7月16日付「ろんだん」の荒木和博さんの「『専守防衛』の虚構に決別を」に賛成です。
専守防衛とは、辞書によると、「他国へ攻撃をしかけることなく、攻撃を受けたときにのみ武力を行使して、自国を防衛すること。武力行使を禁じた日本国憲法下での自衛隊の主任務、性格についていう語。」とあります(デジタル大辞泉)。グーグルで調べますと、「『相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し,その防衛力行使の態様も,自衛のための必要最低限度にとどめ,また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限られる』とされている (1989年版『防衛白書』) 。」とあります。
平成30年12月18日、閣議で決定された「平成31年度以降に係る防衛計画の大綱について」には、「我が国の防衛の基本方針」として次の記載があります。
<我が国は、国家安全保障戦略を踏まえ、積極的平和主義の観点から、我が国自身の外交力、防衛力等を強化し、日米同盟を基軸として、各国との協力関係の拡大・深化を進めてきた。また、この際、日本国憲法の下、専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国にならないとの基本方針に従い、文民統制を確保し、非核三原則を守ってきた。
今後とも、我が国は、こうした基本方針等の下で、平和国家としての歩みを決して変えることはない。>
●ガンは日本国憲法とその解釈
積極的平和主義とか、外交力、防衛力等の強化とか、日米同盟を基軸とか、正しい方針も当然ながらありますが、ごまかしが含まれてゐます。ガンは日本国憲法です。それとその解釈です。
政府は当然のことながら、自衛隊は憲法違反ではないと解釈してゐます。平成29年11月9日の「ろんだん」で私が西修先生に指摘されたやうに、憲法9条2項は、「『戦力の保持』を禁止しているが、自衛権の行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することまでも禁止する趣旨のものではなく、この限度を超える実力を保持することを禁止するものであ」り、自衛隊は、この限度を超えてゐないから憲法違反ではないといふのです。
私はこの解釈はごまかしだと思ふものです。憲法9条を見てみませう。
<日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。>
私が弁護士であるからいふわけではありませんが、法律の文章は一字一句を厳密に解釈しなければなりません。第1項で、永久に放棄するのは、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」なのです。したがって、自衛のための武力の行使は認められるのです。実は(といふほどのことではありませんが)、ここまでは憲法学者の通説です。
●「解釈」が「憲法」に優先する奇妙さ
次に、第2項の、陸海空軍その他の戦力を保持しないのも、国の交戦権を認めないのも、第1項の目的を達するためなのです。これは芦田修正といはれるものです。では「前項の目的」とは何か。第1項の平和保持の目的とか、第1項全体を指すとかといふのが憲法学者の多数説です。
しかし、この解釈は素直な文理解釈ではありません。ここは西先生のいはれるやうに、侵略戦争などをするためには戦力も持てない、交戦権も認められないが、自衛のためなら認められるといふやうに解釈すべきです。
まして、これも西先生が強調してゐることですが、憲法66条2項の「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」といふ規定との関連が重要視されるのです。これは、芦田修正の後、当時の貴族院の審議の過程で付け加へられたのです。これは軍の存在を前提とした規定であるからです。
2項には、交戦権などといふどこの国の憲法にもない奇妙な規定がありますが、それはさておき、芦田修正と文民規定とで、憲法は自衛のための軍隊を持つことを認めてゐるのです。ところが冒頭述べたやうに、政府の解釈は、憲法は、軍隊を持つことを禁止してをり、「自衛のための必要最小限度の実力を保持すること」だけを認めてゐるといふ変な解釈なのです。荒木さんは、「虚構から足を洗おう」と主張します。賛成です。
政府は一日も早く憲法解釈の変更をすべきです。