公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2019.08.19 (月) 印刷する

香港で第2の六四天安門事件は起こるか(上) 平野聡(東京大学教授)

 香港返還に向けた作業が進んでいた1990年代、そして中国経済が高度成長のさなかにあった2000年代、多くのメディアも研究者も、自由貿易と金融の中心として香港が有する地位は他の中国主要都市の台頭によっても揺るがず、特別行政区としての独自の地位を享有する香港が、中国という国家とうまく折り合いをつけつつ中長期的に繁栄して行くことに疑いを持たなかった。そして、香港の人々のアイデンティティは「香港人であり中国人である」というものに変わってゆくという言説が多々見られた。
 しかし筆者は、もともとチベット問題を手がかりに中国の少数民族問題・ナショナリズム・国家体制の問題全般に関心を抱いてきた者であるので、長年来、このような香港と中国の関係をめぐる言説は、中国共産党体制と中国ナショナリズムのあり方に照らして余りにも楽観的に過ぎると考えてきた。

 ●生殺与奪握る中国共産党
 とりわけ、1990年に制定された香港特別行政区基本法は、第14条で「香港特別行政区は必要に応じて中央政府に対し、香港に駐留する人民解放軍が社会治安の維持のために出動するよう要請できる」、第18条で「香港特別行政区において特別行政区政府がコントロール出来ないような、国家の統一と安全に関わる動乱が発生した場合には、全国人民代表大会常務委員会は緊急状態を宣言し、中央人民政府は命令を発して全国に適用される法律を香港特別行政区で実施することができる」と定める。
 これらの文言に則していえば、あくまで香港の生殺与奪を最終的に握るのは、主権を英国から取り戻した中国政府(それ以上に、中国政府を指導する中国共産党)にあり、いつでも北京の方針転換次第で香港特別行政区の高度自治を取り消すことが可能である。
 香港高度自治と自由の「五十年不変」とは、鄧小平による確証なきリップサービスであり、チベット問題の悲劇を引き起こした中国共産党が六四天安門事件を経て90年代にもあくまで続いていることに鑑みて、香港社会の独自性が50年も持続するとは余り思えなかったものである。

 ●検討甘かった「50年後」
 とはいえ、外界(とりわけ西側諸国)は、50年のうちに中国社会こそ大きく変質し、自由な香港社会と価値観を共有するようになってゆく、と考えていたのであろうか。あるいは、50年という時間はなかば「永遠」を意味しており、満期後はさらに延長されると考えていたのであろうか。
 香港の現状を最終的に決めるのは香港の人々ではなく、あくまで北京であるという問題は、真剣に検討されることのないまま、日本を含め多くの国々が、巨大化して行く中国経済に魅了されて中国に協力するという近視眼的な立場に終始してきたと言える。この問題を最も早く察知したのは、他でもない、1997年までに英国のパスポートを取得するべく奔走した人々であった。 

 ●他者を信用しない中国
 中国共産党と政府は、高速発展のために「韜光養晦(能ある鷹は爪を隠す)」のポーズをとり、あたかも中国経済の発展が世界の発展と一体であるかのような言葉で外界を魅了しておきながら、決して外界を信用しなかった。何よりも外界からの侵略と圧迫の歴史ゆえに、中国ナショナリズムは過剰なまでに他者を信頼しない発想を有するからである。
 しかもこの発想は1980年代以後、西側諸国が冷戦の終焉とグローバリズムを謳歌する傍らで、1989年の六四天安門事件や東欧社会主義圏の崩壊、そして1991年のソ連崩壊を見届ける中で強められた。
 西側資本主義国はその経済・文化的なソフトパワーを平和裏に宣伝することで社会主義国を内側から崩し、永遠に西側諸国に従属させつつあると中国は見たのである。すなわち「和平演変(平和的体制転換)」論であるが、それこそが1990年代以後の北京の対外観の基本である。

 
香港で第2の六四天安門事件は起こるか(上)
香港で第2の六四天安門事件は起こるか(中)
香港で第2の六四天安門事件は起こるか(下)