公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2017.07.24 (月) 印刷する

報道の使命とは倒閣運動なのか 斎藤禎(国基研理事)

 現役の編集者だったころ、よく山本夏彦老を事務所に訪ねた。満月のような丸い顔をほころばせて迎えてくれた。しかし、人を射抜くような目が時に怖かった。山本老は、新聞を徹底して批判した。「記事はまじめくさって、たわけたことを書く。広告は割引いて読むからいいが、記事は額面通り読むからいけないのである」(『かいつまんで言う』)
 いま、新聞、テレビは、加計学園、そして稲田朋美防衛相と南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報問題なしには、夜も日も明けない。ついこの間までの安倍晋三政権は、支持率も高く、マスコミが何を企てようが寸分も揺るがなかった。ところが、共謀罪、憲法改正発言、都議選敗北に、加計問題、PKO日報問題が加わって、支持率が下落しだすと、マスコミ(特に朝日新聞)は、ここを先途とばかりに安倍政権打倒に走っているかに見える。
 “社会の木鐸”の本音とは、倒閣運動のことらしい。面従腹背がモットーだという前川喜平前文科省次官を、いつの間にか“正義の人”に仕立て上げてしまった。加計問題で前川氏は、官邸が「行政を歪めた」というが、では、新聞、テレビに借問したい。1月に、前川氏が部下の天下り問題の責をとって職を辞したとき、マスコミは十分なる報道をしただろうか。

 ●「正義ほど胡散臭いものはない」
 くだんの元高等教育局長は退官後、日を経ずして早大教授に“天下り”した。その異例の早さを問われた早大総長は、記者会見で「文科省関係者を全部お断りすると言い切る自信はない」と答えた。私学の雄・早大の責任者にこうまで言わせたのは、前川氏への忖度ではなかったか。語るに落ちるとはこのことで、前川氏自らが“岩盤”を盾として、とっくの昔に“歪めて”いたのだ。
 菅義偉官房長官に質問を浴びせかける新聞記者やTVキャスターのしたり顔に“正義”が透けて見えてくる。山本老は常々いっていた、「正義ほど胡散臭いものはないね」と。南スーダンPKO日報問題にしてもそうだ。朝日のみならず産経までもが、稲田防衛相の辞任あるいは罷免に賛成しているかに見える。
 たしかに、国の要である防衛の重責を担うには、稲田氏は不適任だろう。しかし、陸自幹部がマスコミに稲田氏に不利となる情報をリークしているとする、まことしやかな報道をどう読むべきか。稲田氏の首をとったら、二の矢の狙いは間違いなく「首相の首」だ。「陸自、クーデター企図か」とか「文民統制はどうなっているのか」という新聞の大見出しが目に見えるようではないか。
 日中関係は緊張し、北のミサイルが飛来、テロさえ起こりかねない現状を、マスコミはどう判断しているのか。安倍倒閣にまなじりを決するばかりがその使命ではあるまいに。

 ●国を危うくするマスコミのお門違い
 わが敬愛する江藤淳が、「現代日本の社会は、『ごっこ』の世界によく似ている。……反米感情がさかんであるが、そのくせほかならぬ反米運動が米国に依存している」(『「ごっこ」の世界が終ったとき』)と、思考停止したままの言論を喝破したのは1970年のことだった。その本質は今も変わっていない。
 『シン・ゴジラ』という映画が去年、話題をさらった。シン・ゴジラは自衛隊では退治できず、結局、米軍のB2ステルス戦略爆撃機の爆弾によって日本は救われる、という設定となっている。作中、登場人物のひとりは、「日本はアメリカの属国なのだ」との感想を思わず漏らすが、文芸評論家の加藤典洋氏は、「淡々とした自明の口調で、この“タブー”が日本のエンターテインメント映画のなかで語られたことは、おそらくこれまでなかったはずである」(『敗者の想像力』)という。
 しかし、トランプ政権が「アメリカ・ファースト」というとき、映画の中で易々と語られたこのセリフはもはや力を失うかもしれない。「たわけたことを書く」マスコミのお門違いが、国を危うくする。