公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2020.03.10 (火) 印刷する

義和団事変でも正しい歴史認識を 島田洋一(福井県立大学教授)

 有元隆志氏が執筆した3月9日付の「今週の直言」に興味深い一節があった。中国の人権状況に一定の「懸念」を伝える日本政府に対し、中国側は義和団事件を反論材料に持ち出してくるという。以下は有元氏の「直言」にある「日本政府担当者」の言葉である。
 「中国側は明治33(1900)年の義和団事件に出動した日本などには中国の人権問題を批判する資格はないと反論した。清国時代の出来事なのだが…」
 これを見る限り、「日本政府担当者」は歴史認識に関し何ら再反論をしていないようだ。これはきわめて問題である。事実は中国側の言い分と正反対だからだ。以下、義和団事変と日本の関わりについて重要点を整理しておこう。

 ●義和団と協同した清国政府軍
 1900年、過激な排外主義を唱える宗教武術集団、義和拳と神拳が合流して「義和団」を結成、貧民層の支持を得つつ山東から勢力を広げ、キリスト教徒や外国人の殺傷および教会や鉄道の破壊など暴力をエスカレートさせつつ、6月、北京に入った。
 日英米露独仏など8カ国は5月31日、居留民保護のため、まず海軍陸戦隊あわせて約400名を公使館区域に入れたが、6月10日、北京―天津間の鉄道が破壊され、以後の増援部隊は足止めをくう。人心の帰趨を窺っていた清国政府が約10日後、8カ国に対して宣戦布告した。
 戦争となっても自国内の外国公館は保護せねばならないが、あろうことか清国正規軍は民間武装集団たる義和団と協働して公使館区域への攻撃を始めた。文明国では考えられない事態である。
 以降、約2カ月に亘って、8カ国の軍人、義勇兵あわせて約500人が、孤立無縁状態の中、圧倒的な数的優位を誇る相手との籠城戦を闘うことになる。
 総指揮官に互選されたマクドナルド英国公使(エジプト等で実戦経験をもつ)の下、日本の陸軍軍人で公使館付き武官に赴任したばかりの柴五郎が公館防衛戦の参謀長役を担うことになった。

 ●増派に慎重だった日本政府
 同時に柴は、戦略的要衝である粛親王府(約2万平方キロの大邸宅)の防衛も委ねられる。ここは各国公使館を結ぶ要衝で、かつ周囲より地勢的に高く、最後の砦である英公使館内を俯瞰して砲撃できる位置にあるため、敵の手に落ちると致命的痛手となる。
 柴は親王と折衝し、約3000人の中国人キリスト教徒も囲い入れた。「外城にあった幾千百の基督教民が義和団に逐い回され、男女老若、公使館外の城壁下にきて、悲鳴号泣して救いを呼ぶの声と、これを容赦なく虐殺する団匪の怒号と、相混じてじつに悽愴」(柴五郎『北京籠城』)という状況にあったためである。すなわち、多くの中国人らの命も柴らが助けたのである。彼ら中国人の一部は、バリケード作りや消火活動、敵への投石、伝令などの形で戦いに貢献した。
 この間、イギリス政府は再三にわたり、地理的に近い日本に増派を求めたが、ロシアが事ごとに牽制する。
 日本政府内でも、当時の桂太郎陸相などは、軍事的に大勝しつつも三国干渉を招いた日清戦争の「再演を戒めざるべからず」、「列国をして困難の極みに陥らしめて後、初めて之を救う事となさざるべからず」などと増派に慎重であった。
 福島安正少将率いる日本の臨時派遣隊(歩兵2大隊など)も、経路に当たる天津城攻略の必要があり、一直線に北京進撃とはいかなかった。その結果、柴らは、人的損傷と食糧火器弾薬の欠乏に苦しみつつ、相当期間を持ちこたえねばならなかった。
 8月14日、ようやく1万6000人からなる連合軍(日本軍が約半数)が大沽(タークー)、天津での戦闘などを経て北京城内に到達、武装集団を排除し公使館一帯は解放された。柴の事前調査に基づき、日本軍は清国側の主要な役所や兵器庫を列国に先駆けて接収する。その後に続いた軍政においても柴は軍事警務を担い、日本の担当区域が最も軍紀厳正との国際的評価を得た。

 ●北京在留外国人から高い評価
 籠城戦を共にした少なからぬ西欧人が、柴の「混乱を秩序へとまとめ上げる能力」を賞賛している。その一人ロンドン・タイムズ特派員G.E.モリソンは日記に、「小柄できびきびした柴中佐は必要な場所には必ずいつでも居る」と書き記している(ウッドハウス暎子『北京燃ゆ―義和団事変とモリソン』)。
 モリソンの詳報をもとにタイムズ社説は、「北京在留外国人の中で日本人ほど男らしく奮闘しその任務を全うした国民は他にいない。日本兵が輝かしい武勇と戦術をもって籠城を持ちこたえたことが、この事件の一大特徴」であると世界に報じた。
 林董(はやし・ただす)駐英公使(当時)は、日本の尽力に「歓喜」「感佩」したとの言葉が英女王から2度に亘ってあるなど、英国全般で大いに親日感情が高まったと回想している。
 北京攻防戦とその後の軍政を通じて日本が受けた評価は、1902年の日英同盟締結の下地となった。同年6月末のエドワード7世戴冠式に日本が送った訪英団の中に、柴五郎の顔があった。日英の絆を更に深めるため、日本政府が「籠城戦の英雄」を加えたのである。
 以上が、義和団事変と日本の関わりをめぐる概要である。「日本政府担当者」には是非ともこうした基本認識に立った上で、中国政府の人間と渡り合ってもらいたいものだ。