マレーシアにおける金正男氏殺害事件にからみ今、にわかに注目を集めている化学兵器VXガスは、化学兵器禁止条約(CWC)で製造、保有、使用が禁止されている。しかし、北朝鮮はCWC非締約国であり、条約に拘束される法的義務はない。このことは何を意味するのか。
まずCWCについて概観しておきたい。CWCの前身は1899年の「毒ガス禁止宣言」であるが、これが毒ガス弾のみを禁止したと解釈され、1915年のイープル戦線でガス弾ではない塩素ガスによる大規模化学戦が展開された。
第1次大戦後、その反省をもとに1925年に広範な毒性ガスの使用を禁止する「ジュネーヴ議定書」が採択される。第2次大戦では、交戦者が互いの化学兵器による復仇を恐れたことから大規模な使用がなかったとされる。
しかし、ヴェトナム戦争での枯葉剤や、ソ連のアフガニスタン侵攻時の使用疑惑などで、再び毒ガス使用の禁止が叫ばれ、1993年に「化学兵器禁止条約(CWC)」が署名され97年に発効した。
●民生用薬剤でいつでも作れる恐ろしさ
CWCの特徴は、化学兵器の使用だけでなく、その開発、生産、貯蔵を全面的に禁止し、廃棄も義務付けていることだ。さらに、義務履行を確認するための査察制度を設け、化学兵器禁止機関(OPCW)が履行確保を担う。
査察はルーティンの現地査察(on-site inspection)が基本で、民間産業施設での生産に焦点を当てる産業検証も可能である。また違反疑惑を調査するためのチャレンジ(抜き打ち)査察まで用意されている。
この厳しい査察制度を持つCWCの締約国であるシリアにおいて、2015年にシリア政府軍が塩素入り樽爆弾を住民に投下したと、国連主導の調査団(JIM)が報告した。また、イスラム過激派組織ISが、シリア国内でマスタードガスを使用したという報道もある。
塩素は証拠が残りづらいし、テロリストはそもそも査察を受けいれない。また、例えばサリン、ソマン、VXといった神経剤製造過程の中間物質である有機リン化合物は、界面活性剤、水処理剤、難燃剤、潤滑油添加物、染料、医薬、殺虫剤などの原料になる軍民両用のデュアルユース物質である。したがって、民生用と偽って生産する欺瞞も可能である。いかに厳しい査察検証制度も完全ではない。使用する者の意図次第という現実を認識すべきである。
今回、話題になったVXは強力な毒性をもつ神経に直接影響を与えるガスで、皮膚からも吸収される扱いの難しい化学兵器である。韓国国防省が2009年に指摘したところ、北朝鮮はVXを含む2500~5000トンの化学兵器(シリアに輸出しているという報道あり)及び生物兵器に使用される13種類の細菌などを保有(生物毒素兵器禁止条約の加盟国なのだが)している可能性があるという。生物化学戦に関する高度な技術があると見てよいだろう。
●現実性増す北の攻撃に備えはあるか
軍事大国である米国をはじめ多くの国は条約に従い化学兵器を開発せず、既存のものも廃棄する。他方、北朝鮮は好き勝手にふるまう。その結果、かつて貧者の大量破壊兵器と呼ばれた生物化学兵器が北朝鮮による寡占状態となる。わが国はこの現実に目を背けてはならない。まずは北朝鮮をCWCの枠内に入れる国際圧力を高める外交努力をする必要がある。次に、いまや弾道ミサイルなど多様な運搬手段をもつ北朝鮮は、わが国の直接脅威の対象であることを認識し、したがって生物・化学戦対策を喫緊の課題としてわが国防衛上の要素として予算措置すべきである。例えばガスマスクの装着など、国民保護訓練の一環として民間人も訓練できることは多々ある。加えて、報復能力が抑止力となった第2次大戦の例から、北朝鮮国内の生物・化学戦能力に直接の打撃を加える報復手段を持つことも併せて考える必要がある。
3月6日の朝、北朝鮮は日本海のわが国EEZに弾道ミサイル3発を撃ち込んだ。どんな弾頭であれ投射手段を完成させ、いつでも撃てるという意思を示したと見ていいだろう。わが国は拱手傍観では相手に間違ったメッセージを与える。”Tit for tat”(目には目を)が肝心だ。それこそが単純な戦術の基本なのだ。