公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

国基研ろんだん

  • HOME
  • 国基研ろんだん
  • 慰安婦像撤去を最終目的にするな‐西岡氏への反論 富坂聰(拓殖大学教授)
2017.02.01 (水) 印刷する

慰安婦像撤去を最終目的にするな‐西岡氏への反論 富坂聰(拓殖大学教授)

 西岡力氏が1月24日付の本欄に書いた『大使召還は効果あり。富坂氏への反論に代えて』に対し、短く反論します。
 西岡氏の反論は1月11日付の拙稿『駐韓大使の一時帰国は早計に過ぎる』に対してですが、私はこの中で日本外交があまりに対症療法に陥っていることを問題視しました。日本外交は最終目的地(つまり最終的に何が国益か)を定めないまま、日々持ち上がる問題に受け身で対応してばかりいるために一貫性を欠き、戦略面でも乏しいと指摘したものです。
 ところが西岡氏の文章には、この点への言及が見当たりません。つまり、その時点で私からすれば反論の必要がない文章といってもいいのですが、いくつか気になる点があるので、以下に記しておきます。
 まず西岡氏は、24日付の論稿で「富坂聰氏の議論も、大きく見て宮家(邦彦)氏らの流れに乗るものだ」と書いています。私は個人的には名誉なことだと思いますが、事実はそうではありません。

 ●大使召還の成果は何か
 11日付の拙稿で私は、「いつまでも朝鮮半島が二つに分かれていること」を最大の国益に置く中国に対し、「いったい韓国をどうしたいのか、という視点が本当に日本政府にあるのか」と疑問を呈しましたが、そんな話を宮家さんが口にしたという話は聞いたことがありません。外務省に至っては、そうした戦略すらないことは、これまでも私が批判してきた通りです。
 いったい何が「宮家氏らの流れに乗る」ものなのか、西岡氏は「大きく見て」などという言葉は使わず、具体的に指摘すべきでしょう。
 次に、『大使召還は効果あり』の部分ですが、西岡氏の文章を読む限り、大使らを一時帰国させるという強い措置であったからこそ、ああいう反応を引き出せたと納得できる点はありませんでした。そもそも釜山市にしても、日本が強い措置を取る前から自ら像を一時的にせよ撤去したのではなかったでしょうか。
 日本が、大使を一時帰国させたからこそ引き出すことのできた韓国の反応とは何なのか。それと分かる記述はどの部分なのでしょうか。
 そして、それ以前の問題として、私の主張が誤解されている点を指摘しておきます。私が「日本が強いカードを切っても日本が望む変化が韓国に起きる可能性は極めて低い」と書いたのは、それに続く文章を読めば明らかなように、極左勢力が衰退し現政権(もしくは日本にとって都合の良い政治勢力)が統治能力を盛り返す可能性は低いという意味です。

 ●強引さが裏目に出る懸念も
 そもそも私の主張は、慰安婦像を撤去させることを外交の目的としてはいけないということです。つまり、極左勢力が日本への憎悪をたきつけることで自らの存在意義を高めようとしているときに日本が慰安婦問題で強引なことをすれば、かえって相手に利用される結果になりかねない、という注意喚起なのです。
 韓国が左傾化し、北朝鮮との間に親和性が高まれば、それこそ慰安婦像とは比較にならない外交上の危機が日韓の間に高まるということです。そのあたりを誤読されては困ります。
 最後に、歴史認識問題に絡んで西岡氏は、「互いに国家主権を尊重し合い、内政不干渉の原則を守る。それが近代国家だ」と書いていますが、それは少なくとも日中関係においてはもう少し複雑です。
 というのも、日本と中国が国交正常化の過程で結んだ日中共同声明(1972年9月)にはこう記されているからです。
 「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場に立って国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである」

 ●「約束したことは守る」意味
 ご存知のように日中の国交正常化は、単に外交関係を結んだというだけではなく戦争状態を終結させたものです。そして戦争状態の終結に際し、日本国政府が中国側に約束したのが、「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」ことなのです。だから日中間にある歴史問題は、どちらの歴史が正しいかという争点ではなく「日中共同声明」で約束した態度と違うという点が常に問題視されてきたのです。
 もちろん「日中共同声明」に対する疑義はあります。それ以上に中国が、被害者という立場をあまりに政治利用することにも反発を覚えました。学生時代には南京大虐殺の被害者数をめぐり街の食堂で論争になり、取り囲まれてビール瓶で殴られそうになったこともあります。これは安全地帯からものを言うこととは違って恐怖体験でしたが、私は自分の説は曲げませんでした。しかし、一人の日本国民として、日本国が約束した態度を簡単に踏み越えようと思ったことはありません。