7月13日に東京で行われた国基研日本研究賞関連行事で、受賞者エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ博士(ポーランド)の日本・ポーランド関係史に関する講演を拝聴した。講演では戦前におけるポーランド軍と旧日本軍の諜報協力について話があったが、2000年代初めのイラク復興支援におけるポーランド軍と自衛隊の協力関係については触れられなかったので、当時、防衛庁情報本部長であった筆者の体験を紹介したい。
「武装勢力の南下はポーランド軍が阻止する」
平成15年(2003年)末、陸上自衛隊はイラク南部のサマーワに派遣された。当時、外国の軍隊を敵視したイラク武装勢力が首都バクダッドにおり、バクダッドとサマーワの間はポーランド軍の担当地域であったので、筆者は16年、諜報分野の協力を話し合うためポーランド軍参謀本部を訪問した。その時、ポーランド軍の総参謀長であったチェスワフ・ピョンタス陸軍大将は「バクダッドから南下する武装勢力は、我々の担当地域でブロックしてみせる」と請け負ってくれたことを鮮明に覚えている。
パワシュ=ルトコフスカ博士が講演で紹介したように、1917年のロシア革命でシベリアに取り残されたポーランド人孤児約800人を救出したのは、シベリアに出兵した外国軍(日本のほか米英仏伊)のうち武士道精神に基づく思いやりを持った日本軍だけだった。その恩をポーランド人は忘れてはいない。
ともすると「旧日本軍はひどいことばかりやった」と思い込んでいる人達が特に外務省OBに多いが、ポーランド人孤児救出のように、現代の諸外国軍人の対日好感度を上げる行動も旧日本軍はしている。
イラク復興支援に派遣された自衛隊が一人のけが人もなく任務を全うできたのは、初代派遣隊長の番匠幸一郎元陸将(現国基研理事)が『武士道の国から来た自衛隊』に著したように、現地の人達と対等な目線で接した立派な統率が主因であるが、表には出ていない諜報協力もあったのだ。
今年亡くなった堀江正夫元参院議員を国基研の櫻井よしこ理事長と共にインタビューし、戦争体験を聞いたことがあるが、ウジ虫すら食糧とする極限状態のニューギニア戦線でも、日本軍の軍規は終始保たれていた。昨年、反政府勢力タリバンの攻勢により約30万のアフガニスタン政府軍が雲散霧消したことや、現在進行中のウクライナ戦争でロシア軍はもとよりウクライナ軍にすら命令不服従の事例が報じられる中で、旧日本軍の軍規保持は見事と言う以外にない。
実は世界に多い親日国家
筆者は世界の約50カ国を公務で訪問している。日本周辺には日本に非友好的な国が多いので、多くの国民は日本が世界から嫌われているように思いがちであるが、事実はそうではない。
ポーランドはもちろんのこと、トルコやフィンランドは極めて親日的な国である。3カ国ともロシアにいじめられてきた歴史があり、日露戦争に勝ったアジアの小国という以外に、過去の日本人が実践してきた献身的な行為に基づく信頼感が存在する。
イスタンブールにあるトルコ海軍兵学校の資料館には、1890年に和歌山県沖で遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号のコーナーがある。暖房もない時代に、串本の人達が遭難したトルコ人を体温で温めて救護し、遺体収容を命がけで行った。旧日本軍は犠牲者に最大の敬意を払って遺体を軍艦「比叡」と「金剛」でトルコへ送り返した。
平成22年(2010年)、アンカラ空港で、海軍兵学校からプレゼントされた楯の金具が金属探知機に引っかかった。保安員から「日本人か?」と聞かれ「そうだ」と答えるや否や荷物の中身を見ずに通過させてくれたのは、日本人への信頼の表れと感じた。
フィンランドの首都ヘルシンキにある独立の英雄マンネルハイム元帥の記念館を訪問すると「忠孝」の文字が彫られた日本刀が陳列されていた。元帥が日本の道徳に敬意を払っていたことがうかがえる。
7月8日に凶弾に倒れた安倍晋三元首相は「日本を取り戻そう」を口癖にしていたが、日本人は、過去の歴史に誇りを持って良いと思う。(了)
第176回 戦後の日本・ポーランド情報交流
日本研究賞は日本とポーランドの交流史が対象作品。そこでは戦後の日ポ情報交流には触れてないので追加したい。2003年にイラクに陸自が派遣され、そこでポーランド軍が陸自部隊に協力を確約。かつてのポーランド孤児救出の恩義があったから。旧軍の功績を再評価すべきでは。