米連邦議会の上下両院合同会議における岸田文雄首相の演説(4月11日)を聴いていて、明らかに不足を感じた部分があった。拉致問題である。
北朝鮮の拉致に関して岸田首相が発したのは次のひと言のみだった。
「北朝鮮による拉致問題は、引き続き重大な問題です」。簡単すぎるだろう。事情に疎い議員なら、何のことか意味を取り損ねたかもしれない。
米国の上下両院議員を前にしての演説という機会を得ながら、なぜ米国人拉致に関する米議会決議に触れなかったのか。
失踪したスネドン青年
米下院は2016年9月に、上院は2018年11月に、それぞれ「デヴィド・スネドンの失踪に懸念を表明する決議」を採択している。いずれにおいても、北朝鮮による拉致の可能性が濃厚である旨が明記されている。
スネドンは2004年8月、中国雲南省を旅行中に行方不明になった(当時24才)。失踪からちょうど20年の節目という意味でも、首相はぜひ演説で取り上げるべきだった。
状況証拠や関係者の証言に照らして、スネドンは、北朝鮮から逃げてきた人々(脱北者)の中国からの脱出を支援した容疑で現地の中国公安当局に拘束され、釈放された後に、北朝鮮の国家安全保衛部員に拉致された可能性が高い。
東南アジアと境界を接する雲南省は脱北者が中国から自由世界に出る最終窓口に当たり、北の工作機関が網を張っていた。
中国公安当局の誰かが、金銭的報酬と引き換えに、釈放の時間と場所を北に教えたのではないかと分析する米専門家もいる(例えば米朝関係研究者チャック・ダウンズ)。
中国政府は、遺体は見つからないもののトレッキング中に転落死したものと見られると米当局に伝えてきた。しかし、家族が行った現地聞き取り調査によると、スネドンは渓谷を渡り切って、韓国レストランを訪れている(その後、中国側証人らは口を閉ざしてしまった。当局の圧力が掛かったと思われる)。
北工作員の英語教師に?
スネドンは、トレッキングに出発する直前、北京で友人(米国人留学生)と5日間を過ごしている。中国朝鮮族の研究に従事していた友人は、北朝鮮での調査を申請して却下され、その後、「好ましからざる人物」として中国当局から国外退去を命じられていた。中国当局は友人を監視対象にしていただろう。南方に向かうスネドンが友人と取り違えられた、あるいはスネドン自身が北朝鮮に「異常な関心」を持つ脱北支援活動家と疑われた可能性がある。
またスネドン失踪の直前(2004年7月末)、ベトナム政府が、自国に流入した脱北者468人の韓国移送を決定していた。それを受け、北朝鮮は、ベトナムを非難すると共に「共和国の同胞を脅迫し、誘い出し、移送したいくつかの国のNGO(非政府組織)に報復する」と宣言していた。
なまりのない標準英語を話し(家族の証言)、モルモン教の宣教師として韓国で暮らした経験から朝鮮語に堪能だったスネドンは、北朝鮮が工作員の英語教育に用いるにも最適の人材だったろう。
逸した日米共同対処の好機
スネドン失踪の真相解明を求める上記の米議会決議は、拉致問題で種々の情報を持つ日本の協力も求めるべきだとしている。
安倍晋三首相が米議会演説を行った2015年当時は、まだスネドンに関する決議は採択されていなかった。押しつけがましいとか、不意打ちをくらわされた、あるいは内政干渉ではないかなどと、反発する議員が出かねず、日本の首相が議会演説で取り上げるにはやや無理があったろう。しかし、今回はそうではない。
岸田首相が「ここにおられる議員諸氏が全会一致で通した決議」に言及しつつ、拉致問題への「日米共同対処」を呼び掛けることに、何の不自然さもない。
北朝鮮との交渉を複雑にするうえ、中国も絡むため、スネドンの問題を取り上げたがらない米国務省当局者も、議会からのプレッシャーが高まれば放置できない。日本の首相演説はそうした状況を生み得た。
日本の拉致被害者家族会の代表とスネドンの兄弟(私自身、過去に何度も会っている)を議場に招いて、議員たちに紹介することもできただろう。好機を逸したと言う他ない。(了)