50年前の11月、作家の三島由紀夫が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で総監を拘束し、憲法改正のために自衛隊の決起を促したが、目的が達せられず割腹自殺した。報道各社は50周年を記念して特集記事・番組を作成し、元陸幕長等もテレビ出演していたが、当時任官前の幹部候補生であった筆者が自衛隊の一員として考えた事を述べてみたい。
指揮中枢奪われる危険と反省
武の理想としてはその字の如く戈を止めること、即ち戦いを止めさせるところにあるが、そのためには侵すべからざる正しい力を持ち、かつ威信がなければ、内乱すら無言のうちに鎮めることができない。その中枢を乗っ取られるということは生命を持つ組織体に例えれば死を意味する。
三島事件の3年後、札幌地方裁判所が、いわゆる「長沼ナイキ訴訟」で自衛隊を違憲とする初の判決を出す。当時は自衛隊に対する風当たりが厳しかった時代で、自衛隊に親密な団体を大事にする傾向があった。三島由紀夫の「楯の会」もその一つであったが、これは危険かつ反省を要することであった。
三島は、市ヶ谷のバルコニーに立って「自衛隊員よ!自分達を否定する憲法を守ろうとするのか!」と訴えたが、国家にとって大切なものは憲法よりも国家民族の生命であり、時期が熟して憲法改正ができるまでは現憲法に従わなければ国の秩序は保てない。当時はクーデターを起こしてまで憲法を改正する状況にはなかった。
クーデターで改憲はできず
三島の訴えに、市ヶ谷の自衛官は野次を飛ばしたが、これは最低である。言い換えれば三島は、味方にしようとした自衛隊の実情を知らなかった。自衛隊はクーデターを起こせる集団ではなかったということだ。その点、三島は「彼を知り 己を知れば…」という兵法の原則を弁えていなかったと言わざるを得ない。
憲法改正の世論を形成し、結果として憲法が改正されるのではなく、武力クーデターによって憲法を改正しようとすれば国が壊れてしまう。一挙に国は良くならず、無理をすれば、そこに過激性が生ずる。国民精神が健全に転じた結果として憲法が良くなっていくのが筋であろう。
無論、三島には賞賛すべき点が多い。純潔で礼節があり、強烈な情熱を持って活動エネルギーは絶倫、そして克己心が強かった。思想的にも個人の生命よりも尊いものの存在を認め、抽象的個人としてではなく日本人としての自覚が旺盛であった。
作家の村松剛は三島由紀夫の死を「諫死」と称したが、当時の闇のような世の中における閃光のような思いを抱いた。