長崎純心大学言語文化情報学科・いしゐのぞむ(石井望)准教授は、6月5日、国家基本問題研究所企画委員会にて、「尖閣領土歴史戦を巡る政府周辺シンクタンクの実情」について資料を用いて説明し、その後櫻井理事長をはじめ企画委員らと意見交換を行った。

【概要】
・尖閣史の基本事項
まず尖閣諸島の歴史に関する基本事項を確認しておく。
第一は日中の国境線史料である。平成24年7月17日付の産経新聞1面で記事が掲載されたとおり、明代の『石泉山房文集』(1561年に琉球に派遣された郭汝霖が皇帝に提出した上奏文を収録)によると、琉球の最前線は久米赤島(現在の尖閣諸島・大正島)であり、一方清代初期冊封使が琉球渡航の際に詠んだ漢詩の中に、福建省沿岸の馬祖列島が最前線との記述がある。東西両側の国境線乃至最前線の間の海洋と島嶼は公海と無主地である。
第二は中国が最古の尖閣史料として1403年に完成したと主張する『順風相送』だが、それには上下巻がある。上巻は西方航路、下巻は東方航路の記載で、尖閣は東方である。下巻に登場する長崎開港やマニラ築城は1570年代であり、1403年に中国側は尖閣航路を知らない。
第三は最古の尖閣史料は1534年の冊封使・陳侃による『使琉球録』である。その中で尖閣は琉球文化圏に属するとして認識されている。琉球の人が往来海道の水先案内を務め、尖閣の情報は琉球の人が陳侃に提供したことが記されている。このことは門田隆将著『尖閣1945』に採用され、内閣官房の領土主権展示館公式X(旧ツイッター)でもポスト(ツイート)された。
・オランダ船が漂着した事件「尖閣1660」
16世紀から17世紀初めの朱印船時代にあって尖閣はトリシマという名称で航海に利用され、例えば1617年には三浦按針がトリシマを指標に航海した。内閣官房の領土主権展示館にも朱印船海図のトリシマが公式に採用された。
1660年、鄭成功が台湾海峡の覇者であった。そのためオランダ船ハープ号が台湾海峡を避けて台湾東岸を北上中、濃霧で方向を失いトリシマに漂着遭難する事件があった。それを与那国島民が救護し、薩摩船で長崎に運び、長崎奉行から出島オランダ商館に引き渡した。これにより出島オランダ商館長から薩摩藩主に感謝状が出されたことなどが『オランダ商館日誌』、薩摩史料、八重山史料などに記述があり、当時から幕府の統治が与那国、尖閣にまで及んでいたことが裏付けられる。
この日誌はオランダ語で書かれており、一切中国の史料に頼らないことから、中華文化勢力の及ばない歴史という意味で重要である。過去の研究ではトリシマを沖縄県最北端の硫黄トリシマと取り違えていたが、正しくは尖閣である。
翌年(1661年)、鄭成功が台湾オランダ府を攻撃すると、多くのオランダ人が長崎に避難した。前年の救護活動により、オランダ側が日本に対する信頼を深めていた結果だと考えられる。このような大きな歴史の中にトリシマがある。
・尖閣史一次史料調査研究の現状
平成29年から令和8年度まで、外務省研究補助事業として「領土・主権・歴史に関する国内外での一次資料の収集・整理・分析・公開」に年間5億円の国家予算がついた。
これに民間シンクタンクが応募し「領土・歴史センターによる領土・主権・歴史に関する包括的な調査研究及び効果的な対外発信活動」を行ってきた。この初年度事業計画を見ると、研究対象は日清戦争等の歴史認識が中心で、一次史料調査研究は末尾に小さく扱う程度であった。その後、令和5年度に初めて尖閣資料検討会を設置したが、尖閣一次史料の主力研究者は検討会に招かれなかった。
上記事業は今年度(令和8年)が最終年度であり、これまで大きな国家予算を投入してきたのであるから、尖閣一次史料調査研究の成果には個人的に大いに期待している。
・今後の展望
本年2月の第2次高市政権発足に際し、各閣僚に対し発出された指示書の中に、官房長官への指示として「領土問題、拉致問題、歴史認識などにつき、対外発信を強化する」とあったことは、民間の一研究者にとって追い風を感じている。
今後も尖閣史料の発信、学会発表、論文投稿を強化し、尖閣琉球史に関する歴史戦に勝利するまで一歩一歩前進していきたい。
※注:講師の説明資料は全て正字体ですが、本稿では新字体で表現することをお断りします。
【略歴】
1966年、東京生まれ、戸籍名石井望、筆名石海青。京大文學部中國文學科卒、同博士課程學修退學。蘇州大學修士。研究分野は漢文學、チャイナ古典劇音樂音韻、尖閣琉球史など。
著書『尖閣反駁マニュアル百題』(2014年、自然食通信社)、史料監修『眞實の尖閣史』(石平著)、論文「琉球大航海の尖閣航路-西表島から飛鳥時代に遡る」(島嶼研究ジャーナル)など。 (文責 国基研)




