安倍晋三元首相がテロ行為によって殺害されたことは、インドにも大きな衝撃を与えた。モディ首相は「最も親しい友人の悲劇的死去に、私は言葉にできないほどの悲しみと衝撃を受けている」とツイッターに投稿し、事件翌日の7月9日にインドが国を挙げて喪に服すると発表した。インドで過去に他国政治家の死去を受けて国全体が服喪した例を私は知らない。
モディ氏と安倍氏の付き合いは、モディ氏がまだグジャラート州の首相であった時代に遡る。同州の宗教暴動で大量の死者を出した責任を問われ、米国に入国することも許されなかったモディ氏と、首相になったばかりの安倍氏が交流することに、日本の外務省は異を唱えたが、安倍氏が押し切ったとされる。
筆者はグジャラート州首相のモディ氏が来日してセミナーを行った会場にもいたが、数百人の日本企業のビジネスマンが集まり、セミナー後には長蛇の行列をつくってモディ氏の真っ赤で横長の目立つ名刺を受け取っていた。グジャラート州に投資を呼び込みたい当時のモディ氏にとって、安倍氏の存在は慈雨のようなものに見えたに違いない。
モディ首相との親交
そもそも安倍氏にとって、戦後間もない時期に祖父岸信介元首相の訪問を温かく受け入れてくれたインドの存在は、特別なものだった。安倍氏が最初に自民党総裁選で勝利する前に出版された著書「美しい国へ」には、「インドとの関係をもっと強化することは、日本の国益にとってきわめて重要だ」と書かれている。
安倍氏の首相としての最初の訪印は入念に計画された内容の濃いもので、インド国会での「二つの海の交わり」と題する演説は、インド洋と太平洋を一体としてとらえる「インド太平洋」という概念を打ち出したことで知られる。演説の中には明治時代の日本を訪れたインドの宗教家スワミ・ビベカナンダの名前まで出てきて、インドで大喝采を受けた。
この訪印では、戦後の東京裁判で日本無罪論を主張したインドの故パール判事の孫に面会するためコルカタまで日帰りで足を運んだが、この強行軍が災いしてか、安倍氏はインド滞在中に健康を崩し、帰国後に入院して首相を辞任した。
安倍氏が首相に復帰してから暫くして、モディ氏もインドの首相に選出され、2人の交流が再び始まった。この頃には中国の台頭が顕著となり、日印関係の重要性は否応なしに増し、両首相の個人的な親交はその後押しに大きく貢献した。
モディ首相にとって安倍氏がいかに大切な友人であったかは、安倍首相の訪印時の破格の待遇に見て取れる。安倍首相のグジャラート州訪問では、モディ首相自ら空港に出迎え、首脳会談会場までスズキのオープンカーに乗った両首相を沿道で数え切れないほどの住民が日本国旗を振って迎え、踊り子たちが伝統舞踊を披露して歓迎した。沿道は事前に消毒されるという気の使いようであった。
安倍首相以外に、中国の習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領、米国のトランプ大統領(当時)、岸田文雄首相らがモディ首相に招かれてインドを訪問しているが、これら首脳に対する待遇は安倍首相と比較にならない簡素なものであった。
計り知れない損失
安倍氏はマンモハン・シン前首相の時代から日印関係強化で多くの実績を残した。その最大のものは日米豪印戦略対話(クアッド)の構築である。安倍氏は、中国を恐れて西側諸国との軍事協力に消極的なインドを4カ国対話に引き込むことに成功した。
第二は、日印原子力協定を結んだことである。核拡散防止条約(NPT)に署名していない核保有国であるインドとこうした協定を結ぶことは、安倍氏のリーダーシップなしには不可能であった。同じ時期に、これも当初は難しいと思われた日印経済連携協定(EPA)の調印を可能にしたのも、原子力協定に熱心だったマンモハン・シン前首相との「バーター取引」の成功とも考えられている。これによって日印関係は真に戦略的なものとなった。
第三に、大型の円借款計画が挙げられる。デリー=ムンバイ貨物専用線建設、主要都市の地下鉄建設に加え、さらに大規模なムンバイ=アーメダバード間の新幹線計画はまさに安倍、モディ両首相のリーダーシップなしには可能でなかったと思われる。
日本と関わりのあるインド人にとって、安倍氏は全く別格の存在である。安倍氏が森喜朗元首相やスズキ相談役の鈴木修氏に続いて、インドで外国人に与えられる最高の勲章を得たのは当然である。
インドに関心の深い日本の政治家が多くない中で、インドと関わりのある日本人は、今日の日印関係の礎の多くが安倍首相によって築かれたことを知っている。公益財団法人日印協会の会長にも最近就任して、これからも日印関係強化に取り組むはずだった安倍氏の突然の死去がもたらす損失は計り知れない。(了)