットメディアなどに転載されたものの、すぐに削除され、中国版LINEの微信(ウィーチャット)などのSNSでの発信もできなくなった。

前首相は寄稿の中で、戦乱の中、苦しい生活を生き抜いた母から多くを学んだこと、父が1966-1976年の大衆政治運動・文化大革命で迫害されたこと、首相在任中に母から2度にわたって手紙を受け取ったことなどを綴った。これが文革の否定的なイメージを希薄化しようとする習近平指導部の反発を買ったとする見方もある。

母偲ぶ言葉に込めた思い

温家の初めての子どもは、一歳の時に肺炎で亡くなっている。1942年に生まれた第二子を「家の宝」と名付けたのは、両親が前首相の出生をどれほど喜んでいたかを表している。教師だった父は文革時に迫害され、「野蛮な尋問を受け、叩かれ、罵られた」。殴られた顔は、腫れ上がって目が見えにくくなるほどだったという。

首相という重責を担う温氏を思い、母は心配が絶えなかったようだ。2003年11月の手紙には、「あなたは今日、非常に高い地位にある。家族はもちろん、他にも支援がなければどれほど難しいことか。あなたは性格的に完璧を目指そうとするが、中国はとても大きく、人口の多い国であり、完璧にするのは難しい」と記している。人間関係を大切にするようにと、「孤独な木が森に成長するのは難しい」という言葉も添えられていた。

2007年10月の手紙にも、中国は人口が多く複雑であり、「一つずつ着実に取り組まなければ、効果は半分になる」と親心を吐露している。温前首相は、母は「とても強く、自立し、向上心があった」「貧しい人に同情する善良な人だった」と述べている。

母を偲びながら、温前首相は「永遠に人の心や人の道、人の本質が尊重され、永遠に青春や自由の気概があるべきだ」という自らの信念を明らかにしている。そして寄稿の最後を、「私は貧しい人々、弱い人々に同情し、軽蔑や抑圧に反対する。中国は公平さと正義に満ちた国であるべきであり、人への本質的な尊重と自由に奮闘する気質があるべきだ。そのために私も声を上げ、奮闘してきた。これは、私が生活を通じて学んだ真理であり、母が教えてくれたことでもある」と締めくくった。

規制しても拡散は続く

温前首相は在任中、普遍的な価値観に理解を示し、中国独自の政治改革の必要性にも言及していた。2012年3月14日の全国人民代表大会閉幕時の記者会見では、共産党内の民主化など政治体制改革を訴え、「文化大革命の過ちと封建的な影響は完全には払拭できていない。政治改革を成功させなければ、歴史的悲劇を繰り返すかもしれない」と述べている。

温前首相は、政治体制改革を進めず、過去の教訓を未来につなごうとしない習近平政権を暗に批判しているのだろう。今年、中国共産党は結党100周年を迎える。家族の苦難の歴史を紹介し、公平で正義の担保された中国を望む温氏の手紙は、同じような経験と考えを持つ多くの中国国民の心に深く染み入る内容である。厳しい引き締めが続く現在の中国の状況には、社会の各層から不満の声が上がっており、寄稿文には、強い政治的なメッセージも込められていると考えられる。

一方、2012年に米紙ニューヨーク・タイムズが、温前首相の夫人を含む一部の親族が、強引な手法で27億ドル相当の資産を蓄えていると伝えており、清廉潔白な母の名誉を回復したいという気持ちもあったのではないだろうか。家族や親族の蓄財に温氏自身、そして前首相の母がどの程度関与しているのかは不明であるのだが。

中国政府がどれほど言論を規制しても、温前首相の母への追悼文は拡散している。「庶民派首相」として人気の高かった温氏を懐かしむ声が上がっていることからも、公平性と正義を欠く現在の中国に、多くの人々が不満を抱いていることは明白である。