地理的に海洋ミクロネシアとされる地域の中で、私が関心を持つのはチューク、コスラエ、ポンペイ、ヤップの四州の島々で構成される国家ミクロネシア連邦(FSM:Federated States of Micronesia)である。FSMは第二次大戦後のアメリカの太平洋諸島信託統治領から生まれた四つの政体のうちの一つである。私はチューク諸島(旧称トラック諸島)出身で、FMSの初代大統領となり、同連邦自治政府の誕生に最も重要な責任を果たした個人である日系人トシヲ・ナカヤマの生涯を通して、この地域の歴史的営為から今日の発展に至る経緯の研究に貢献できることを目指している。
すべての歴史をひとつの言葉で表現する手法によれば、彼の人生物語は、ミクロネシア物語同様、一九四四年以来、カロリン諸島やマリアナ諸島、マーシャル諸島にあった“アメリカ化”という現象におおむね包まれたままになっている。私はそれがこれらの諸島の歴史へのアプローチとして今日ではいくつかの理由から問題があると議論してきたが、「ミクロネシア」や「ミクロネシア人」という言葉も同じように問題がある。
ナカヤマが日本の統治期のミクロネシアで育ち、米国統治期に著名な政治家として登場した事実は、比較植民地主義に興味のある誰にとっても、格好の研究対象になる。広い海洋を超えた彼の人生の足跡の特徴もまた、この広大な島嶼世界の中での日本の立場を再検討するよう誘っている。
ナカヤマが若くしてチューク州で著名な政治家になったことは、彼の出生地の同州北西部のナモヌイト環礁島と、州の中心礁湖地帯との物理的、政治的、文化的距離からすると、注目すべき物語となりうる。彼の人生の中心にあるのは植民地主義、脱植民地化、そして新国家建設との関与である。彼がこうした問題と遭遇したことは、太平洋の島国の二十世紀の歴史の中の最も複雑で重要な諸課題のいくつかと正面から対峙し、その真っただ中にいたと位置づけられる。
さらに彼の経歴は移住や国家間の越境、島嶼世界の実際の規模といった問題の再検討へと導く。政治的に統合したミクロネシアを作り上げる彼の努力にもかかわらず、彼の人生物語によって、政治的境界や文化人類学的な範疇、歴史的仮定に挑戦するような海洋世界の再考察が必要になってくる。
私がとくに注目すべきと考えていることは、彼の努力の到達点とその範囲である。彼が住み、他者をより接近し易くしようと試みた世界は、小さい“ミクロネシア”ではなく、大きな“マクロネシア”というべき用語で呼んだ方が適切であるように思える。一見ありふれた、その隠喩も全く予測通りではあるが、間違いなく彼の人生に適用できるのは「航海士」という言葉である。彼の人生と、大いに賞賛され、最近死去したヤップ州サタワル出身の航海術士マウ・ピアイルックの人生には興味深い平行線を引くことができると私は考えている。二人ともミクロネシアという言葉が示すよりもっと広大な世界に生き、苦労を重ね、旅をした。
ナカヤマは航海術士の家系出身で、成人期のある重要な分岐点で、公職を放棄し、伝統的な航法術を学ぼうと考えたことがある。彼の叔父ラーチオルと大叔父オピクはマウ・ピアイルックやイプール・ポロワットと同じ学校で航海術を習得し、尊敬された航海士(パリュ)だった。
トシヲ・ナカヤマの人生とその時代を考証するには、確かに単に政治的な出来事を語る以上のものが含まれる。そこには安易な類型化を拒む複雑な歴史がある。米国との長期化した交渉と妥協は、抵抗と独立という単純でロマンチックな歴史ということにはならない。また、彼の人生と職歴には多層の文化的脈絡が存在する。
これらは手早く、あるいは簡略的に示すことはできない。母親のロサニアを通した彼の所属する部族はヤップ島と関係し、その事実がメラネシア議会の議員とその後の連邦大統領としての成功に大いに役立った。彼の属するピケ部族は西のヤップ島から今日のチューク州東南のモートロック諸島までの環礁や島嶼に住んでいる。
彼はミテル・ハルオと結婚したことで、チューク州の中心礁湖地帯の人々が外縁の島人たちに対して抱く強い偏見を超越できた。ミテルは礁湖地帯の最も有力な部族出身の高い地位の女性だった。これは多分明白かつ単純なことともいえるが、しかしながら、母系社会では重要であることに留意すべきで、彼女の血がトシヲ・ナカヤマを政治家にしたといえる。
ナカヤマは島嶼世界に住んだ。生地のナモヌイト環礁島のピセラッチは彼の人生の歴史にとって、際立った活躍の舞台となった多くの島々の中の最初の島でしかない。彼は幼少のころ、ナモヌイト環礁のもうひとつの島オノウンで過ごし、彼の父親はそこで通称南貿と呼ばれた「南洋貿易会社」の駐在貿易商をしていた。彼はまだ若い少年の時期、家族とともにモートロック諸島のルクノールに引っ越した。次いで日本統治時代に行政、後に軍事拠点のあったチューク州のトロアスに移った。
しかし、そこでは太平洋戦争の激化とともに、民間人が他の各地に避難を強いられ、ナカヤマ一家はトールに疎開し、南洋貿易社の仲間の相澤庄太郎(神奈川県出身。一九一四年チューク島に移住。二男の進は戦後の一時期、日本のプロ野球で投手になった。トシヲとは幼馴染)の家族とともに生活した。近隣には一八九〇年代初めの日本人移住の先駆者で貿易商を営み、その商才と豊富な文化的な知識、さらに酋長の娘と結婚して大家族の家父長(酋長)となって、有力な社会的地位を築いていた森小弁(この人物については後述する)が住んでいた。
やがて終戦となり、日本人である父親は日本への強制送還となり、戦後期に若いトシヲはチュークの州都ウエノやオノウンに住みながら、仕事をしたり、学校に通ったりの生活を送った。
一九五一年から一九五三年の間はウエノの専門学校「太平洋島中央学校」で学生生活を送るが、この間、米国信託統治領の他の島々からやってきた学生たちと直接交流した。彼が社会的に、また政治的に名を揚げるようになると、彼の地平線は小さな島から一層遠くへと広がっていった。
一九五〇年代に、グアム島で開催された島嶼間諮問委員会や同じくグアムでのミクロネシア会議、サイパンでのミクロネシア議会などへの参加によって、信託統治領の他の地域の人々との接触がさらに深まっていった。
彼はミクロネシアの将来の政治的地位に関する委員会のメンバーとなり、いつの日か来る独立ミクロネシア国家の有効な政治的構造を模索するため、他のメンバーとともに、サモアやニューギニア、クック諸島など広く太平洋の島々を訪れた。ナカヤマはまたニューヨーク・マンハッタン島にも旅し、国連本部の信託統治理事会で信託統治領の市民と同時に政府職員として信託領の行政に関する証言を行った。一九七九年から一九八七年にかけて二期務めたミクロネシア大統領として自ら率いる政府の国際的な承認や経済援助を確保するために、数々の島嶼国家や外国を訪問した。
多くの点で、トシヲ・ナカヤマのような旅行歴はミクロネシア地域では長年歴史的に繰り返されてきたパターンであるが、そのパターンは米国とミクロネシア連邦との自由連合の履行に伴って、新しく復活され、強化されることになった。旅によって島々の問題の解決を可能にし、以後通信や交易もできるようになった。ヤップ島を中心地とする伝統的なサウェイと呼ばれる交易ネットワークも、はるか東方のナモヌイトの島々まで延伸した。
今日のマーシャル諸島にある二列に連なるラリックとラタック島嶼は交易、旅行、政治組織の拠点にもなった。カロリン諸島中央部とマリアナ諸島間には海上交通もでき、それによって十九世紀にはマリアナ諸島北部の人口が再び増加した。ドイツや日本の植民地体制の時代には無許可の島嶼間の旅行は禁止されたが、戦後は移動や移住が再開された。
当時のナカヤマや同胞市民にとって海洋は障害物ではなく、常に彼らの福祉や生存と密接につながる航海と交流の機会をもたらす大通りであった。島の陸地と環礁は物理的に狭く限られたものだったが、広大な海洋全域の一部として見た場合には極めて広い空間となった。東のマーシャル諸島から西のパラオまでの信託統治領の全域はおおよそ米国大陸全体に匹敵する広さである。
雄大な海洋環境の一部としてみれば、島嶼や環礁は小さなものではなく、大きなものと理解すべきで、その海岸から水平線への眺望は威嚇的というより、人をより鼓舞させるし、尻込みより、一層挑戦的にする潜在力がある。
島嶼の人々の生存にとっては時々探検的な航海や島嶼間旅行、新しい場所への移住が必要だった。こうした移動は危険性も伴ったが、人々の広範な接触と、繋がり、多様な可能性と機会、物質的な商品や技術、さらに新しいアイデアなどを提供した。ナカヤマの生地のナモヌイト環礁も、このような驚くほど相互に結び付き、近接性をもった海洋世界の一部であるという、より広い視野でよく理解すべきだろう。
ナカヤマ自身がミクロネシアについて実際どう理解していたかには少しはっきりしないところもある。しかし、彼はミクロネシアの可能性を深く信じていた、と私は考えている。彼は政治家として駆け出しのころ、それぞれの島嶼と人々を隔てる違いや多様性についての認識を自由に発しており、将来の政府の問題について発言することは控えてきた。彼はその認識した島々の違いにもかかわらず、一方で、地域統一の基盤として、人々のライフスタイルや戦争と植民地支配の共有経験について話していた。彼はどの書き物や演説、インタビューでも島嶼群に関して、「小さい」とか「ちっぽけ」という形容詞を使わなかった。
彼は島をそのように特徴づけることを超え、卑下したり、政治的に自己批判になるような態度を見せなかった。そして、ひるむことなくミクロネシアの人々の権利を代表し、自治権を唱えた。彼が、太平洋諸島の人々は海に閉じ込められ、隔絶されているのではなく、お互いに繋がっているという概念を提示したフィジー諸島出身の人類学者エペリ・ハウオファと会ったことがあるとは思わない。しかし、もし両者が知り合っていたら、意気投合しただろう、と私は考えている。
米国統治初期の一九五〇年代には、ミクロネシアと米国の物理的な距離や戦後復興の不安定で緩やかなペース、さらに米国から派遣された一部の行政官の無関心と無能力などによって、ヤマナカはすでにミクロネシアには自治が最善であるという結論を抱いていた。ナカヤマにとって自治とは、日本統治の時代とは違った米国統治による解放や自由、経済発展の約束ということにはならなかった。
トシヲの島嶼世界では日本は最も重要な島国の一つだった。何よりトシヲは日系人であり、森小弁の家系とも関係があった。一九六八年の明治維新と日本の近代化によって、武士階級が解体され、彼らは新しい生計と出世の道を探さなければならなかった。四国の土佐藩士出身の森もこの社会環境の変化に影響を受け、他の一部の人々と同様、商売上の野望や想像力、国家的な野心などに駆られ、南洋の島々に目を向けるようになった。
森は一八九一年、チューク島(州)に到着したあと、月日を重ねながら、貿易商としての存在を確立し、大家族の家父長となって一定の政治勢力を率い、チューク島における事実上の日本代表の役割を担った。
森がこうした地位を築いた最大の要因は、州都ウエノの有力部族マヌッピスの酋長の娘と結婚したことで、そのお蔭で、彼自身も酋長になり、ウエノと同州の環礁湖一帯で存在感を高めることになった。森は、南洋の島で草のスカートを着た王様となったヒーローを描いた一九三〇年代の少年雑誌に掲載され、大ヒットした島田啓三の漫画「冒険ダン吉」のモデルではないかも知れない。しかしながら、彼は当時の日本人が抱いた海外進出への夢を鼓吹した。
ほぼ同時期、日本で巻き起こった南洋諸島への憧れを示す多くの現象の一つとして、余田弦彦の「ダクダク踊り」も評判を呼んだ。余田は旧制高知高校の運動会で、「酋長の娘」の歌に合わせてこの踊りを披露したが、全身に墨を塗り、腰蓑を着けただけの女性姿の踊りはなかなか蠱惑的で、人気を呼んだ。この歌はマーシャル諸島の酋長の娘を想定したものとされるが、森の活躍からヒントを得たともいわれている。
余田は森の人生と冒険を耳にしながら、思春期を過ごした。この踊りや歌は馬鹿げたパーフォーマンスのようにも見えるが、日本の統治下にあった当時の南洋諸島への強い思いや、両者の血のつながりによって、より効果的かつ全面的に南洋諸島とその人々を掌握しようという帝国日本の決意を示していた。トシヲ・ナカヤマの母親ロサニアの父親は、森小弁の妻イサベラ(通称イサ)の兄弟であり、小弁はトシヲの大叔父だった。
トシヲの父親マサミ・ナカヤマのチューク島到着以前のことはあまり多く知られていない。同島のトラック・クロニクル紙に掲載された一九七九年八月の彼の死亡記事によると、彼は十人兄弟の長男で、神奈川県横浜市の鶴見地区で育った。彼が強い政治的関心や商売上の野心を持っていたとか、文学的影響を受けたなどを示す記録はない。しかしながら、太平洋の貿易船が出入りする主要港があり、比較的多くの外国人が住む国際都市の横浜で育ったことが若い時期の彼に大きな影響を与えたと考えられる。
この街で、彼はより広い世界に目を向けるようになった。ある貿易会社が彼を米国の植民地グアム島での営業要員として雇い入れ、その準備の一環として英語教育を提供した。彼の英語講師の名前は不明だが、当時日本に住んでいた米カリフォルニア出身の日系アメリカ人だった。
トシヲ・ナカヤマは父親の英語能力についてはよく覚えている。彼によると、父親は子供たちに英語の重要性を強調していた。ただし、より強大で豊かな米国と戦っていた日本の実力に関しては口をつぐんでいたという。彼のそうした態度は当時の日系社会ではまったく珍しいことではなかったが、それでも彼は持ち前の英語力で、現地の島の生活ではくつろいだ様子だった。彼はトシヲのように熱烈なナショナリストではなかった。
マサミ・ナカヤマは一九一五年、十七歳の時、仕事が待つグアム島に向かっていた船に乗ってチューク島に到着した。理由は全く明らかではないが、彼はチューク島フェーファンで下船し、たまたまトロアスへの道を知り、そこに向かった。日本人貿易商らが住むその地の小さな共同体社会で森小弁と遭遇し、自身も貿易商として働く機会を得た。やがて彼の元の雇用者の小さな貿易会社が南洋貿易社と合併したため、彼は南洋貿易社に現地採用されるようになった。
彼の到着後しばらく経って、森は彼に、ウエノ沖合の小さなファロ島で生まれ、ウエノのイラス村で育ったナモヌイト系の女性を紹介し、結婚させた。その若い女性の名前はロサニアだった。この見合い結婚はチュークの文化的慣習というより、日本の慣習を反映したものだが、これによって彼は南洋貿易社の正式現地駐在貿易商の地位を得た。マサミ・ナカヤマは同社から提供された小さな帆船を使ってナモヌイト諸島でコプラを捕獲し、トロアスに搬送後、加工処理して日本に輸出し、その見返りに日本からの商品を受け取り、販売する仕事に従事した。
トシヲは彼の六人の子供たちの三男として一九三一年八月三十一日、ピセラッチ島で生まれた。父親はその後、モートレック諸島のルクノール島やチューク州のトロアスに駐在した。トシヲと四人の兄弟、一人の妹は父系に現地部族の血が入っていないため、外国人の子供とみなされた。しかしながら、当時のミクロネシアは日本の植民地下にあったため、彼らはその日本人の出自によって、一連の有利な便宜を受けることができた。
一九四〇年、マサミは家族をトロアスに呼び寄せ、そこで南洋貿易社の現地商店の経営をすることになった。しかし、太平洋戦争勃発の雲行きが強まり、日本軍がトロアスに押し寄せ、町を支配するようになり、民間の日本人はトールに移住させられた。トールは人口も少なく、まわりに未舗装の泥道があるだけの、トロアスとは大違いの田舎町だった。
ナカヤマ一家はこの町で、南洋貿易社の仲間でお互いによく知っている相澤庄太郎一家の近くに住んだ。森小弁の住まいも近くにあった。まだ若かったトシヲは当時の国際情勢やミクロネシアがどういう経緯によって日本の支配下に置かれたかについては、ほとんど覚えていない。しかしながら、日本の植民地支配や太平洋戦争の結果は個人的にも政治的にも彼の人生に深く、永続的に影響を与えた。
トシヲ・ナカヤマの戦争に対する記憶は強い党派色や被害者意識よりも内省的、融和的な考え方に基づいていた。彼はトールの丘の上で、「ヘイルストーン作戦」と命名された米軍によるトラック島(現チューク島)の日本軍拠点への猛空爆を目撃した。上空を埋めた米軍機から落下した爆弾の炸裂音を聞き、海に停泊中の日本軍の艦船が攻撃され、そこから巨大な煙が舞い上がるのを見た。この米軍の爆撃後は、それぞれの島の状況によってチューク島民と日本人の関係が決まっていき、戦後期を迎えることになった。
トールでは戦時中、多くの民間の日本人も現地島民も一緒に避難したため、関係は比較的良好だった。日本人の父親を持った家族は他の環礁湖地帯の多くが経験したような戦時の過酷な経験をそれほど味わうことはなかった。トシヲは自分の家族にはいつものように十分な食べ物があったと記憶している。母親のロサニアはしばしば日本の施設から余分目に食料を持ち帰り、その一部を食料不足にあった近くのカトリック伝道所に送っていた。
戦争が終わりに近づいた時、日本軍は島内の深刻な食料不足に対処するため、すべてのチューク人を虐殺し、その人肉を食べる計画をしているというとんでもない噂が流された。また、上陸してくる米軍が島民に野蛮な扱いをするのではという心配も大きく広まった。空襲時に撃墜された米軍機のアメリカ人飛行士に対する同情はあまりなかった。
トールでトシヲはボートに乗った米軍飛行士が頭を垂れ、手紙らしいものを読んでいる姿を見たのを覚えている。その飛行士は日本軍に捕らえられたが、日本兵とほとんど友好的に、くつろいだ様子で会話していた。チューク島民の一団がその米兵に投石しようとしたが、日本兵が介入し、食い止め、米兵を連れ去った。ただ、トシヲはその米兵が処刑のため連行されたと思った。
チュークの人々は日本兵の撤退にそれほどがっかりしなかったかもしれないが、日本人の夫や友人、雇用主、隣人を奪われた多くの人にとっては、極めて個人的な感情としてつらい経験となった。日本人の帰国命令は時折、突然発表されたことから、彼らはショックと哀しみの複雑な感情に襲われた。日米の戦闘員同士の間に、どのような敵対感情があったとしても、父親のマサミ・ナカヤマはそれとは無縁で、自身の英語能力を生かして、島の占領にきた米軍とは気軽に付き合った。トシヲは父親が時折、米軍と冗談話をしていたことを覚えている。
マサミは家族とともに、チューク島に残留したい意向をほのめかしていたが、米軍の占領政策はすべての日本国籍の市民の残留は許可しなかった。マサミの帰国に際して妻のロサニアか男の子供たちのうちのだれを同行するかという話し合いはなかった。というのも、マサミは戦後日本の厳しい状況では島育ちの者にとって生活は困難であると考えていたからだ。
帰国の日、ロサニアと長男、二男の三人だけで、マサミの出発を見送った。トシヲは病気と別れのつらさを理由に、トールに居残った。トシヲが父親と再会するのは約十五年後だった。トシヲは一九六一年、ニューヨークの国連本部での信託統治理事会に証人として出席したあと、日本を訪問し、父親から届いていた手紙の住所を手掛かりに居所を探し当て、横浜の鶴見(品川説もある)で父親と再会を果たした。
当時は信託領の市民は厳しい旅行制限が課せられており、トシヲはその規則に挑戦して、ニューヨークから直接帰国せず、この日本訪問を行った。父親はこの再会の時のトシヲの勧めによって一九七二年、ミクロネシアに戻り、終生そこで過ごした。
日本人の父親を持ったおかげで、トシヲ・ナカヤマは戦時期のチューク島で差し迫った苦難に直面することはなかった。しかし、戦後期の諸状況はあまりよくなかった。ミクロネシアが日本の占領下から米海軍行政に移行した時代に、ある文化人類学者が現地調査した結果、ミクロネシアと米国関係に人種偏見の長期的影響が存在することを懸念した。ナカヤマもそれを感じ、米国の海軍行政関係者やその後の民政関係者の無能力さや無関心さに原因があることにすぐに気付いた。アメリカ人の到着は決して解放や自由をもたらしたわけではなく、単に別のより異国の植民地体制になっただけだった。
米国支配の初めの数年は、現地住民の生活はほとんど良くならなかった。しっかりした行政機構はなく、行政の焦点もあいまいでな、秩序に欠け、戦前と比べて、物質的快適さもなかった。もし第二次世界大戦で日本が勝利していたらどう反応したか、と聞かれた時、ナカヤマは「私にはその結果を受け入れるのはそう難しいことではなかっただろう」と答えた。このコメントは理解できるにしても、彼が主導して取り組んだ脱植民地化のプロセスとはあまりそぐわない違和感がある。
ナカヤマは一時的にせよ地域的にせよ、人生で人種・民族的偏見を経験したことはなかった。戦前、トロアスの日本人とチューク人の混合社会で住んでいた少年時代、彼は一部の遊び仲間よりはかなり色黒だったが、他の仲間と比べると、それほどではなかった。日本がこの南洋諸島で植民地の運営、行政をしていた時には、社会階級による人種差別があった。また、米占領軍がチューク人や他のミクロネシア人に言及した時に発した侮蔑以外にも、チューク人の環礁湖外縁の他の島民や他の環礁定住者に対する差別などもあった。
戦後すぐの時期には、環礁湖地帯の有力な酋長ペトルス・マイロらによって、混血の人々に対する警戒や猜疑の声が出された。後年、ナカヤマは、大統領時代に日本からの賓客や政府関係者、ビジネスマン、観光客らが、大統領はどんな風貌の人物かという興味津々の期待感を抱いて彼の執務室を訪れたが、彼らは真っ黒なナカヤマを見て、一様に驚き、飛び上がらんばかりだったと語っていた。
グローバル化の時代を迎えた今日では、国民国家の関係性や有効性に挑戦するかのように人やモノ、アイデア、技術などが国際的に自由に移動し、中心的課題は出入国管理や境界の希薄化への対応にある。こんな時代に国家建設について話すことはあまり時宜を得たものにはならない。
それでも、われわれは、近代化の信奉者であるトシヲ・ヤマナカの国家建設への強い信念を理解すべきである。ナカヤマの政治家時代の初期には、彼に批判や疑いの目を向ける人たちもいた。彼を一種の道具、傀儡、自己目的の政治家として見ていた。イタリアの共産主義思想家のグラシム理論によって分析すると、ナカヤマや彼のような地元エリートたちは覇権的秩序の道具として、意図的であろうとなかろうと、自らを隷属化し、国民の服従、犠牲に協力したと理解されるかもしれない。
ナカヤマが当初チューク州政府の職員になったことやミクロネシア議会で議員の立場にあったことは、米国のミクロネシア支配の目的のために、民主主義政府の原則と手続きを利用する真似事の努力をしただけだと、安易に解釈することが可能である。しかし、これに関連して言えば、インドの歴史家ラーマチャンドラ・グハはイデオロギー的道具や支配の構造は、従属する下位の社会階層の人々によっても利用され、少なくとも従属や支配を緩和する対抗手段にもなる、と警告している。われわれはこうした意見にも耳を傾けるべきだ。この警告は依然有効である。
この考え方はミクロネシア議会の議員となったナカヤマのケースにも適用できる。彼は同議会が創設された一九六五年から一九七九年の解散まで議員として働き、その半分の期間は上院議長であった。同議会は当初策定されたその目的に沿って、わずかの予算配分と少しだけの、あるいはほとんど実質的な行政権限のない助言と同意の機関であった。
同議会で可決されたすべての法案の成否は統治領の高等弁務官(総督)による一度ならず最終的拒否権に委ねられていた。さらに、議会にはこれらの権限制限に加え、七四五ページに及ぶ統治領法規に基づく運営要件のほか、定足数、両院協議会、投票、決議、委員会報告、演説儀礼、法案提出と読会、討論のルール、予算承認と執行などに関する議会規則があり、複雑な運営方式になっていた。
ミクロネシア議会は米国議会をモデルにしたものであったが、その雑種性において欺瞞的であり、危険でさえあった。議会運営も現地の文化や歴史との関係から、決定的な特異性や相違点が多く生まれ、鏡のようなイメージで米国議会の完全な複製を期待していた人々を怒らせてしまった。つまり同議会はより大きな政治システムの圧倒的利益に役立つように操作できる、まがい物の立法機関であった。
ナカヤマと同僚議員たちの努力は、個人的な関係や血縁関係の義務、民族的忠誠、部族的な繋がりのほか、私的野心、地域主義とそのライバル関係など多くの問題によって影響された、と理解する必要がある。議会は確かに模造品であった。しかし、ポスト植民地主義論を提唱したインド出身の学者ホーミ・K・ババによると、ほとんど同じだが、実際はそうでもない特徴を持つ模造品というのは、植民地当局をかえって不安定にするという。また、それぞれ違う島々の代表者がおおむね植民地者(米国)の言語でお互いに交流することによって、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが言うところの、自分たちの苦悩の背景にある社会的、経済的諸問題と「実際に遭遇」することを証明する結果になる。
ミクロネシア議会は一九七六年、ナカヤマの日本再訪問を可能にした。彼は日本で、中断していた日本―サイパン間の航空路開設交渉に取り組み、成功する活躍を見せつけた。この路線開設は彼自身が他の多くの関係者ともに、将来の自治、独立のミクロネシア連邦の経済発展にとって死活的と考えていた。
だが、ミクロネシアはまだ自由な外交交渉ができない時期だっただけに、この交渉は日米両政府を驚かせた。交渉終結後、ナカヤマとミクロネシア下院議長のべスウェル・ヘンリーは路線運航の遅れから、当時の日本の鳩山威一郎外相と旧運輸省航空局の山地進(後の日本航空社長)に抗議の手紙を送り、「一年ぐらいの(路線運航の)遅れは日米両国の長期的な利益にとってはとるに足らないものかも知れない。しかし、それは数年後に西太平洋の最も新しい独立地域になる予定の島々には深刻な経済の後退となる」と書いた。
ナカヤマは父親の血統が日本へのアクセスや他の有利さを彼に与えていることは十分知っていたし、議員時代とその後の二期にわたる大統領時代にそれを政治的にうまく活用した。ナカヤマは実践的、実務的で、政治家だった。彼は日本に対するいくつかの計画を持っていた。彼と下院議長は翌一九七七年、再び日本を訪問し、福田赳夫首相やその最側近、閣僚、国会議員たちと会談した。会談の中心テーマは当時と将来の両国関係、ミクロネシアの島々に対する日本の経済支援に関するものだった。
会談でナカヤマはミクロネシアの将来にとって、日本がいかに重要かを強調し、島国同士の両国の正式な外交関係が樹立される日への期待感を表明した。彼は当時の状況では初めてとなったこうした会談が実現したことを“奇跡”と呼び、「後日“長いショッピング・リスト”を持って戻ってくる」と約束した。日本はミクロネシア連邦が生まれた早い時期に同国を承認し、経済援助を供与する際立った役割を果たした。ミクロネシアは米国からの援助を別にすれば、連邦発足前の一九八一年に、日本から、幹線の周辺道路建設のための重機供与の第一号援助を受けた。日本はミクロネシア連邦も調印していた国連海洋法条約に基づいて同連邦海洋当局と漁業協定の交渉をした最初の国となった。
ナカヤマはその後,外交的、個人的理由による様々な機会に日本を訪問した。例えば、ナカヤマと妻ミテルは一九八四年、当時の皇太子殿下(明仁親王)と美智子妃殿下が主催して銀座・東急ホテルで行われた日本・ミクロネシア協会のパーティに出席した。夕方のパーティ前に、夫妻は皇太子殿下と私的な午後のお茶会を楽しんだ。
皇太子殿下は実はこれ以前の一九七九年に、夫妻の長女ローズマリーが青少年交流計画のミクロネシア代表団の一員として日本を訪問した時、東宮御所で彼女と会っていた。その折、皇太子殿下は彼女の日本名の名札に気付き、両親について質問した。彼女は「父親は大統領です」と答えたら、皇太子殿下は「御父上にもお会いしたいですね」と語っていた。お茶会については、当時外務省はミクロネシアがまだ完全な独立国ではないことから不適切だと反対したが、両国関係の友好発展を願う関係者は、大統領の娘と皇太子殿下の縁を大事にすべきと力添えし、実現した。
ナカヤマはパーティのあと、横浜で行われた日本統治時代にミクロネシアで住み、働いた経験のある人々の全国的親睦団体「南洋群島会」の集いに参加した。彼はこの集いで、日本人ホストたちの歓迎に感謝の意を表明し、自分の父親は横浜出身で同親睦団体の会員でもあった、と述べた。日本滞在中、彼はベラウ共和国(現パラオ)やマーシャル諸島共和国の各大統領とともに、アジア太平洋国会議員連合会の会合にも出席し、当時の中曽根康弘首相と会談した。これは日本の首相とミクロネシア政府首脳との初めて会談となった。
後日の一九八四年十二月、ナカヤマは日本の読売新聞と会見し、数年後には両国の結び付きが一層強化されることを期待する、と表明し、日本からのさらなる援助を求めた。この会見で、彼は米国との自由連合盟約とその防衛条項について説明するとともに、懸案となっていた日本のミクロネシアに対する戦後賠償問題についても「私の国民に支払う一定の方式でこの懸案が早期に解決することを希望する」と述べた。
ナカヤマは時に日本に対し、強硬な立場を見せた。彼は日本からの援助が必要だとしても、ミクロネシアの海洋環境の破壊にははっきりと反対する声を止めなかった。議員時代に、彼は太平洋に核廃棄物を投棄するすべてのどんな計画にも一貫して反対した。一九八〇年に、彼は他のミクロネシア諸国の首脳とともに、マリアナ諸島の北方約八百六十キロの公海で、一万バレルの低レベル核廃棄物を投棄しようとした日本の計画の中止を強く求めた。
一九八四年六月下旬、ポンペイ島に寄港した日本の「平和の船」の船員たちに対し、ミクロネシアとしては同海域でのすべての核実験、核廃棄物投棄に反対すると語った。この年の後半に、ツバルで開催された南太平洋諸島フォーラム(現・太平洋諸島フォーラム)でも、反核実験、反核廃棄物投棄の決議に声を大にして支持した。
ナカヤマは大統領二期目が終了した後も、日本との関係維持に関与した。彼は一九八九年、皇太子殿下の天皇即位式にも日本を訪問し、一九九一年から二〇〇三年まで、両国の歴史的な繋がりを発展させる目的で設置された日本・ミクロネシア連邦友好議員連盟の会長を務めた。同連盟会長はその後、父親の茂喜が戦時中、軍人としてチューク島にいたこともある森喜朗元首相が引き継いでいる。
ナカヤマの日本語能力は限定的で、チューク語は話せたが、ミクロネシア連邦の実現に関する交渉や立法措置では英語を使っていた。彼の口調はソフトで素朴、飾りたてた言葉は使わなかった。時々、冠詞や所有格、前置詞を省略し、下手な表現や言葉を使うこともあった。それでも彼の限られた正式教育から見て、かなり堪能な英語力を持っており、極めて高度で複雑なアイデアにも十分対応できた。これらの資質から、彼は多くの点で近代化論者であり、近代化が約束するものを信じていた。
彼は民主主義、経済開発、国民国家、国家主権といった言葉を無批判的に、文字通りの意味で使った。一九六〇年代後半から七〇年代前半に、米国からの大規模な援助が流入し、ミクロネシア内外の多くの関係者はこの地域が依存体質を強めるのではないかと懸念したが、ナカヤマは援助はまだ十分ではない、と主張した。自治・自立の国家の経済的基盤のためには何が必要か、と質問された時、彼は海と太陽、風を指差し、日本の開発例を参考に挙げた。
彼は海外の開発専門家に言及しながら、「彼らはわれわれに、陸からも海からも得るものは何もない、というが、みんな大嘘付きだ。彼らはわれわれを馬鹿にしている…。日本では富士山の空気を瓶につめて、販売している(冗談)。物事(時代)は常に変わる。きれいな空気は大変貴重になる。太陽は薬のようになるかも知れない」と語った。
統一した独立ミクロネシア国家の可能性に疑問を抱く多くの人々がいた。それは途方もない、非現実的でうまくいかない、あきれ返るような考えのように受け止められた。しかし、ナカヤマはそうした疑問や懐疑に対して、自分の希望と意気込みを語る物語で、反撃した。彼はなかなか物語上手であった。彼はこのミクロネシア全体の海域がマーシャル諸島、カロリン諸島(現ミクロネシア連邦)、マリアナ諸島、パラオ諸島など六地域に分けられ、それぞれ違う植民地体制で統治され、各諸島に違いや多様性があったにも関わらず、全体の統一の可能性を強く信じていた。
一九七八年のミクロネシア憲法草案の住民投票の前に、彼はその承認を促すために、各諸島を広く訪れた。それらの島々で、彼は、一度ばらばらに解体された神が人々の信仰によって再び元の姿に戻ったという伝説を紹介し、団結を訴えた。また、米国のように広大で、豊か、力強い国とミクロネシア代表が交渉するのに、どんな手だてがあるのかと不信感を持つ人々に対し、「ある時、群衆の中にいた若い少年が一人で象を動かすためにその睾丸を締めつけた」という民話を語った。
こんな物語は別にして、我々は世界のどこの地域でも国民国家を築き上げるのに伴う巨大な複雑さを過小評価すべきではないし、とりわけミクロネシアの場合はそうである。航海士たちは血眼になって、航路を追う。彼らは昼夜の別なく、カヌーの航跡を見守りながら監視を続ける。空の星、波、潮流のほかにも海のすべての兆候を読みながら、自分の位置を見定める。ミクロネシア連邦(FSM)の実現に最も責任のあった個人として、トシヲ・ナカヤマは時に血眼になって活躍した。
ナカヤマとミクロネシア連邦にとって、米国政府との交渉は複雑で、挫折と緊張、しばしば行き詰まりを見せながら、一三年に及んだ。交渉は八分科会で続けられ、ワシントン、ハワイのホノルルやヒロ、グアム島を舞台にそれぞれ別々に行われた。
この交渉で、ナカヤマは一九七九年までミクロネシア・チームの中心的役割を担ったが、同チームはニクソンからレーガンまで四人の大統領時代の米政府とCIA(米中央情報局)関係者、相互に齟齬もあるバラバラの要求をした米三軍、さらに民間関係者などを相手に、格闘しなければならなかった。
また、この間に、マリアナとマーシャル、パラオ各諸島は米政府とそれぞれ別々に交渉することを決め、ミクロネシア・チームから離脱した。自由連合協定に前提として必要な米議会の関与を嫌ったり、合意済みの援助額の削減を提案するなど、交渉はかなり難航した。結局、交渉は一九八二年に終了し、この後、四年間にわたり、ミクロネシア連邦住民に対する啓発活動や同協定原案をめぐる全国規模の住民投票、さらに連邦四州の州議会と連邦議会、米国議会、国連のそれぞれの承認作業が行われ、米国の統治領行政当局が正式に解散され、事実上の独立国家ミクロネシア連邦が発足したのは、ナカヤマが二期目の大統領を終える前年の一九八六年だった。
ナカヤマはミクロネシア議会の議員時代から強硬な独立論者であったが、物静かな人物で、上院議長の期間にはあまり演説をすることもなく、議会運営に関する事務的な仕事に専念することを好んだ。彼の最も有名な議会での発言は一九七一年の上院議員時代に行ったわずか七語の「議長、ミクロネシアは独立すべきです」というものだった。そのため、彼が米国との自由連合協定に支持を表明した時は、以前の立場と矛盾するその態度豹変に一部の人々は驚いた。しかし、彼自身はそういう捉え方をしなかった。
ミクロネシア連邦憲法には、米国側の当初の反対と引き伸ばしのあと渋々黙認した、完全な自治と主権国家の基盤が盛り込まれている。同憲法は他のすべてのどんな協定より優越性を持っていた。彼の考え方からすれば、自由連合協定を締結すること自体が国家主権の行使、つまり主権国家としての行為であった。同協定によって米国と引き続き連携していくことの危険性について質問された時、彼は「海には多くの鮫がいる。
ミクロネシア連邦にとって究極の優位となるのは、最も醜くて、卑しくとも、一番大きい鮫と同盟することだ」と答えた。同自由連合協定に付属文書として追加された相互安全保障協定で、ミクロネシア連邦は米国に軍事・防衛を委ねるが、これについてもナカヤマは第二次世界大戦の記憶を引用して説明した。
ナカヤマは自分の世界観や政治哲学についてはっきりと詳細に書き残すことはしなかった、彼のそれらの見解を知るには、彼の数々の演説やインタビュー、議員と大統領時代のわずかの通信文書類から探り出すしかない。この点では、彼はニューカレドニアの独立運動指導者ジャン・マリー・チバウやパプアニューギニアの政治家・法律家バーナード・ナロコビ、ハワイ大学の教授兼先住民活動家ハウナニ・ケイ・トラスクのような、自分たちの国民に対するそれぞれのビジョンを幅広く書いた人物たちとは違っている。
彼は日本の列島としての特徴についても、はっきりと書いたり、語ったことはない。しかし、沖縄などの南西諸島から日本列島を見た場合、日本は“島々の連なり”として捉えられると主張した作家島尾敏雄の「ヤポネシア」(ラテン語で日本と群島を意味する造語)論の概念を知っていたのではないか、と私は考えている。
また、海外旅行や国際体験を重ねた彼は、日本の文化人類学者今福龍太の提唱した「群島世界論」にも大いに共鳴しただろう、と思う。今福は歴史を大都市中心の捉え方から離れ、世界の島々やその島民たちがいかに互いに交流し、知識と意識のハイブリットなネットワークを築いてきたかを示す歴史観を提起した。
多くの意味で、ナカヤマの人生は海洋を超えた特性を持っていた。彼が生き、働き、旅をしたその広範な世界は、植民地勢力が線引きした境界や押し付けたその歴史を拒んでいる、と言ってもよい。彼の人生は過去とその継続との繋がりや接続を示すものだった。彼の人生を理解するには、家系的な日本との結び付きと日本・ミクロネシアの関係のみならず、島国国家日本のアイデンティティーをも考慮する必要性がある。こうしたアプローチによって、英語圏にとっても、島嶼国家ミクロネシアと日本の関係の複雑さを考慮し、単なる戦争の勝利、敗北の歴史を超えた物語が求められることになるだろう。
(注・ミクロネシアはマーシャル諸島やパラオなどを含む、戦後米国の太平洋諸島統治領全体を指し、ミクロネシア連邦はチューク環礁島など四つの諸島を指す。したがって、ミクロネシア議会は全体の議会で、ミクロネシア連邦議会は後者の議会になる)