公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

国基研ろんだん

  • HOME
  • 国基研ろんだん
  • スーダンは「対岸の火事」ではない 安倍翼(「ソフトジャタス」ジェネラルマネージャー)
2019.07.05 (金) 印刷する

スーダンは「対岸の火事」ではない 安倍翼(「ソフトジャタス」ジェネラルマネージャー)

 4月のクーデターで軍が暫定政権を樹立したスーダンでは今、民主化を求める市民らの大規模な抗議デモが続き、政権側の容赦のない鎮圧行動で多くの死傷者が出ている。国営スーダン通信によると、6月30日もデモに際し、少なくとも7人が死亡、181人が負傷したという。
 私は、このスーダンで100%日本法人出資の資源開発会社の現地駐在責任者として働いていた。スーダン国内で金及びコバルト、ニッケルなどの稀少鉱物資源の調査、試掘、採掘を行う会社である。以下はクーデターさなかからの命懸けの脱出記である。
 筆者がなぜスーダン渡ったかは後で述べるが、そもそものきっかけは「国家基本問題研究所」との出会いだったと言ってもいい。貴重な経験を是非とも国基研の皆様にお伝えしたい。

 ●きっかけは国基研との出会い
 私と国基研の出会いは2008年、28歳の時である。
 当時、私は都内のある出版社で、テレビ番組の制作担当として働いていた。ある日、上司から「国家基本問題研究所」の「会員の集い」で記録用撮影を行うカメラマンを探していると相談を受けた。
 当時私は、政治、外交、国際情勢などに深く考える事もなく、時折友人や同僚と時事ニュースに関して話す程度に過ぎなかった。このため「生で櫻井よしこさんに会える貴重な機会だから是非行きたい、カメラマンと一緒に私も同行します」と上司に申し出たのも、軽率かつ不純な動機からだった。
 しかし、撮影担当として国基研のシンポジウムや会員の集いなどに参加させていただき、櫻井先生や田久保忠衛先生、また評議員の皆様のお話しを拝聴しているうち、今までテレビや新聞の中での出来事でしかなかった「政治」「外交」「軍事」「アジア情勢」が、いかに自分自身に直接関係する「リアル(現実)」であるかを知るようになった。
 国基研との出会いにより私は、仕事や日常において「日本人として私はどう振る舞うのか?」を強く意識するようになり、日本人として国家としての「日本」を真剣に考えるきっかけを与えられた。
 一方、スーダンとの関係ができたのは2018年1月、10年以上続けたに映像関係の仕事を辞し、地元高知で地域産品の海外販路開拓や四国へのインバウンド誘致などの仕事をしていた私に、友人から現在の仕事の誘いをうけたことからだった。
 全く未知の業種であったが、もともと関心があったアフリカでの勤務ということや、資源開発にも興味があったため、即答で誘いを引き受けた。

 ●即席でソーラー冷蔵庫を制作
 弊社のキャンプは首都ハルツームから北に約700㎞のリバーナイル州アブハマ近郊に位置する。陸路で約12時間、一番近い中規模の町からでも約2時間かかる。まさに「砂漠のど真ん中」である。
 キャンプ周辺には、小さな集落や村々が多数存在するが、砂漠気候であることからサソリが生息し、その毒による死亡事故が恒常的に発生していた。夜間、誤って裸足でサソリを踏んだり、物陰に潜むサソリに気がつかずに触ってしまったりすることが原因である。
 しかし致命的なのは、診療所に血清が無いことだ。電気を引けないエリアであるため血清を低温保管できないことだ。
 我々は普段より周辺住民と親交が深く、彼等を作業員として雇用している関係もあり、出来る事が何か無いかと考え、キャンプ周辺の村全ての診療所(10箇所)にサソリの血清を寄贈しようと動き出した。
 問題は血清を保存しておく冷蔵庫だ。ソーラー発電で動く冷蔵庫はハルツーム市内では見つからず、結局、ドバイから小型冷蔵庫、コンデンサー、ソーラーパネルを部品単位で取り寄せ、会社の日本人エンジニアが即席でソーラー冷蔵庫を製作した。

 ●粘り強い話し合いで成功
 しかし、地元住民とのトラブルがなかったわけではない。我々が調査採掘している現場で、一部住民が勝手にダイナマイトを使用して発破した事により、調査エリアの一部が崩壊したのである。
 これに対して現地のスタッフが作業中止を呼びかけたところ、住民側が反発、「ここは我々の土地であるから何をしても関係ない、政府発行のライセンスも我々には関係ない!」と主張しはじめたのである。さらに「日本人の企業であるなら、日本人の代表を連れてきて我々と直接話しをしない限り我々は作業を続ける」とスタッフを恫喝した。
 スーダン政府鉱物省の担当者からは、政府から派遣されている鉱山の武装警官(マイニングポリス)で排除したほうが良いと進められたが、実力行使に出た場合、地元住民との軋轢が決定的となるだけでなく、近隣の村々からの信頼を一気に失うと考えた。
 ちなみに、隣接する中国企業が以前、同様事案で武力行使を行った結果、地元住民からの強い反発をうけ、キャンプや精製プラントを燃やされるなどの大きな騒動に発展し、結局その鉱区から撤退を余儀なくされている。
 私は日本人が運営する企業としての誇りから、話し合いによる相互発展の道を模索することを第一と考え、安易な強硬路線を取りたくなかった。
 幸い、現地人スタッフを介した粘り強い話し合いは成功裏に終わった。

 ●電話で知らされたクーデター
 恒常的になっていた経済不安や燃料の不足が続く中、2018年12月、政府によるパンの値上げ発表をきっかけに反政府運動が全土に拡大した。
 2019年2月には、バシル前大統領(4月に拘束され退陣)が国家非常事態宣言を発令し、夜間外出禁止など徐々に緊張は増していった。4月6日にはデモ隊が大統領官邸近くの軍総司令部前での座り込みに入り、その際、治安部隊がデモ隊に対し断続的に発砲、催涙ガスなども使用した。
 この頃にはハルツーム市内において、デモ隊と治安部隊との衝突が連日発生していたが、国軍本部前の警備に当たっていた若い将校たちが市民の保護のため、治安部隊に発砲し、国軍と治安部隊との散発的な戦闘もはじまっていた。
 同じ頃、日本のNGO職員や青年海外協力隊メンバーは、一時退去の準備をするため、地方都市からハルツームに集まり、情勢を見守っていた。
 4月11日早朝、外の騒がしさで目を覚ました私は、事態を把握するために屋上から外を見渡していた。その時に私の携帯電話が鳴った。電話の相手はスーダンで医療活動に従事しているNPO法人「ロシナンテス」の川原尚行代表だった。
 「テレビをつけて下さい。クーデターが発生しました!」
 私は慌てて住居階に駆け下り、まだ就寝していた日本人スタッフを揺り起こし、すぐに出国準備をするように伝え、テレビにかじりついた。
 大統領を擁護してきた国軍がバシル大統領を拘束、国境及び空港を閉鎖し、スーダン領空は飛行禁止となり、アワド・イブンオウフ国防大臣兼第一副大統領がバシル大統領を解任したと現地の臨時ニュースは伝えていた。
 しかしその後、国民の抗議により、イブンオウフ氏は24時間で辞任し、軍出身のアブデル・ファタハ・ブルハン中将が新たに暫定軍事評議会の議長に就任した。

 ●思い知った有事の日米対応力
 クーデター当日からハルツーム市内全域の交差点などには正規軍部隊が治安維持のために配備された。ハルツームに繋がる主要幹線道路や橋は全て閉鎖され、都市機能は停止した。市街地には、歓声と銃撃音が交互に響き渡っていた。
 私を含む日本人は、在スーダン日本大使館からの情報を頼りに自宅や事務所にて待機して情勢を見守っていた。しかし大使館からの連絡は後手に回った。スーダン人同士のSNSによる情報の方が最新かつ精度が高かったため、我々はそちらを頼りに出国のタイミングを伺っていた。
 在留している日本人は、安全に出国する方法や出国許可取得の必要性など必要な情報が全く手に入らずに困惑していた。私自身も自社の日本人スタッフをどのように安全に帰国させられるのか、このまま事務所に留まって安全なのかなど、何も分からないまま2日間を過ごした。
 余談であるが、クーデター発生から2日後の13日には米軍の大型輸送機がハルツームに飛来し、スーダンに駐在する米国関係者を出国許可無しで強制的に国外脱出させた。
 有事の際の対応力、その早さには驚かされたのと同時に、一刻も早い出国を願い、インターネットで民間航空会社の運行状況を調べることに躍起になっていた我々にとっては、羨ましい限りの出来事であった。
 クーデター発生から3日目、弊社日本事務所から「在スーダン日本大使館に相談して越権的な問題が無いのであれば、自分たちの判断で在留している日本人の助けになるために働け」との指示があった。目が覚めた。怖いのは自分だけではない。状況が分からないのも自分だけではない。スーダンに在留している約150名の日本人みんな同じだ。私は行動に移した。

 ●自分たちで出国の可能性探る
 最初に行ったのは日本人同士の連絡体制の確立。無料通話アプリのグループ機能を使って「掲示板」を設置した。各NGO、青年海外協力隊など各団体代表2名をこのグループに登録して、最新の安否情報や情勢把握を共有した。
 掲示板の設置により、日本のNGOスタッフの一部が食糧や水に困っていることなどが次々と明らかになってきた。
 弊社は高い塀に守られた一軒家で、1階がオフィス、2階が住居になっている。かつ日頃より大量の食糧を備蓄していたので、空いているスペースを使って「避難所」を設置しようと考えた。
 まず単身者や少人数の団体に属している方々を招き入れ、安全な場所と食事を提供する事を決め、その旨を掲示板に告知し来訪を待った。
 しかし誰も来ない。当然である。外出禁止令が発令されている中、自家用車を持たない日本人が数㎞の道のりを移動してこられるはずがない。そのことに気がつかなかった。
 そこで方向転換し、自分たちから出向いて届けると決めた。社名の入った車では目立つので、スーダン人スタッフのボロボロのセダンに乗り込み、ハルツーム市内で開店しているスーパーや商店を探して走った。
 クーデター後の市内の様子は激変していた。幹線道路を走る車は少なく、燃やされたタイヤの残骸が道を塞ぎ、至る所に完全武装した治安部隊が展開し、道行く人は国旗を手にアラビア語で自由を叫び歓喜していた。いつどこで騒乱が発生してもおかしくない雰囲気であった。
 恐る恐る車を走らせながら、やっと開店している小さな商店を見つけて飛び込み、パン、水、お菓子などを購入し、孤立しているNGOの友人宅に向かった。友人は家族を同伴して駐在しており、クーデターの3日前から出国するため尽力していたが叶わず、ハルツームに足止めされていた。
 友人は連日の疲れと不安で憔悴していた。私は努めて明るく振るまい、「自分たちに出来る事がないか、出国できる可能性を一緒に模索しよう」など手短に会話を行い、最後に食糧や飲み物を手渡した。

 ●平和保つために必要なもの
 4月16日、前日にハルツーム空港の閉鎖が解除され、民間機が少しずつ運航を再開しはじめた。弊社スーダン人スタッフがエージェントを使い私達のチケットを確保してくれた。
 そして17日18時30分、私を含む弊社日本人スタッフ4名は、エミレーツ航空にてドバイに向け出国を果たした。離陸して約1時間後、座席前のモニターが、機体はスーダン国境を越えて紅海上空にある事を知らせていた。
 私は自社のスタッフを安全に帰国させられる事に安堵し、ビールを注文して隣席のスタッフとささやかな乾杯をした。
 スーダンは今、暫定軍事評議会により暫定政権の樹立に向けて動いている。しかし、その動きは遅々として進んでいない。
 私がスーダンでの経験で感じた事は、国家の持続的な平和を保つ為にはしっかりとした「軍事力」と「経済力」が不可欠であるという事である。
 今回のクーデターは30年間続いた圧政に対する市民の抵抗をきっかけにして勃発したが、背景にはスーダン国内の長年にわたる経済的な疲弊、そして圧倒的な生活格差がある。
 加えて、サウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)など周辺国の関与、暫定政権側の民兵組織・急速支援部隊(RSF、元ジャンジャウィード)の台頭など様々な要因が積み重なっていることは言を俟たない。
 つまりは、今回のクーデターもまたスーダンの外交・軍事・経済すべてにおける国力の低下が招いたものだと私は考えている。
 これは決して「対岸の火事」で済まされることではない。現在の日本に置き換えてみても共通する問題が多々あるのではないかと危惧している。

ss-6

ss-3