公益財団法人 国家基本問題研究所
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国基研ろんだん

2023.09.25 (月) 印刷する

修学旅行は産業遺産情報センターへ 瀬尾友子(産経新聞出版編集長)

加藤康子氏(国基研企画委員)がセンター長を務める東京・新宿の産業遺産情報センターは、端島炭坑(軍艦島)で話題になることが多い。NHK番組「緑なき島」に代表される史実に反する報道や、それを基にした韓国や日本のメディアによる「戦時労働者の嘘」の拡散だ。

だが、産業遺産情報センターの見どころはそこではない。世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を紹介したセンターには、メディアが報じない、そして教科書が教えない素晴らしい史実が展示されているのである。造船、製鉄・製鋼、石炭産業において、幕末から明治にかけてわずか半世紀で日本が工業国へと飛躍するプロセスの展示(8県11市に分布する23の資産)は、日本人なら誰もが胸が熱くなるものだ。

日本人の気概のリレー

例えば製鉄は日本人の気概のリレーである。1853年のペリー来航で彼我の科学技術力の差を悟り、近隣諸国のように植民地にはなるまいと危機感を持った藩士たちは、自力で反射炉や高炉の建設に挑戦した。製鉄で大砲を鋳造し、他国の侵略から日本を防衛するためである。

日本古来の「たたら鉄」で鋳造した大砲がもろく実用に至らない中、1858年、盛岡藩士の大島高任が洋式高炉を岩手県釜石に建設する。ペリー来航からわずか5年、地元の鉄鉱石を用い、外国人の手を借りず、西洋の書を頼りに自力での製鉄に成功したのだ。「日本の鉄はここにしかなかった。だからこそ釜石が突破したのだ」と加藤氏は言う。釜石の奇跡である。

製鉄のドラマはさらに続く。1880年、明治政府はその釜石に官営釜石製鉄所を開き大量生産を目指したが3年で頓挫、民間人の田中長兵衛が再建することになる。釜石鉱山田中製鐵所だ。だがこれもうまくいかず、失敗を重ねること46回。田中は事業の中止を命じるが、現場従業員一同は「給料は要らない」と願い出て挑戦し、1886年、49回目にして成功するのである。

その後、1901年に福岡県八幡村(現北九州市)に建設された官営八幡製鐵所は日本経済の礎を築くことになる。アジアで成功した初の銑鋼一貫方式の製鉄所だが、その技監は先の大島高任の息子、技術者は釜石の田中製鐵所から迎えたのだ。「鉄は国家なり」はこの気概のリレーによって始まったのである。

100年残るインフラ

また、例えば石炭の三池炭鉱(福岡県)は100年残るインフラを造った。明治政府から払い下げを受けた三井は石炭の大量生産のためにヨーロッパから最新設備を導入、さらに港や鉄道のインフラを整備する。中でも物流の効率化のため採炭現場近くに造った三池港は凄い。有明海は干満差が5.5メートルもある遠浅の干潟で、この条件での築港技術は革新的なものだ。

泥土が航路に流れ込まないための2本の長大な防砂堤、大型船が接岸できる航路や内港の独特の形状にうなる。水圧式のこう門はイギリス企業が製作し、三井が施工したもので、ドック内の水位を8.5メートル以上に保つ。石炭を常時運び込めるこの名港は1902年5月に起工して1908年3月に竣工。日本の土木技術を結集し、たった6年足らずで造り上げたというから驚かされる。

そしてもっと驚くべきことに、この港はいまだに現役なのだ。三池港を築港した三井の総帥、團琢磨は「石炭が尽きても地元の人が生活できるような置き土産が必要。筑港をすればいくらか100年の基礎になる」(三井広報委員会)と述べたというから、まさにその言葉通りになったと言える。

加藤氏は造船の産業遺産展示を指しながら、「草履ぞうり履きで、灯明で、サムライの胆力で」日本は一夜にして産業革命を成し遂げたのだと述べた。幕末から明治にかけ、国家の独立を守り、産業にイノベーションをもたらしたのは、日本人の底力、気概だったのだ。

教科書が教えない感動

では、中学校の歴史教科書ではこの輝かしい「産業革命」をどう教えているか。手元にある東京書籍の歴史教科書は「日本の経済を支配する財閥」「女工・労働運動」「公害問題」に紙幅を割く。学び舎の歴史教科書では「漁村にできた製鉄所」として、大規模な官営八幡製鐵所が漁村に、日清戦争で得た賠償金の一部を当て、建設されたとのみ書く。そこには明治の日本人たちの息づかいも気概も見えない。

明治と同じく国防力、科学技術力が求められている今、こんな歴史教育で日本の力を引き出せるのか。独立を守れるのか。科学技術で他国に勝てるのか。子供たちの力を引き出すのは先人の遺業に対する感動だ。祖先への誇りだ。

今すぐ修学旅行の行き先を産業遺産情報センターにすべきだ。(了)