最近の最高裁判所や下級審の判決が話題になることが少なくない。同性婚、夫婦別姓、戸籍上の性の変更などをめぐり、現行の民法その他の法律の規定が憲法違反であるとか、違憲状態にあるなどの判決が出た。
それらの判決理由には、私が賛成できないものが多い。一部の世論に迎合してゐるのではないかと思はれるからである。同性婚を認めないのは憲法違反であるとした高裁判決の問題点は3月19日の「国基研ろんだん」で、同性婚を認めよという主張への反論は5月13日の「今週の直言」(第1146回)でそれぞれ書いた。
そこで、今回は一般論として司法の役割、その中で裁判官がどうあるべきかを考へてみたい。
増えてきた違憲判決
いふまでもなく、裁判官は個々の事件について、法に従つて判断しなければならない。法とは、憲法、法律、政令、条例その他の成文化されたものだけではなく、慣習や判例なども含まれる。最も重要なものは憲法である。実は憲法も書かれたものだけではなく、特に解釈に当たつては、慣習や常識も含まれる。
その中で最も重要なものは憲法解釈である。裁判所には、「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないか」を決定する権限がある。それを違憲審査権といふ(憲法81条)。
裁判においては、法に定められた権利が守られる。最も重要なものは人権の擁護である。下級審の場合は1人または3人、最高裁の場合は小法廷なら5人、大法廷なら15人の裁判官が国会で制定された法律を違憲と判断し、確定すれば、その法律は無効となる。これは民主主義に反するのではないかといふ議論がある。他方、民主主義の暴走を抑止し、健全な民主主義を守るものであるとの議論もある。
我が国の裁判所は、米国と比べて違憲判決の数が少なく、これを司法消極主義といひ、左翼からは批判されてきた。しかし、我が国の裁判所は、違憲判断に及ばない形での事実上の立法をしばしば行つてをり、米国の学者から日本型司法積極主義と呼ばれてゐる。たとへば、男女の定年年齢差別の是正、交通事故被害者の逸失利益算定基準、公害における無過失責任、正当理由がなければ解雇ができないことなどは、立法に先立ち判例によつて確立されてきた。
違憲判決が少ないのは、我が国の裁判官の任命制度と自民党の長期政権が原因であるといふ意見がある。日本の裁判官の任命制度では、法曹資格取得後、若いうちから裁判官になり、順次昇進する。すると、時の政権に反対するやうな判決を出さない者が昇進する傾向があるといふ。
ところが、この憲法違反についての司法消極主義は、冒頭述べたやうに、変化を見せてきた。日本の社会を変へてやらうといはんばかりの判決がみられるやうになつた。8月5日の朝日新聞のやうに、同性婚を最高裁が認めるかどうかが「本丸」だなどと煽るマスコミもある。
最高裁裁判官任命に国会事前報告を
最高裁の裁判官は、内閣が任命する(長官は天皇が任命するが、内閣が指名するので実質的には同じである)。自民党政権では、この任命権を活用して保守的な裁判官を任命するといふやうなことをせず、裁判官出身者、検察官出身者、弁護士、学者、外交官、厚労省出身者などへの習慣的な割り当てを墨守し、出身母体の推薦をそのままに任命してきた。国民のほとんどは誰が最高裁裁判官なのか知らない。
これは米国の最高裁の裁判官の任命とまつたく異なる。大統領が指名し、上院の承認を得て任命される。上院での承認のための議論は国民的な関心を呼ぶのである。
国民がほとんど知らない裁判官が日本の社会変革を企てるなど、司法権の逸脱である。最高裁裁判官の任命には、国会での承認を要するとすれば、国民の関心を呼ぶことにもなり、立法、司法、行政の調和を図ることにもなる。もちろんこれは憲法改正が必要であるが、とりあへず、内閣は任命前に裁判官候補者の経歴などを国会に報告することにしてはどうか。(了)