3月19日、岸田文雄首相はインドを訪問し、モディ首相と首脳会談を行った。隔年に行われることになっている日本の首相の訪印は、2019年12月に予定されていた安倍晋三首相(当時)の訪印が直前で中止(正式には「延期」)となり、その後の新型コロナウイルスの感染拡大のため延び延びとなっていた。
周知のように、ロシアのウクライナ侵攻に対する国連安全保障理事会におけるロシア批判とロシア軍の即時撤退を求める決議に対して、中国、アラブ首長国連邦(UAE)と並んでインドは棄権している。
反露で日印協調打ち出す無理
岸田首相の今回の訪印はロシアの侵攻開始前から計画されていたものであり、岸田首相はクアッドの一員として反ロシアの立場をインドに明確にしてもらうためにインド訪印したわけではないが、年内に日本で開催されるクアッド首脳会議に向けて、今回の首脳会談でそうした外交的成果を上げようと考えていたことはある程度想像できた。
インドにとっては日本が最も信頼できるパートナーであり、それはインドを重視してきた安倍元首相の力によるところが大きい。しかし、1947年のインド独立から今日に至る長いタイムスパンでみると、インドでは最も信頼のおける「戦略的パートナー」はロシア(旧ソ連)であるという意見が根強いという事実は、日本ではあまり知られていない。そうしたことから、日印が反ロシアで歩調を合わせることを首脳会談で目指すことは、もともと無理筋であった。
それでは、なぜロシアはそれほどインドにとって戦略的に重要なパートナーなのか。
インドはロシアを「特別で特権的な戦略パートナー」と位置付けており、インドが最初に毎年首脳会談を行うことにした国は、日本と並んでロシアである。プーチン大統領は2021年12月にインドを訪問しているが、新型コロナ感染拡大でG20サミットも気候変動サミットも欠席し、中国訪問もオリンピックまで延期した同大統領が、インド訪問だけは延期しなかった。
インドは冷戦時代、「非同盟」の方針を取りつつ、伝統的に旧ソ連及びロシアとの友好関係を維持し、武器を購入してきた。1962年の中印紛争と時を同じくして中ソ関係も悪化し、インドにとってソ連との関係はさらに重要なものとなった。1971年の第3次印パ戦争では、地政学的な観点からインドよりパキスタンを重視した米国と、印パの旧宗主国である英国が、インド洋とアラビア海にそれぞれ戦艦を派遣してインドを牽制したが、それに対してソ連は戦艦を派遣してインドを守り、そのお陰もあってインドはパキスタンに勝利した。
経済面でもインドは永らく旧ソ連への依存関係にあった。外貨の不足に悩んでいたインドは旧ソ連とルピー建ての決済で貿易をすることも許され、鉄鉱石や紅茶などを輸出してきた。ソ連邦崩壊後もインドはロシアと一貫して友好的な関係を続けてきた。ロシアは1998年のインドの核実験の際も日本や欧米諸国と違って制裁を科しておらず、それ以外にも国連安保常任理事国のロシアは、インドを折に触れて国際政治の場でサポートしてきた。そうした期待は今後に対しても根強くある。
ロシア製武器が大半のインド
2019年にカシミールでテロがあった際、インドはパキスタン領土内のテロ組織の拠点を攻撃した。今後テロ問題でインドが本格的な対パ軍事行動を行うことになったとしても、ロシアが国連のインドに対する非難決議案に拒否権を行使してくれれば、インドは軍事作戦実施のための時間が稼げる。中露関係を考慮すると実際にはそれは難しいかもしれないが、インドでは少なくともそういった期待はある。
長い年数をかけてインドで培われた「信頼できるパートナー」としてのロシアのイメージは、アフガニスタンの撤退の時にも明らかになった「信用のならないパートナー」という米国のイメージとは大きく異なる。親子代々インド外交の中枢を担ってきたジャイシャンカール外相がそういった考え方を強く持っているのも当然理解できる。
日本では、インドが米国ブロックに加わらないことを理解できない向きもあるが、仮にそのようなことをすると、ロシアは中国側に加担することになってしまう。これはインドにとっては最悪のシナリオで、米国が当てにできないインドにとって、その選択は不可能である。
近年インドにおけるロシア製の武器の比率は減少傾向にあるとはいえ、いまでもインドの兵器のハードウエアの68%はロシア製(旧ソ連製)であり、それに続く米国とイスラエルのシェアは遥かに小さい。ロシアからの部品の供給が途絶えれば、インドの兵器は使えなくなるとシングラ外務次官も述べている。
最新技術を出し惜しむ米国と違い、インドにとってロシアは最新鋭の兵器を惜しみなく供給してくれる国でもある。「メイク・イン・インディア」政策の一つの柱である軍事産業におけるロシアの対印投資は、技術移転にもつながると期待されている。
2018年のプーチン大統領の訪印時、インドは地対空ミサイルS400を4機購入する5500億ドルの巨額契約を結んだ。一部はすでにインドに到着し、北部と東部の中国国境地帯に設置されている。米国は2020年に同じS400を導入したNATO加盟国トルコに経済制裁を発動しており、インドにも自制を呼び掛けたがインドはそれを無視した。クアッドの一員であるインドに対して制裁を科すのは得策ではないという米国の考えからだろう、インドに対する制裁は(一度限りとされているが)発動されていない。
ロシアから見てもインドは戦略的に重要である。旧ソ連邦の国々のロシア離れが進む中、クアッドの一員とはいえ「非同盟外交」を掲げるインドは重要なパートナーである。中国との関係においても、ロシアは上海協力機構(SCO)にインドを正式メンバーとして招き、インドは中央アジアにおける中国の影響力を減らす役割を担っている。「中国の格下パートナー」としてみなされることも多いロシアではあるが、ロシアにとって「信頼度」という点では、インドの方が中国より上である。
そのためロシアは「中印間で戦争があった場合には中立を保つ」とする一方で、インド向けの兵器の供給は続けると考えられている。インドの知識層の間では、中国と万一戦争になった時に最初に助けてくれるのは、ロシアとイスラエルだという考えも強い。米国はというと、ブリンケン国務長官が訪印の折に、非公式ではあるが「中印間に万一のことがあっても米国は助けに来ない」と伝えたという報道もある。
インドが避けたい中露の接近
もちろん、ロシアがインドにとってどれだけ戦略的に重要なパートナーであっても、日米豪印のクアッドの意義が揺らぐことはない。ロシアのウクライナ侵攻の結果、インドにとってのクアッドの戦略的重要性は一層高まっている。1962年の中印紛争は、キューバ危機で米国の目が離れた隙を毛沢東がついたものである。ロシアのウクライナ侵攻に触発された中国が、インドに侵攻する可能性がないと誰が言えようか。
岸田首相の訪印の2日後、モディ首相はオーストラリアのモリソン首相とオンラインで首脳会談を行った。その後にインドのシングラ外務次官は「モリソン首相はインドとロシアの関係を理解し、クアッドをウクライナ問題と切り離し、印豪両国はクアッドを通してアジア大洋州の安定に尽力することで合意した」という趣旨の記者会見を行っている。
日印では岸田首相がモディ首相に対して日本の姿勢を「伝えた」ものの、ロシア問題で両国は完全には合意できなかったことがメディア報道で強調されたのとは、対照的である。
岸田首相がクアッドに先立ってインドが離脱しないように対ロシア非難を強める側につくように申し伝えたのであれば、それは無理筋であるだけでなく、岸田首相にとって首相として最初の訪印であり、モディ首相との会談であるのに、インド側の印象を悪くしかねず、残念な結果になりかねないと筆者は考えていた。
もちろん岸田首相もインドとロシアの関係は理解していた筈だし、ロシアを説得することは当初から期待していなかったであろうが、そうした理解や意図がインド側に伝わったかどうか、誤解されたところがなかったかどうか、気がかりなところである。
日本としては、今回の首脳会談の目的はウクライナ問題でクアッド参加国の反ロシアでの結束を示すことではなく、そのインド太平洋への影響を議論することであるということを最初の段階で明らかにしてから議論を始めるべきであったであろう。
その観点からいうと、わざわざ出向いた日本の岸田首相より、オンラインで会談を行ったオーストラリアのモリソン首相の方が良い印象を与えたと、個人的には考えている。
クアッドとロシア非難切り離せ
岸田首相訪印の前、ロシアは大幅な割引価格で原油をインドに売ることを持ちかけていて、決済はインドルピーとルーブルで行われる予定で、インド政府が検討していると報道されていた。かつて米国の圧力でイランからの安価なエネルギー供給を断念せざるを得なかったインドであるが、今回は結局このロシアの申し出を受け入れることとなったようで、そのニュースはタイミング悪く、岸田首相訪印と同じ日に流された。
2018年の5月の大型連休に当時自民党の政調会長だった岸田氏はインドを訪問しているが、モディ首相との面会はかなわなかった。しかし、今回は首相としての初の首脳会談の訪問先にインドを選び、準備も万端であった筈だ。外交における首脳同士の個人的な関係はきわめて重要である。
しかし、この最初の首脳会談で無理筋のロシア問題を持ち出して暖簾に腕押しに終わり、本来ロシアではなく中国を念頭に置いている筈のクアッドについてもフォーカスをずらしてしまったようだ。この辺り、中国に対して、日本よりも厳しい立場で臨んでいるオーストラリアの方が、インドを十分に理解していたという点で差が出てしまった。
過去にモディ首相インドの立場を十分に理解することなしに進めてうまくいかなかった日本の対印外交は、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)へのインドの参加に際しても見られた。そもそも中国との自由貿易協定(FTA)に相当するようなRCEPにインドが参加することはありえないのに、日本政府はことあるごとにインドとの政府間協議でRCEPを持ち出し、インド側からは快く思われなかった。そのようなことさえ日本側では認識されていなかった。
年内には東京でクアッドの首脳会談が行われる。今回の首相訪印から軌道修正して、「クアッドは対中を念頭に置いているものだ」ということでメンバー国は団結し、ロシアに一致して圧力をかけることを議論するのではなく、ウクライナ危機が中印関係を含めたインド太平洋に及ぼす影響を中国を念頭に議論できるよう、日本政府には軌道修正をしてもらいたい。
まだ時間は十分にある。インドがおかれた立場を正しく理解することは、モディ首相と岸田首相の個人的関係を深めるためにも重要だが、そうでないと、折角クアッドの首脳会談を行っても、中国に「クアッドは焦点が定まらず、メンバー国同士の考えもまとまっていない」という誤ったメッセージを送ることにもなりかねないからである。