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2021.05.19 (水) 印刷する

中国の少子高齢化が孕む危険性とは何か 堀茂樹(慶應義塾大学名誉教授、フランス研究)

 思想が人類の歴史を動かしていると思うのは、人文学系の者(小生を含む)にありがちな錯覚である。たとえば、18世紀前半にフランスの中央部でカトリシズムが劇的に衰退し、半世紀後のフランス革命の伏線となったが、それはヴォルテール(1694~1778)が理神論と教会批判の論陣を張った結果ではなかった。哲学者は時代精神に明確な言葉を与えたにすぎない。

経済を人類史の主動因と見做す人は今日でも多かろう。しかし、私は近年、主にフランスの人類学者エマニュエル・トッドに啓発され、識字率や進学率に表れる教育水準、伝統的な家族システムに由来する社会文化、それらと連動する出生率などの人口学的要素の方を、経済や政治の下部構造として捉えるようになった。そして、とりわけ人口という、到ってマテリアルな与件の現実性を重視している。

人口動態と国力

人口は、そのサイズと、一体感と、バランスにおいて、国のパワーの基礎を成す。

早い話、アメリカ合衆国が1776年の独立から約1世紀半で世界の筆頭国に成長したのは、驚異的な人口増加と軌を一にしてのことであった。建国時の米国の人口はわずか300万人だったのだ。当時のイギリス、フランス、日本の人口がいずれも、その十倍の3000万人前後だったことを思えば、いかに小粒な集団だったかが分かろう。現在では米国の人口は約3億3000万人であるから、建国時の1人が増殖して、なんと110人にもなった勘定だ。

逆に、ソ連時代に3億に近い人口を擁していたロシアの今日の人口は、日本の人口を少しだけ上回る約1億4500万人である。あの広い領土にこの人口では、軍事大国とはいえ、ソ連時代のような膨張力は持ち得ない。

こうした観点に立つとき、日本が1990年代から引きずっている少子高齢化現象を深く憂慮する一方で、今や超大国となった隣国・中国の情勢が気にかかる。

巨大なスケールの少子高齢化

14億超の総人口が中国という国の強みでもあり弱点でもあることは、誰もが知っている。大国のパワーの源泉として申し分ないといえるのは、単純労働力の供給という面だけを見てのことではない。たとえ全体の教育水準が低くても、仮に人口の5%が高度な知識や技術を身につければ、それだけで7000万人以上の精鋭を擁することになるという面も注目に値する。しかし、勿論、全体のサイズが大きすぎて、民族的にも言語的にも多様な全国に教育を行き渡らせ、国民としての一体感を醸成するのが困難であることは想像に難くない。

その上、中国の人口はバランスが悪い。国家統計局が今月発表した国勢調査の結果によれば、2020年の中国の総人口は約14億1200万人弱だが、このうち60歳以上の割合が18.7%、65歳以上のそれが13.5%で、いずれも10年前の数値を5.5%ほど上回った。しかも、合計特殊出生率が1.3にとどまっている。これは日本やイタリアと並ぶ水準の低さで、2016年に「一人っ子政策」を廃止した効果が見出せない。都市人口が全体の6割を超え、一家族当たりの人数が平均2.6人にまで減ったことも特筆に値する。

このデータから明らかなのは、中国の総人口がまもなく確実に減少に転じることだけではない。少子高齢化と都市化が進行し、人口構成が非常にアンバランスになっていくことがすでに確定的である。果たして中国社会は、早晩訪れる巨大人口ピラミッドの逆三角形化、「安い」労働力の供給不足、そして都市化にともなう核家族化加速の現象に耐えることができるだろうか。

現状では揺らいでいない「社会主義市場経済」

中国は、かの鄧小平が1978年末に「改革開放」路線を敷いて以来、共産党の一党支配で国民全体をきわめて強権的に統率しつつ、経済の領域では野放図なまでに自由な資本主義システムを採用し、1992年以降は「社会主義市場経済」の名の下で競争市場を営み、そのダイナミズムを急成長につないできた。権威主義的な政治と自由主義的な経済の両立が、開発途上と急成長の段階を超えても持続するのかどうかは、世界で夙に疑問視されてきたが、中国が2028年には国内総生産(GDP)で米国を追い抜くと日本経済センターが予測するほどにまで経済規模の巨大化した今日も、軋みはあるにせよ、その両立は揺らいでいない。

これを支えている大きな柱が、今年創設百周年を迎える中国共産党の組織であることはいうまでもない。国民の内に党員が現在9200万人いて、総人口の6.5%程度を占めている。共産党が中央の政治権力を握っているだけでなく、社会的エリートの立場を独占的に担っているわけである。この構造を的確に理解するために有益な補助線を紹介したい。すなわち、歴史人類学的に見て共産主義体制は、エマニュエル・トッドが『家族の多様性』(荻野文隆訳、藤原書店)で鮮やかに示したとおり、「外婚制共同体家族」の代替物にほかならないという事実である。

「外婚制共同体家族」と共産主義体制

外婚制共同体家族とは、中国で紀元前の昔に1000年近くも「直系家族」が存続したあとの紀元前200年頃に出現し、その後ユーラシア大陸の広大な空間に伝搬し、普及した家族形態である。

直系家族が長子相続を軸として「本家」を数世代にわたってタテに継承し、弟たちは「分家」させ、娘たちは余所へ嫁がせる家族システムであるのに対し、外婚制共同体家族では、父親の君臨する大きな屋根の下で息子たち全員がヨコ並びで同居し、一族の外から嫁を迎え、子を設ける。娘たちは一族の外へ嫁いでいく。父親に圧倒的な権威があり、息子たちの間に序列がないため、この家族システムによって育てられる価値観は超権威主義と徹底した平等主義である。いとこ婚を禁じる外婚制は、いわゆる「外向き」のメンタリティに対応する。

さて、外婚制共同体家族がかつて農村地帯で長く定着していた国および地域の分布図と、1917年のロシア革命以降に共産主義体制となった国および地域の分布図は、中国、ロシア、ベトナム、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、フィンランド、さらにキューバまで含んで、ほぼぴったりと一致する(北朝鮮は例外で、直系家族文化圏に属している。総書記が世襲なのはいかにも直系家族風だ…)。

この一致が起こった経緯はいかなるものか。人類史が近代に入り、産業構造の変化にともなって世界各地で都市への人口移動が起こると、太古から核家族主流であり続けた地域を除き、世界中の農村地帯で伝統的家族システムが壊れたのだが、人びとがその移行期の空白と不安を埋めるべく各地で採用した政治体制は、大抵の場合、当然ながら、その人びとが地元の伝統的家族システムを通してすでに培っていた価値観や秩序感覚に馴染むタイプのものだったのだ。

かくして、20世紀に人類への普遍妥当性を自負して登場した共産主義も、実際には、長きにわたる外婚制共同体家族の伝統の中で権威主義と平等主義(+外向きのメンタリティ)の組み合わせをすでに社会文化的特徴としていた国および地域の人びとにしか、少なくとも自発的には採用されなかったのである。

中国には共産主義を受け容れやすい人類学的与件が存在したわけであり、中国共産党は今日もなおその与件を利して、外婚制共同体家族における権威主義的な父親のように振る舞い、建前上の平等主義で国民を統制している。

「火種」となり得る平等主義

中国の政治体制が、このように外婚制共同体家族モデルの政治体制であるとすれば、そのアキレス腱は平等主義にある。兄弟姉妹の序列を規範とする直系家族の文化が同じ国民の間の不平等をかなりの程度まで許容するのと対照的に、共同体家族の文化は、社会的不平等に対して、良くいえば反抗の気概があり、悪くいえば堪え性がないのである。

周知のように今日、中国国民の間には途方もない貧富の格差が生まれている。階級闘争や都市と農村の対立がこれまでのところ未だ激化していないとすれば、それは「改革開放」政策の採用以来、国民経済全体のパイが大きくなり続けてきたからにちがいない。共産主義の建前が平等主義で、共同体家族の規範も平等志向である以上、分かち合うべきパイの拡大のペースが落ちるとき、資本主義経済のもたらす不平等の現実が民衆の反発を呼ばないはずはない。

してみると、遠からず、中国の最新の人口動態――まもなく減少に転じる総人口、巨大規模で不可避的に生じる少子高齢化、都市部への人口集中の加速――の圧力が、あの国の社会にアンバランスと分断をもたらし、経済的不平等の問題を先鋭化する可能性が大きいのではないだろうか。そのとき、政治イデオロギー(共産主義)の平等主義と人類学的与件(外婚制共同体家族)の平等主義――いずれもそれ自体としては決して「悪い」ものではない――が相俟って、強力な火種を構成しかねない。そのタイプの危機に直面すれば、中国共産党は当然持ち前の権威主義を駆使して事態を抑え込もうとするだろうが、それでも不平等の問題を覆い隠せなくなるとき、出口を求め、国の内外で冒険的な行動に走る可能性も小さくない。われわれが危惧すべきはその点であろう。

今後、わが国の少子化の克服に今度こそ本気で取り組みつつ、中国の人口動態を賢く、警戒心をもって注視していかなければならない。