4月11日に岸田文雄総理大臣が米国連邦議会の上下両院合同会議で行った演説については、日本のメディアの評価は総じて高いようである。総理一行に同行した記者による記事の中には、米国議会演説では見慣れた光景である「スタンディング・オベーション」が何度も起きたことに感激し、そのことをもって好意的に報じている様な純朴な感想が引きも切らない。
しかし、事は米国議会という日本の首相にとっては願ってもない大舞台での一世一代の勝負だった。今まで各国の首脳が練りに練ったスピーチを重ねてきた千載一遇の広報機会でもあった。一政治家の延命はともかくとして、日本の国益に照らして果たして十分に活用されたのか、という冷徹な分析こそが必要だろう。
以下、かつて外務省北米二課長、経済局長といった日米外交の最前線に身を置き、かつ、ワシントンの日本大使館での米国プレス担当官、日本国際問題研究所の所長代行等として対米広報やパブリック・ディプロマシーに心を砕いてきた経験を踏まえ、議論の材料を提供することといたしたい。
期待値の低さ
岸田演説の評価を論じる際に踏まえておくべきは、もともとの期待値の低さだろう。日本の国会や記者会見などで恒常的に見られてきた熱量不足の原稿棒読み、のみならず、文章の中での言葉の切り方や息継ぎ箇所の不適切さ、それらの総体がもたらしてきたパンチ力の決定的不足に、多くの国民は失望してきた。そうした国民が「聞く力」をとうに失ってしまってきたことも否めない。そのように見れば、英語での米国議会での演説に期待を高く設定する方が無理筋だったと言えよう。
加えて、ワールド・ベースボール・クラシック始球式での「女子投げ」に典型的にうかがわれたような、身の程知らずのKY(空気が読めない人)ぶりがある。およそ野球部出身とは思えない山なりの投球姿を見せることを恥ずかしいと思わない鈍感力だ。
したがって、米国議会での演説の前には、私自身も心配でたまらなかった。そこで、事前に官邸の広報担当や在米国大使館の幹部を通じて、「議会で演説する以上は、米国人コンサルタントをはじめ専門家の意見も聞きつつ、何度も練習をしておくべし」と申し入れてきた経緯もある。
こうした懸念、低い期待値に照らせば、前記の始球式の如き事態に陥らなかったのは日本国にとって慶賀の至りだ。しかし、虚心坦懐に振り返れば、話すべき内容、その内容の伝え方(デリバリー)の双方において改善を要すべき点が少なからずあったことも否定できない。
内容についての不満
演説終了後にある民放番組で米国人論客が「このスピーチは米国人が書いた」と述べたのを聞いた。事の真偽はともかく、そう思わせる内容であったのは間違いない。米国人が聞きたいメッセージだったのである。
端的には、「自由と民主主義」を奉ずるべき価値として前面に押し出し、それに基づく国際秩序をほぼ独力で維持してきたのが米国である、とまで阿った。のみならず、「日本は既に、米国と肩を組んで立ち上がっています」「米国は独りではありません」「日本は米国と共にあります」と繰り返して元気づけた。米国議会の演説で「郷に入っては郷に従え」とばかり、聴衆が聴きたいメッセージを送らざるを得なかった面は理解できる。しかし、日本国の総理としての付加価値はどこにあったのだろうか。誉めそやした後に、何故日本独自の注文をつけなかったのだろうか?
翻って、価値の重要性を説くのであれば、「法の支配」こそ前面に押し出すべきであったろう。ウクライナでの主権、領土保全の蹂躙、南シナ海での仲裁裁定の無視と軍事化の横行など、権威主義体制による「法の支配」からの露骨なまでの逸脱が現下の最大の課題なのだ。シンガポールをはじめとする同志国でさえ腰が引けてしまうような「自由」「民主主義」を日本の総理が米国議会で繰り返すことの適否こそ、慎重に考えるべきであったろう。
内容面での第二の不満は台湾への言及が皆無であったことだ。「今日のウクライナは明日の東アジアかもしれません」などという、いささか弱々しい言及では不十分だ。ともすれば台湾海峡の平和と安全に米兵が貢献することに対して腰の引けがちな米国議会であるからこそ、日本こそが米国を「巻き込む」工夫こそ必要だった。それこそ、戦略論の要諦だろう。
そして、残念だったのは、安倍政権であれほどまでに心血を注いできた「自由で開かれたインド太平洋」と、その実現のためのツールとされてきた「日米豪印のクアッド」の重要性がほとんど強調されなかったことである。
ことに「クアッド」については、日米韓、日米比などの三国間協力との並びで等値的に言及されたにとどまる。明らかに腰が引けているのだ。クアッドを牽引してきたのは日本であるだけに、クアッドの重要性を演説で強調すれば、国際社会にとって無視できない重要なメッセ―ジとして受け取られたことだろう。
日米関係について言えば、この時点で触れるべき大きな二つが空振りに終わってしまったことへの失望も大きい。ひとつは、日本製鉄によるUSスチールの買収だ。大統領選挙の年であるだけに、労組に尻尾を振るべくトランプが声高に買収反対論を唱え、バイデンまでもが追随せざるを得ないのが今の米国の体たらくだ。それに対して、岸田演説では日本企業の対米投資規模とそれによる雇用創出効果に触れるだけの一般論にとどまった。
なぜ、中国による鉄鋼生産が圧倒的重みを占める中で、これは日米連合によるサプライチェーン強靭化の努力の一環であるとのメッセージを総理自ら発出しなかったのか。日本企業の利益を守り、日米経済関係のさらなる強化を図る立場からは極めて中途半端なメッセージだった。
より卑近な次元では、大リーグで奮闘を続ける大谷翔平選手への言及が全くなかった点に心底がっかりした日本人も多かったと思う。率直に言って、今のアメリカで知名度が最も高い日本人は大谷翔平だろう。安倍晋三でもなければ、ましてや岸田文雄ではない。そして、「器用で小技には長けているかもしれないが…」との日本人一般についてのステレオタイプを完膚なきまでに打ち破ったのは、大谷翔平なのである。であれば、水谷一平通訳による想像を超える犯罪によって窮地に立たされてきた大谷選手の貢献を称え、その労をねぎらい、さらなる成功を祈るエールを送れなかったのか。同胞への心温まる気遣いこそ、求めたかったと切に思う。
発音とボディー・ランゲージ
では、演説の仕方(デリバリー)はどう評価すべきか。
国会便覧には英米での留学経験を誇らしげに記載しながら、碌に英語で意見交換ができない政治家を山ほど見てきた身からすれば、岸田総理の英語は悪くない。発音は比較的しっかりしており、ゆっくり話したことも手伝って聞き取りにくくなかったことは評価されよう。滑舌の悪かった安倍総理よりも、この面では勝っていた。
また、頭を下げて原稿棒読みとの印象を与えないよう、テレプロンプターを活用できたのも銘記すべきだろう。
そうであるだけに、サビの部分でどもったり、「ウクライナ」などの基礎的な用語の発音でつかえたりしたのは感心できない。一世一代の大舞台にしては練習不足と言われて仕方が無かろう。
ボディー・ランゲージにおいては、独特の華と愛嬌(チャーム)があった安倍晋三との差は否めない。そもそも猫背、がに股で肩を大きく振って歩く特異な姿勢は今更矯正は難しかろうが、誰かがアドバイスして目立たなくする工夫はなかったのだろうか。せっかく「日本国総理大臣」の肩書があるのだから、胸を張って背筋を伸ばし堂々と振る舞うだけで凛として見え、発言に重みを増したことだろう。
細かい点だが、スーツやネクタイの選択も大事だ。斜めストライプのレジメンタル・タイが大好きなのは分かるが、元々は英国の軍人や学生が自己の組織内での連帯を示すためのタイだ。米国議会での晴れ舞台で、右肩上がりの英国式レジメンタル・タイを締めていかなければならない必然性などない。他国の首脳であれば躊躇したことだろう。
ジョーク
演説でジョークを交える場合の欧米知識人の第一ルールは、他者ではなく自分を卑下するジョークにすることだ。その観点からは、「日本の国会では、これほど素敵な拍手を受けることはまずありません」と始めた出だしは、まずまず秀逸だった。
だが、その後の夫人自慢(「私が裕子と結婚したという一事をもって、私の決断全てが正しいものであると、皆様に信用いただけるのではないでしょうか」)は僭越の極みだし、日本人ならずとも鼻白むセリフだった。
さらに、1963年からニューヨークのクイーンズで小学校生活を送り、アニメ「フリントストーン」を楽しんだことをもって、米国人に対して「自分はあなた方の側にいるのですよ」と送るメッセージ自体は悪くない。だが、政治的立ち位置として「リベラル」を任じてきた首相としては底の浅い話でなかろうか。当時のニューヨークは公民権運動の風が吹き荒れた時代でもあった。英語も覚束ない東洋人たる自らが差別に晒されることもあったに違いない。そのあたりを嫌味にならずに前向きに言及する知的勇気と技量こそ、ベルサイユ講和会議以来、人種差別撤廃の先頭に立ってきた日本国の首相としては、示して欲しかったと思う。
最後に
ことほど左様に、たかがスピーチ、されどスピーチだ。
かつて英語でスピーチすることなど考えられなかった日本の首相が安倍、岸田と続いてスピーチを行ったこと自体は一歩前進だ。しかし、この程度のスピーチは、韓国、フィリピンを含め、アジアの近隣国の首脳も皆やっていることでもある。
国際社会の注目を浴び得る機会に、アメリカの「最も重要な同盟国」とまで大上段に振りかぶって宣明するのであれば、スピーチを通じて米国議員を良い気持ちにさせるだけでなく、きちっと日本国としてのメッセージを洗練した形で伝えていき、ひいては国益の実現に資することを追求していくべきだろう。
今や、日本こそが「身の丈以上の外交をする」(チャーチル元英国首相の言)ことを求められている。そのためには、言葉こそ最大の武器としなければならないのだ。(了)