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国基研ろんだん

2021.09.06 (月) 印刷する

「アフガンの失敗」はドイツにも衝撃 三好範英(読売新聞編集委員)

アフガニスタンでイスラム主義勢力タリバンが全土をほぼ掌握したことは、ドイツにも大きな衝撃を与えている。ドイツは米英などに次ぐアフガン復興への主要な貢献国で、軍は大きな犠牲を払ってきたからだ。今後、国際軍事貢献の見直しが進み、内向きの傾向が強まる可能性もある。冷戦終結後、同様に貢献の拡大を進めてきた日本も、ドイツの動向を注視する必要があるだろう。

復興では主要当事者として関与

8月25日の下院演説でメルケル・ドイツ首相は、「20年間アフガン由来の国際テロはなかった」「子供の死亡率が半減した」と、ドイツ軍の活動は無駄ではなかったと強調した。同時に、自由の確立、女性の権利擁護などの目標が野心的すぎなかったかとも自問し、「文化的な違いをもっと真剣に受け止め、歴史的な経験をもっと重く考えるべきではなかったか」といった問いを突きつけられたとも語った。

メルケル氏の演説に悲壮感すら漂っていたのは、アフガンでの活動が、ドイツが冷戦終結後、積み重ねてきた国際軍事貢献の中でも最大規模であり、それが無残な結果になったからだ。

米中枢同時テロ(2001年9月11日)を行った国際テロ組織アルカーイダに対する米国主導の対テロ戦争で、アルカーイダの庇護者だった当時のタリバン政権は約1カ月でカブールから駆逐された。その直後の2001年11月、ドイツは西部ボン近郊でアフガン各派を招いた和平会議を主宰し、アフガン暫定政府発足を後押しした。また、このボン会合で合意したアフガンの治安維持に当たる国際治安支援部隊(ISAF)の指揮権を取り、その後、ISAFの指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移ると、北部地域を担当した。

言うまでもなく、米国がアフガンでの対テロ戦争の主体だったが、復興の局面ではドイツも主要な当事者として関与したことが分かる。

アフガンとの歴史的つながり

ドイツが意欲的に取り組んだ背景には、湾岸戦争(1991年)の教訓がある。ドイツは対イラク戦争を行った多国籍軍に加わらず、ほぼ財政的な協力に止めたことが、「小切手外交」と批判された。第二次世界大戦の敗戦国であり、ナチスの過去があるドイツは平和主義も強く、軍事貢献には拒否反応も残っていた。

他方、国力に見合った貢献を求める国際社会の期待も高く、軍事へのタブーを払拭し「普通の国」になるべきだという議論もあった。軍事貢献の拡大には、ドイツが背負った負の歴史の「克服」の意味も込められていた。

やや余談となるが、ドイツとアフガンの歴史的つながりにも言及しておきたい。あまり知られていないが、ドイツのアフガン支援はすでにワイマール時代に本格化し、王宮や大学もドイツの支援で建てられた。当時最も普及した外国語はドイツ語だった。第二次世界大戦敗戦時にアフガンには多くのドイツ軍が駐留していたが、当時のアフガン国王の尽力でドイツに帰国することができた、というエピソードもあったようだ。その恩義に応えるため、戦後、西ドイツはアフガン人への査証を免除した。大勢のアフガン学生がドイツに留学したという。

私は2007年12月、アフガン北部のマザリシャリフ、クンドゥズに1週間滞在し、ドイツ軍の活動を取材したが、そのとき接触したアフガン人は口を揃えて、「ドイツには好感を持っている。同じアーリア民族だから」と言っていた。これもワイマール時代にドイツに留学したアフガン学生の間で、そうした言われ方が広まったらしい。英国、ロシア(ソ連)などの勢力争い(グレートゲーム)に翻弄されてきたアフガンとしては、第三勢力としてのドイツに親近感を持ったのかも知れない。

こうした歴史的背景は今のドイツではほとんど言及されることはないし、ドイツ政府の意思決定に影響を与えているとも思えないが、両国関係を考える上で頭の片隅に置いておいてもいいかもしれない。

アジアへの関心は後退するのか

話を元に戻せば、アフガンへは最大5000人以上(2010年)の兵力を派遣し、コソボなどと並ぶ軍事貢献の中心的な活動となった。しかし、それは大きな犠牲と裏腹だった。一つの活動では最悪の59人が活動中に死亡した(テロ攻撃などで死亡したのはそのうち35人)。米軍の死者約2400人に比べればごく少数だが、ドイツの場合、「戦死者」を出す意味は極めて重い。アフガンで犠牲者が出るたびに、国内で大きく報道され、ISAFが終了した2014年12月の世論調査では57%が、アフガンの活動に否定的だった。

ドイツは現在も、計約2300人の兵士をマリ、レバノンなど世界の紛争地に派遣している。しかし、アフガン情勢を受けて、リベラル系の週刊新聞「ツァイト」は、軍事貢献には優先順位を付けるべきだとして、地中海の安定など欧州の周辺部に重点を置くべきと指摘している。

昨年発表された「インド太平洋指針」でドイツ政府は、安全保障面でもアジア地域に積極的に貢献する姿勢を打ち出し、8月にはフリゲート艦1隻がアジア太平洋に向けて出航した。しかし、「ツァイト」紙はこのアジアへの関与方針にも懐疑的な見方を示している。

今後のドイツ国内の議論を待たねばならないが、ドイツの国際軍事貢献は、国益上行うに値するかを吟味した上で、一層選択的になっていくのではないか。ドイツがアジア安保への関心を持ち出した矢先のできごとだっただけに、日本としてはその後退は残念なことではある。

日独が役割分担し復興を主導

言うまでもないが、日本も湾岸戦争の対応で、小切手外交の批判を受け、その後自衛隊派遣を積み重ねてきた。もっとも、日本の方が軍事貢献に関してドイツより抑制的で、アフガン貢献も、海上自衛隊が給油活動を行ったほかは民生復興が主体だった。

日本は2002年1月、元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏を議長として、東京での「アフガン復興支援国際会議」、12年にも東京で支援国会合を主宰した。また、警察の能力向上、元タリバン兵への職業訓練、インフラ整備、農業支援などに、この規模の国への支援としては巨額と言える計約70億ドル(7700億円)を拠出してきた。米国の経済支援が突出しているが、日本も英国、ドイツと並び主要な支援国の一つである。

2001、02年当時、日本、ドイツという似通った立場にある両国が、日本が経済面、ドイツが政治面と役割分担してアフガン復興を主導するべきだ。冷戦終結後の新しい国際秩序作りに日本、ドイツも手を携えて積極的に関わろう、といった意気込みを語っていたドイツ外交官のことを思い出す。

日本の支援は治安の安定、経済的な豊かさが、自由民主主義の発展を下支えするはずだ、との理念に基づくものだろう。その全てが失われるわけではないが、残念な結果となったと言わざるを得ない。しかし、重い意味を持つはずのアフガンの失敗が、日本にとってどこか他人事なのはなぜだろう。ドイツと比較するとそんなことも考えさせられる。

冷戦崩壊後の日本とドイツの国際貢献の歩みは、似通ってはいるが違いもある。ドイツとの比較は、日本にとっても今後の貢献のあり方を考える上でよすがになるだろう。