公益財団法人 国家基本問題研究所
https://jinf.jp/

エドワード・マークス – レオニー・ギルモア:イサム・ノグチの母の生涯

エドワード・マークス

 世間ではあまり知られてなかった私の作品を選んでくださった国家基本問題研究所、及び寺田真理氏にまず、お礼を申し上げます。

私が、彫刻家イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアの伝記を書いたことを知っている人はいるかもしれません。また、レオニー・ギルモアの伴侶として数年間を過ごしたイサム・ノグチの父親、詩人の野口米次郎の伝記を執筆中だということもご存じかもしれません。

ドウス昌代が書いた『イサム・ノグチ 宿命の越境者』のほか、二〇一〇年に映画化された『レオニー』をご存じの方がいるかと思います。

日本では、野口米次郎として知られているヨネ・ノグチですが、私は、ヨネとレオニーに関する二冊の本にとりかかって、およそ二十年経っています。そして、レオニー・ギルモアについて、ようやく一冊を書き上げることができて、とてもうれしく思っているところです。ヨネ・ノグチの本もそろそろ完成したいと思っていますが、まだまだ、道半ばです。

実は、先週、ヨネ・ノグチ学会の二回目の会合を開きました。そこに九名も参加があったと喜んでいるほどで、彼を研究している人の数も足りません。

今日は、この二冊の本について話したいと思っています。というのは、二冊で一つのプロジェクトを構成しているからです。

これまで、人は、私のことをちょっと変わった「ヨネ・ノグチ」オタクだと見ていましたが、数週間前、受賞の知らせが入ったあとは、名を成した伝記作家らしいということに変わってしまいました。(笑)

これからする話は、私がなぜヨネ・ノグチに魅了され、のめり込んでいったかという内容ではありません。伝記作家として成功するにはどうしたらいいのか。その秘訣をまずお話したいと思います。

ただ、その方法を聞いても、あまりおもしろくないかもしれません。というのは、ほとんどはネットで検索して、ときおり図書館に行って資料を探しては書き直すという作業の繰り返しですし、日によっては一パラグラフ(一節)ほどしか書けないときもあるからです。しかし、やっている側としては、とてもおもしろい作業です。逆に、ヨネ・ノグチの知られざる部分をネットで探しているより、漠然とテレビを観ているほうがいいという人の気がしれないほどです。しかし、人それぞれ趣味が違うのですから、しょうがないとは思います。

伝記作家の仕事は、他人の人生を語ることです。まず、物語には三つの要素があります。プロット(筋)、キャラクター(登場人物)、そしてセッティング(舞台設定)です。おそらく皆さんも学校で教わったのではないでしょうか。

最初に、プロット(筋)について話します。書き始めたときは、伝記なのだから、年代順に書いていけばいいだろうと思っていました。まず、家族的な背景描写から始まって、主人公が生まれてから死ぬまでを追いかけていって、現在につなげていく。主人公の人生の中で起こった重要な出来事を取り上げ、順に正しく並べていけば、とりあえず伝記になると思っていました。

皆さんも一度、こういう書き進め方にトライしてみてはどうでしょうか。ただ、年代記として伝記を書くと、二つの問題が出てきます。

第一に、おもろしいところから書き出さないと、読者は決して読み続けてくれません。第二に、単に「産まれた」、「生きた」、「死んだ」では不充分です。読者をつかんで離さない問題あるいはストーリーが必要になってきます。

有名人の場合なら、ストーリーの内容はおおよそ察しがつきます。しかし、知名度の低い人が題材の場合には、作家がストーリーを考え出していかなければなりません。

そのためには、まず、情報をコツコツと集め、その情報をふるいにかけ、行動のパターンを見つけ出します。そして、本能のおもむくままストーリーを組み立てては書き直し、まとめ上げていくという作業になります。

第二の要素はキャラクター(登場人物)です。伝記の目的は主人公を描写することです。もちろん、主人公ただ一人では物語は成り立ちません。必ず脇役が必要です。その脇役について、どのくらいのページ数を割けばいいのか。読者の立場でしたら、主人公を説明するのに、過不足なく書けば十分だと思うかもしれません。しかし、伝記作家は、登場人物のすべてを克明に知る必要があるのです。すべての登場人物を知り尽くしていないと、お互いの関係がわからないからです。優れた伝記作家は脇役のことを十分に知ったうえで、必要に応じて記述していきます。

私もそうしながら、レオニー・ギルモアの伝記を書き上げていきました。そもそも、最初の構想では、レオニーはヨネ・ノグチの本の脇役でした。

筋と登場人物が伝記の核になります。そして、伝記作家の仕事は、それをストーリーにまとめ上げることです。いわばストーリーを形づくるということです。まさに、そこが作家の本領を問われるところだと思います。

作家はあくまでも、作品の背景にいるものです。しかし、今日は私の仕事について聞きたいと思っている方も多いと思いますので、あえて背景から抜け出し、作家がいかにストーリーを探してまとめ上げていくのか、その舞台裏にご案内したいと思います。

伝記には読者の心をつかんで離さない物語性が必要です。レオニー・ギルモアの場合、それはヨネ・ノグチとの恋愛ドラマでした。ただ、その恋愛自体はそれほどでもなく、破局がよりドラマチックであったということです。

破局した原因は、ヨネが別のアメリカ女性に目移りしたからです。エセル・アームスという人でしたが、エセルは映画化された『レオニー』のバージョンには出てきません。彼女はヨネとの関わり合いが強かったので、おそらく映画に入れてしまうと主人公の影が薄くなってしまうという判断が働いたのだと思います。

しかし、この部分を省略したことは私の腑に落ちませんでした。というのは、このストーリーの中で、別れるところがとても大事な部分だったからです。そこをできるだけ理解することが、必要だったと思いますが、エセルがストーリーの中に入っていなかったので、その分、ヨネの行動がわかりにくくなってしまったと思います。

レオニーがその女性の存在をまったく知らなかったのなら、エセルのことは省略してもよかったと思います。しかし、実際、レオニーはエセルがいることを知っていたわけです。そして、逆に、エセルとヨネとの関係を修復しようともしているわけです。こんなに重要な情報を省略してしまうことは、裁判で重要な証拠を出さないことと同じではないかと思ったくらいです。

私はレオニーの物語を、レオニーを訪ねていったエセルの友人が書いた手紙から始めることにしました。レオニーと彼女を取り巻く環境を客観的に描写するためです。

実は、その手紙によって、主な登場人物のほとんどがつながっていったのです。エセルの友だちはレオニーだけでなく、イサムやレオニーの母とも会っていましたし、その手紙はエセル宛てでしたが、ヨネの親しい友人のチャールズ・ストダードに転送されています。さらに、そこからヨネの友人、フランク・パトナムにも話が伝わり、やがて、ヨネとレオニーに「もう一回よりを戻させたほうがいいのではないか」といったところまで話が発展したからです。

私はまず、読者にストーリーの向かう先を確認してもらい、レオニーの生涯を最初から最後まで追いたいと思ってもらえればいいと思っていました。どうして、こんなふうになったのか、困難にどう立ち向かっていったのか。そんなふうに興味を持っていただければ、うれしいと思いました。

ストーリーの大事な部分については、私が集めた情報のすべてを投入したつもりです。人によっては、それでは百科事典のようだから、もっと情報を絞り込んだほうがよりおもしろくなったはずだという意見もありました。それにも一理あると思います。しかし、もしかしたら、レオニーの話が本になるのは、この一冊限りかもしれないのです。ですから、この一冊の中に、渾身をこめ、特に、レオニー自身が書いたものを、入れられるものはすべて入れようという意気込みで書きました。

情報をできる限り詰め込むことで、後日、これを素材にして、別の料理の仕方を考える人が出てきたとき、役に立つという思いでした。

ということで、本の中には、私自身の解釈上のバイアスを最小限に留めておいたつもりです。ですから、数ページ飛ばして読まれても、理解できなくなるおそれのない構成になっています。

筋と登場人物について話しましたので、次に第三の要素であるセッティング(舞台設定)について話をしてみたいと思います。

脇役と同様、作家は執筆に際して、舞台設定にはあまり手間をかけないものです。結局、背景の一部にしか過ぎないということからです。しかし、舞台設定が鍵となってストーリーが見つかる可能性も十分にあるものです。

日本は世界有数の文学ツーリズム(文学散歩)の国だと思います。おそらく、皆さんも文学作品にゆかりの地にいらしたことがあるのではないでしょうか。そうした経験をされた方はわかると思いますが、場所はよく意味を理解させてくれるパワーを持っています。

実は、私がヨネ・ノグチについて調べようと思ったずっと前から、ヨネ・ノグチが何年間も、私の行く所に「ついてきた」ということに気づいていました。

ことの発端は、学生の頃、サンフランシスコ・ベイ・エリアにあるバークレーの古本屋で、彼が書いた『ザ・スピリット・オブ・ジャパニーズポエトリー ヨネ・ノグチ詩論』を購入したことです。購入してすぐには読みませんでした。実際に読んだのは、ニューヨークで大学院生になってからです。

ヨネも、私と同様、サンフランシスコ・ベイ・エリアからニューヨークに移っています。彼の住んでいた何ヵ所かの場所に、私もいろいろな時期に住んだことがあったということも、後になって判明しました。彼と同様、私もロンドンに行きました。そして、日本で教鞭をとるようになりました。つまり、ヨネと私は、実際に同じ道をたどっていたということを知り、もう、逃げも隠れもしないで「彼につきあう」ことにしたのです。

ヨネ・ノグチとともに、どのストーリーが重要で、それをどう組み立てていけばいいのか。私はいろいろ悩んでいました。そんなとき、最初に私に重要な影響を与えてくれた人は、大学院の当時の論文アドバイザーだったルイス・メナンドです。

彼はこう言いました。

「ノグチの話はとてもおもしろい。しかし、就職するのに役立つかどうかは、まだわからない。ノグチが本当にウィリアム・B・イェイツ、T・S・エリオット、エズラ・パウンドといった重要な詩人・作家に影響を与えていたとして、それを実証できれば注目してもらえるよ」

当時の文学部は、六〇年代の公民権運動で始まった闘争の後期に当たっていました。多文化主義者やフェミニストが文学を白人男性作家中心からほかのほうに中心をシフトさせようとしていた時期だったのです。八〇年代までに文学部は二分されて、闘争の場になっていました。

大学院時代のほかのアドバイザーは反対側の陣営についていた人でした。そのうちの一人がシリア育ちのインドの詩人、ミーナ・アレギザンダーです。彼は、「新しい声、新しい視点を探すように」と勧めてくれました。

ニューヨーク市立大学は学生も多種多彩で、いろいろな民族の人たちが混じり合っていました。私はニューヨークシティカレッジで教鞭をとりましたが、そのカレッジは、白人学生のほうが少数というキャンパスでした。

当時、すでに故人になっている白人男性作家の作品ばかり読まされると、学生たちは文句を言っていました。その後、数年前から、伝統的な西欧の古典文学コースは一年ものの世界文学にとって代わられ、ホーマーの『オデッセイア』と平安時代の日本の和歌、マリの伝承文学といったものが、同時に同じ講座で教えられるようになっていたのです。

講師にとっては大変でしたが、私は小野小町について講義していました。もしかしたら、あまり説得力をもたなかったのではないかと思います。私と同世代の多くの大学院生は、セクシズム(性差別)とかレイシズム(人種差別)であるがゆえに日の目を見なかった作家の作品を掘り起こすことこそ、自分に与えられた職務だと思っていたのです。

そうした観点から、メナンド先生のアドバイスにあった、ヨネがどの有名な作家に影響を与えたかということはさておいて、ヨネの書いた詩や自伝的な著述について考察したらおもしろいのではないかと思い始めたのです。

ただ、彼の書いた自伝は断片的でしたし、すべてが正確というわけでもありませんでした。しかし、読み物としてはすばらしく、英語文献だけでは知り得ない視点もたくさん入っていました。

いってみれば、重要な作家と新しい声を探すというせめぎ合いの中で、ヨネ・ノグチのストーリーが私の前で、展開し始めたということです。今でも、私にとって、これは大切なテーマです。しかし、一般の読者より、文学の研究者のほうが興味を持つようなテーマではないかと思っています。

調べれば調べるほど、ノグチの影響力がいかに大きかったかということがわかりました。しかも、それがほとんど認められていないことに何度も驚きました。確かに、偉大な作品といえるものはごくわずかでしたし、中には赤面するようなものも入っていました。しかし、二十世紀の西洋及び日本の文学に与えた影響の大きさはたいしたものだと思いました。

二番目は、ヨネのストーリーの心をつかんで離さない部分についてです。

これはレオニー・ギルモアの本にも書きましたが、恋愛ドラマです。恋愛に関して、ヨネに共感する人はまずいないと思います。それでも、作家のドウス昌代と映画監督の松井久子はヨネに対して、必要以上に厳しすぎたと思っています。ただ、私も最近になって、以前思っていたより、ヨネは、もっと悪かったのではなかったかと思うようになっています。

多くの西洋人は国際恋愛、外国人同士の恋愛ということになると、必ず、「蝶々夫人」のように、強い西洋の男性がか弱いアジアの女性を手玉に取るものと思いこんでいる節があると思います。逆に、ノグチや森鴎外のように、日本人の男性が西洋の女性をもてあそぶ場合があるということがわかれば、ステレオタイプのイメージが払拭されるのではないかと思いました。

しかし、すべてが同じパターンであると片づけるのではなく、ケースバイケースを細かく見て、何が起こったのかを押さえることのほうがずっと大事です。

ストーリーの三番目の部分は、アジア系アメリカ人の初期の文学作品集のために、初めて私が書いたノグチについての随筆が出版されたときのことです。まず、これを発端として、「本を書いてみないか」といわれました。特に、編集者の顧問を務めていた、当時の有名なアジア系アメリカ人文学の研究者から、「ヨネをアジア系アメリカ人だと思っている人はほとんどいない」と言われたとき、私はとても驚きました。アジア系アメリカ人の文学は非常に政治的なテーマなのだということに、そのとき初めて気づいたのです。

アジア系アメリカ人の作家と言われるためには、アメリカ国民であるか、少なくとも自分はアメリカ人だとコミットしていなければならないと言われたのです。私は合点がいきませんでした。

彼らはアメリカの永住権を申請しているわけでもなく、単に本を書いていただけです。実際、移民法の制約があったので、アメリカに住みたくても住み続けられない人が何人もいました。

ヨネは、アメリカで十一年暮らしていましたし、アメリカを題材にして本を書き、アメリカで英文の出版をしていたのです。そうした実績があれば、それだけで十分アジア系アメリカ人と認めてもいいのではないかと思いました。

編集者も私の考えに共感はしてくれたのです。そして、イサムは明らかにアメリカ人でしたから、「それなら、ヨネとイサムの関係をもっと掘り下げて書いたらいいのではないか」とサジェストされました。私は、それはちょっと安直すぎると思いました。人気とりのために、アメリカ人にうけるためにテーマを安易にイサムに変えたくなかったのです。しかし、ヨネ・ノグチについての本を書き進めていくうちに、イサムとヨネの物語の関係にも関心を持つようになりました。

もちろん、イサムは、ヨネのストーリーに、ひんぱんには登場してきません。というのは、ヨネは父親としても、父親業を非常に苦手としていたからです。

松井久子がレオニーの映画化を発表したとき、ヨネ・ノグチだったらどんな映画になるのかと考えてみました。NHKなどが、ヨネのストーリーを取り上げるのは、いずれ時間の問題ではないかとも思いました。

ヨネ・ノグチ自身は、いわゆるヒーローではありません。私の話からもわかるように、どちらかといえば、アンチヒーローに近い人です。性格的にも欠点がありました。ただ、伝記を書く者にとっては、若干の悪もしくは邪悪性があるということは、必ずしも悪いことではありません。

より深刻な問題は、内容的に今まで述べてきた三つのストーリーすべてが非常に暗いことです。そして、みんな悪い結末で終わるということです。

日本人は挫折したヒーローに共感を覚えると言われていますが、それでも、彼の場合は、恋愛生活はめちゃめちゃ。父親失格。のちに、熱心な軍国主義者になった無名の作家です。彼に興味を持ってくださいといっても、たぶん無理だと思います。そこで、前向きの結末に向かって書いていくストーリーが必要だと思いました。

日本では、歴史教科書の内容が暗くなるので、侵略戦争などマイナスの題材はすべて省いたほうがいいという人もいると聞いています。国の誇りのほうが重要であるから、マイナスの歴史で誇りを損なうより、教科書にはプラスの歴史を書いたほうがいいという考え方です。

ただ、歴史のプラス・マイナスのバランスを変えようとすると、多くの場合、うまくいきません。ほとんどの人は、真実を好むわけですし、事実を曲解する人を嫌います。学んでいる歴史が改ざんされているのではないかという疑いが生じれば、結局、歴史全体が無視されるようになります。

ただ、作家として、もしくは教授として、マイナスの歴史について、私の問題意識は少し違うところにあります。歴史と向き合う際、プラスの経験を持つことが望ましいわけですが、実は、マイナスの歴史でもプラスの経験になることが可能なのです。逆に、プラスの歴史であってもマイナスの経験になることも同じようにあります。

読者には、歴史がプラスの経験を持つようになってほしいと思います。しかし、無理に一方的な歴史を語り、重要な事実を伏せたうえでプラスの経験を持っても、何の意味もないと思います。

私は作家として、読者に何か有益なものを届けたいと、いつも思っています。一〇〇ページのものから八〇〇ページのものまである私の作品に対して、読者に時間やお金を投資してもらうわけですから、読者も当然、本の中から有益なものを得たいと望んでいると思います。ということで、最後に気が滅入るような終わり方をする本はなかなか売れないと思います。

しかし、不快な歴史の入っているストーリーは不快な経験だと思うのは間違いです。たとえば、書き方のスタイルであったり、視点であったり、不快な事実をどう処理していくかで、結果が変わってくるからです。歴史とは、まさにマイナスをプラスに変えることだと思います。なぜ、予想どおりにものごとが展開しなかったのか。そこから、何か学べるはずです。悪いことが起きたときには、なぜ起きたのかを読者に説明することが必要です。多くの場合、いいことも、悪いことも混ざり合っているものです。また、悪いことから、いいことが生まれるということもよくあります。

世の中には、心の底から邪悪な人がいるかもしれません。小学生のときは、本当にそう思っていました。また、アメリカの映画にもよく出てきます。しかし、実際、私が調べ物を始めたとき、おとなになってからは、そういった人にはほとんどお目にかからなくなりました。ひどいことをした人でも、本人の言い分を聞いてみると、その動機に頷けるものがあるかもしれませんし、少なくとも、多少は、他人のことも理解できるということだと思います。理解できる動機と、悪い結果との接点で何か有益なことが学べると思いました。

邪悪さという観点から見ますと、ヨネ・ノグチはおもしろい人物です。私生活でも、職業人としても、両方で邪悪さが見え隠れするからです。しかし、最終的には憎めない、共感を誘う人物でもありました。

ノグチは「屠れ、米英。我らの敵だ」と述べていたくらいですから、戦時中に書いた詩を弁護する人はいないと思います。また、日本の文芸批評家の中には、野口を戦争責任で告発すべしと言った人もいたようです。これは、ある程度、正しい考えかもしれません。さらに、批評家の中には、ヨネは邪悪そのものだったと言い切った人もいます。私は、この点は理解できません。

というのは、人間は、だんだんと悪い性格を身につけたり、悪の動機を持つようになったりしますが-、それはそれとして、その人の持っている人格の中核の部分とは違うということです。悪を働けば、当然、本人は糾弾され、もしくは罰せられるということだと思います。

しかし、もし、伝記が法廷のようなものだとしたら、伝記作家は弁護士や判事というより、証人として登場すべきだと思います。作家は、証拠を説明する側であって、判決を下すのは、あくまでも読者の側だということです。悪の慣習、または動機の源泉を特定するのは大変ですが、それがわかれば何か有益なものが学べるのではないでしょうか。

歴史の教訓について、歴史家としては学べても、私は、もちろんその中にいるわけではありません。

ヨネの物語に満足のいく結末をつけるのは大変な作業でした。というのは、あまりにも気の滅入るような終わり方になっていたからです。この終わり方に対してどう対処するのか。真にプラスのものを持ってこないとダメだと思いました。というわけで、やり方は一つしかありませんでした。それは、かつて父親が勇敢な者と呼んだイサムを持ってくるしかないと思ったのです。

ところで、イサム・ノグチは一般的にヒーローだと言われていますが、性格的には欠陥もあった人です。二つのストーリーを一緒に考えれば考えるほど、実は、相対峙しているのだということがわかってきました。

たとえば、ヨネの運気が下がると、逆に、イサムの運気は上がるといった具合です。晩年、イサムは父親の役割をたどるようになっていました。また、ヨネの晩年も、イサムと和解をするということで、この結末に向かって物語を組み立てていけば、感情に強く訴えられますし、より明るいトーンで終えることができるだろうと思いました。

私の『レオニー・ギルモア』の中では、意識的に、ドウス昌代の本と映画化された「レオニー」にあった、あの暗い終わり方については書き直したつもりです。というのは、両方とも、レオニーの晩年は非常に暗かったと描写しているからです。それは、結局、彼女をないがしろにしてしまったイサムにも一因があるとほのめかしているわけです。私は、イサムの弁護をするつもりはありませんが、人間としてのレオニーの人生の終わり方はすべて暗かったとは思っていません。暗いというのは、ちょっと違うなと思っています。

レオニーは一九三三年、ちょうど大恐慌が一番ひどかったときに亡くなっています。

その頃は大恐慌だったので、ほとんどの人は、たぶん落ち込んだ気持ちを持っていたと思います。レオニーはとても貧しく、夏にはケープコッドやメイン州の海岸近くのリゾートに行って店を出していました。彼女は、すでにその頃には、数が少なくなりつつあったリッチなリゾート客に日本の版画などの輸入品を細々と売りながら、糊口をしのいでいたのです。

彼女は「インディアンのように木の実やベリーを食べて、店の棚の上で寝て暮らしています」と、イサムへの手紙に書いています。そして、ドウス昌代は「この時代にはもう、息子は大成功を収めていたのだから、母親に対して、もっと支援してもよかったのではないか」と言っています。それはそうかもしれませんが、特に松井久子は映画の中では、レオニーの苦しさと貧しさをとても強調して描写しています。ちょっと、残念だなと思います。

これでは、見ている人にとっても、辛かったのではないかと思います。レオニーの貧困のとらえ方は違うのではないかと思いました。

つまり、倫理的な形で審美的な選択の結果、彼女は貧しさを選んだということだと思いました。日本では、わびさびの美意識があります。レオニーはこの点をよく知っていたということで、彼女にとっての貧しさは気高い貧しさであるということです。いわば、修行ではなかったかと思っています。

映画「レオニー」の終わり方はその精神をとらえていないと思いました。それは、あたかも芭蕉があばら屋を建て直し、古くて欠けてしまった茶碗を捨てて、一〇〇円ショップで新しい茶碗を買ってきたほうがハッピーだったと思うことと似ているのではないかと思いました。

レオニーの晩年は、確かに貧しく悲惨でもありましたし、孤独でいっぱいでした。しかし、そうした状況を昔の世捨て人になった歌人や芸術家と同じような気持ちで受け入れていたのではないかと思います。

歴史的な情報からどんな物語を紡ぐのか。それを決めるには大変な責任を伴います。私が調査をしていても、事実的に間違ったもの、客観性を欠いているもの、単なる情報の再利用にすぎなかったもの、そんな情報が本の中に入って、たくさん出版されているということに驚くほどでした。

この問題に対しての簡単な答えはありません。歴史的な研究は本当に多くの時間と努力を要します。また、真実を独占している人もいません。私のように、歴史の真実に迫りたいと思っているのなら、できるだけ情報を集めること、注意深く見て考えること、そして、中立の視点を忘れないことです。さらに、その真実をほかの人々、未来の世代に語り継いでいくには、心をとらえて離さないストーリーが必要なのです。

櫻井マークスさん、ありがとうございました。一人の人間の人生を描こうとするには、いかに大変なリサーチを要するのか。それから、分析といったものを加えたうえで、さらにまたドラマをつくっていかなければならないという、貴重なお話をうかがえたと思います。

さて、この会場には、同じようにオーラルヒストリーをなさっておられる方や、マークスさんのお仕事に対して、非常に深い理解を持っておられる皆さん方がいらっしゃいます。そこで、皆さんからご質問をいただく前に、たとえば、平川祐弘先生、実は先生がマークスさんの作品を強く推されました。先生から、そのへんを伺えればと思います。

平川まことに立派な発表で感心いたしました。特に外国人を描くのはいかに難しいことかと言われた最後の部分です。松井久子さんはフェミニストで、ある種の先入観が強い人です。ですから、レオニーの晩年もああいうふうに表現していて、それで彼女の映画は成功しているわけです。また、ヨネ・ノグチも悪者に描いたわけです。

しかし、あれは極めてステレオタイプを描いているのであって、人種偏見の強い、すなわち、日本の男を悪く言うことによって西洋人に媚びるという、ある種の日本女性のタイプではないかと思ったりしました。それで、いかに外国人を描くのは難しいかと痛切に感じたわけです。

マークスさんにお聞きしたいのは、西洋人が今まで書いた日本人の伝記のなかで、ことに優れているものに何があるでしょうか。それから、レオニーという女である異性を理解するのと、ヨネという異国人であるけれど、同じカリフォルニアからニューヨークへ、同じような軌跡をたどった人と、どちらが理解しやすいでしょうか。

西洋人で、ヨネ・ノグチについて書いて、日本で影響力のあったのは、バゼル・ホル・チェンバレンで、チェンバレンがヨネ・ノグチのことをぼろくそに言ったため、あれはずいぶんヨネに対して不利に働いたと思っています。

マークス興味深い質問をいただきありがとうございます。

まず、映画ではどのように描写されているかということですが、私は、ヨネの描き方について不満足だということです。中村獅童はよく演じていたと思います。役作りに奮闘していたと思いますが、あまりにも、省略されてしまった情報が多すぎるので、役者としても、主人公役をどう演じていいのか理解しづらかっただろうと思っています。自分に与えられた手持ちの情報の中では、よく演じていたと思います。しかし、情報が不足していたため、全体の理解もまだまだ足りなかったのではないかと思います。

西欧の作家で、日本人を題材にして書いた伝記で何かいいものがあるかという質問もありました。あまり頭に浮かびませんが、ドナルド・キーンが書いた『明治天皇』が、ちょっと頭に浮かびました。ただ、明治天皇の真実は誰も知らないので、あの伝記の内容がどこまで正確なのかということは、誰も判断できないと思います。

レオニーに自分をアイデンティティファイ(同一視)することが強いのかという質問も、これまでに何回か受けてきました。つまり、レオニーは西洋人として日本に渡ってきた女性ですから、私も同じような経験をたどっているので、共感するだろうということです。しかし、私はどちらかといえば、ヨネのほうにより親近感を覚えました。これは、私の性格がなせるわざかもしれません。レオニーは、なかなか理解するのが難しい人物だと思ったからこそ、本の中で書いてみたいと考えたのです。

ヨネとイサムの話を掘り下げていくと、レオニー自身がいかに立派な人だったかということが、だんだんわかってきます。レオニーは、ちょっとほかにはいないような、普通の人とは違う性格を持った人です。だからこそ、私は惹かれたのだと思います。ヨネとイサムの視点とは違って、どうして彼女はあんなに立派な人生を送ることができたのだろうというところに惹かれたということです。

はたして西洋人が日本人の伝記をうまく書くことができるものなのか。また、逆もしかりなのかというのは、常に聞かれる質問です。私も、実は、ヨネ・ノグチの本を書こうとして、二十年以上にわたって格闘しているわけです。そしてその間、ずっと同じ学習曲線をたどってきています。たとえば、最初におそらくこういった前提があったのだろうと想定していたところ、時とともに、その内容が変わってくるということです。私の日本文化の理解度が増すたびに、その前提は今後も変わってくるのではないかと思っています。

ということで、西欧から日本に渡ってきた人の伝記は、私が今回書けたということですから、書けないことはないということだと思います。

櫻井この会場には、マークスさんのお客さまとして、茅ヶ崎市美術館の館長をしておられる小川稔さんがいらっしゃいます。コメントをいただければと思います。

小川ご受賞おめでとうございます。今日、お話を聞いて大変嬉しく思っています。

私とマークス先生とは、二〇一一年に手紙をやりとりするようになってから、知り合いになりました。ここで、先生のお名前を知るようになったいきさつについて、少しお話させてください。

二〇一一年に、茅ヶ崎市美術館では、川上音二郎、貞奴という明治時代の二人の俳優についての展覧会を開きました。この夫婦は、抱腹絶倒の連続というヨーロッパ旅行の末に、一九〇〇年、パリ万博で大成功を収めています。

ヨーロッパから帰国した後、二人は茅ヶ崎に住まいを構えました。今、その跡が私どもの茅ヶ崎市美術館になっています。そんなことで、私はこの二人を検証する展覧会をしなければいけないと思いました。

その準備をしている中で、マークス先生の調査によって、ヨネ・ノグチはアメリカの新聞のために貞奴の夫のインタビューをしていたということを知り、その記事の翻訳をさせていただきたいとお願いしたのが先生との最初の出会いでした。

また、偶然は続きます。と申しますのは、レオニー、それからイサム親子は、その少し後ですが、茅ヶ崎に小さな家を造りました。二人の生活についての記録は、先生の著書に書き尽くされておりまして、大変、感動いたしました。

その中で、特に一つだけ取り上げるならば、イサムが六歳か七歳ぐらいのときでしょうか。レオニーが、アメリカに送った手紙の下のほうに、ドローイングが描かれています。何を描いていたのかは、茅ヶ崎の人間にはすぐわかります。茅ヶ崎海岸には烏帽子岩という小さな岩礁がありますが、その絵を描いていたのです。そして、そこに、子どもらしい字で、野口勇という漢字も添えられていました。私は、これを見て、感動しました。イサムの最初の作品は茅ヶ崎の海辺の風景だったのです。

小さな岩なのですが、これは大きな意味があります。ここは、アメリカと日本両国の境目でありまして、戦後、アメリカ軍が茅ヶ崎に駐屯しており、この烏帽子岩を目がけて砲撃をしたということもあります。いろいろ皮肉なお話もあるわけです。

いずれにしろ、先生は、見事にレオニーの人格を共感とともに再現なさいました。私は、それを大変うれしく思っております。そして、お陰さまをもちまして、私ども茅ヶ崎市民も少しずつ、レオニー、またはイサムについての記憶を呼び覚ましております。先生、どうもありがとうございました。

マークスコメント、ありがとうございました。最近、茅ヶ崎市美術館にお邪魔しまして、とてもすばらしい美術館だと思いました。私は、これからもレオニーとイサムのストーリーをたどって旅を続けていきたいと思っています。

日本の各所に野口家ゆかりの場所があります。ヨネ・ノグチのふるさとである愛知県の津島もその一つです。ただ、ヨネ・ノグチの生家も、今は本当に悲しいほどに、ボロボロの荒れ果てた家になっています。本当に何とかしないと、もう復元できない、維持できないという危機的な状況にまで陥っています。

日本では文学ツーリズムをする人が多いのではないでしょうか。作家のゆかりの地を訪ねる旅ですが、まさに茅ヶ崎や津島というのは、野口家にゆかりのあるところです。このような文学的な価値のある重要な遺跡は、ぜひともいい状態で長く保存されることを望んでいます。

櫻井このマークスさんの作品もそうですし、デイヴィッド・ハンロンさんの作品もそうですが、お二方の作品を読んでみますと、人間の思わぬ縁というものがいろいろとつながっているのだということを感じました。今回、私は、お二方の作品から人間の命というものは、その人だけではなくて、その前から、あるいは、その次へといろいろな形でつながっているのだなということを感じました。今、小川さんのお話もそのような感じがして、胸に響いております。

さて、次に、マークスさんのお客さまで、星野文子さま、『ヨネ・ノグチ 夢を追いかけた国際詩人』という本を書いておられる方です。コメントなり、ご意見なりをお願いいたします。

星野マークスさん、本日はおめでとうございます。大変興味深いご講演を楽しく聞かせていただきました。

私は、マークスさんがものすごい量の資料をお持ちでいることをよく知っております。この二十年間、本当にたくさんの資料を集めてこられて、さらに先ほど、バイオグラファーとして、どういう心持ちでこのレオニーをお書きになったのか。さらに、これからヨネ・ノグチのバイオグラフィーをどのように完成させていくのか、というお話をうかがったわけです。今、資料も全部そろって、ヨネ・ノグチに関しては、結末もトンネルの向こうの光が見えてきたという状況ではないかと思っています。私としては、もう出版が待ち遠しくてたまりませんが、あと、越える山があるとすれば、そこは何でしょうか。そこは今から楽しみで、いったいどのような山があるのかということを一つおうかがいしたいと思います。

あと、レオニーとヨネ・ノグチに関して、沢山の資料をお持ちなのですが、その中で、一番興味深かった大発見といいますか、貴重な新資料はどのようなものでしたでしょうか。

マークス星野先生からは、ずばり具体的なご質問をいただきました。彼女は、大学院にいらっしゃるとき、すでに、ヨネ・ノグチの本をまとめられたという、とてもすばらしい方です。

こんなに時間をかけているのに、どうして私が、いまだに本を書き上げられないのだという指摘になるかと思います。今、ちょっと様子を見ている状態なのです。もう、資料はたくさん、新しいものが集まっていますので、たぶん、読者の方にも興味を持っていただけると思います。ただ、ヨネとレオニーの物語ということになると、大半のところは、先に出版した今回のレオニーの本で述べ尽くしているともいえるので、次の本では、今回の本との違いをどう出していくのかです。

実は、エセルとヨネの間の話も同じくらいおもしろい内容になっています。今日の講演の中で、私は「脇役がとても重要だ」と申し上げましたが、ヨネの周りには、おもしろい、興味をひきそうな脇役の方がたくさんいます。

ヨネが、おもしろい人物に次から次へと会っていくという連続性、そのこと自体がいいストーリーになるということですから、これをまとめるのに、少々ページ数も多くなってしまい、内容も複雑になってしまうということです。そのへんのところが、まだ、完成していない理由ということになります。

しかし、星野先生がお書きになった『ヨネ・ノグチ 夢を追いかけた国際詩人』は、本当に導入本としてすばらしいものです。皆さんには、一年ぐらいかけて、まず、星野先生の本を読んでいただきたいと思います。その間に、私は残っているところを書き上げていって、運に恵まれれば、来年ぐらいには出版できるのではないかと思っています。

櫻井今、ふと大事なことに気がつきました。もちろん、関係者の方々は、受賞作の『レオニー・ギルモア イサム・ノグチの母の生涯』という本を読んでいらっしゃるわけです。しかし、今日、会場にいらした方々のほとんどが、まだ、この本を読んでいません。つまり、この本の内容がわかっていない状況の中で、この本についてのさまざまな質問が出ているわけです。

そこで、この本を詳細にわたって読み込んでくださり、選考委員会で、すばらしい論評をしてくださった田久保忠衛副理事長から、短くてけっこうですから、内容をご紹介いただけたらと思います。

レオニー・ギルモア、イサム・ノグチの母がどれほど優れた――優れた女性という言い方は決めつけてしまうかもしれませんが――どういう女性であったのか。これは、日本人の私が見ても、日本的であると同時に、非常に冷静にものごとを判断する。ヨネが自分を愛していないということをちゃんと認識していながら、彼を愛し続け、別れに際してはきちんと別れて、そのあと、立派にというか、見事に子どもを育て上げていく。この武士道を貫徹したようなアメリカ女性、レオニー・ギルモアの本について、途中でお願いするのは大変申し訳ありませんが、田久保先生の考察をここでご披露いただければと思います。

そのあと、伊藤隆先生に、伝記といいますか、オーラルヒストリーといいますか、それを書くということは、いったいどういうことなのか。もちろん、マークスさん、先ほどいろいろと大事なことをおっしゃってくださいましたけれど、それに付け加えること、また、先生独自の考え方というものがあれば、ご紹介いただきたいと思います。

田久保突然の指名ですが、レオニーがどんな人だったかと、私がマークスさんの前で説明するのは、ちょっと僭越かなと思います。マークスさんに簡単にエッセンスだけをもう一度、皆さんのためにご説明いただきたいと思います。

それから、もう一つ、当時は日露戦争の前のことで、野口米次郎は日本人の中でも特別の人だと思います。それから、アメリカの人種差別はひどかったと思います。中国人、次に日本人に対する人種的偏見もありました。そんな中で、レオニーのような教養の高いアメリカ女性が日本人の野口米次郎と恋愛するというのは、異例のケースだったのではないかというのが、私の感想です。まあ、恋愛は国境、あるいは理性を超えるものですから仕方がないのかもしれませんが。

櫻井さんのご質問に対しては、マークスさんに、レオニーとはいかなる人間か、そのエッセンスを述べていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

マークス田久保先生には、私の本を深く読み込んでいただき、ありがとうございます。

短くエッセンスを述べよとおっしゃられましたが、とても難しいと思います。ひと言でいえば、オープンマインドを持った女性がおもしろい日本の詩人と遭遇して、お互い恋をするようになった。ところがそのあと、思った以上に世間はいろいろ複雑であった。しかし、それなりに新しい経験をいろいろと積んでいったという話だと思います。こう言っただけで、出版元、もしくは、映画制作者に興味を持っていただければ、ありがたいと思います。

次に、人種差別との関連ですが、人種差別との出会い方は、地理的にもいろいろ違いがあります。同じアメリカでも、西海岸と東海岸では違います。また、アメリカと日本の状況も違うということです。ニューヨークは同じアメリカの中でも、比較的、人種に対しては寛容度の高いところでした。まず、二人の出会いは、西海岸よりは寛容であったニューヨークから始まったということです。レオニーは、そのあと、西海岸に移ってきますが、そこで、事態はもっと複雑だったのだということがわかるようになります。

映画を観ると、西海岸における状況は、あまり正確に記述されていなかったのではないかと思っています。もちろん、日露戦争の時期に当たっていたため、対日感情が悪化していて、日本人に対して、差別するといったようなことは描かれていたと思います。しかし、あの頃、実際には逆だったのです。つまり、アメリカ人は当時、ロシア人が嫌いだったので、日本を応援していたくらいなのです。ただ、しだいにカリフォルニアで反日運動が高まっていくことになります。

私は、ヨネがサンフランシスコに到着する直前の一八九〇年代から一九二〇年代まで、西海岸でどのような動きがあったのか、いろいろ調べてみました。やはり、だんだんと年月が経つにつれて、反日感情は高まり、結局、日本人の移民禁止というところまでになってしまったということです。

ですから、視点はたくさんあります。まず、ヨネから見た視点。若い日本人として、当時サンフランシスコに行った視点があるわけです。レオニーからの視点もあります。彼女の場合には、日本に渡ってきたら、今度は違った意味で、また人種差別があったということだと思います。差別とはいわないまでも、また、反西洋とはいわないまでも、当時、国際結婚した人に対して、日本人には、それなりの感情があったと思います。これはある程度、アメリカでの裏返しといえるかもしれません。

ということで、文化に対して、また異人種に対して、寛容になれるかという問題については、同じ場所であっても、そこに住んでいる人の中の考え方はまちまちですから、一般論では語れないということです。人による個人差が非常にあって、寛容な人もいれば、そうでもない人もいます。

そんなことを考えていくと、どんどん、ストーリーが長くなってしまい、なかなかまとまらないということになるわけです。

私としては、本当に時間をかけて調査をしましたので、いろいろとあった問題それぞれについて、一つ一つに細かく光を当ててきたつもりです。さらに、調べたいこともあります。

特に、当時のサンフランシスコの日本人社会の姿をもっと知りたいと思っていますが、なかなか英語のいい資料が見つかりません。ヨネは、当時、サンフランシスコで日本語新聞を出している日本人の新聞社に勤めていました。しかし、その頃の資料は、日本語でも残ってないということなので、新聞などが見つかれば、いい資料になると思っています。

ということで、カリフォルニアでも人種差別などがだんだんとひどくなってきてしまい、結局、ああいう事態にはなりました。

逆に、カリフォルニア州にはヨネを応援してくれた現地の作家の人たちもいっぱいいたということも言い添えたいと思います。

櫻井ありがとうございました。

実は、人種問題について、アメリカ全体がどのような考え方を持っているかということは、アメリカを理解するうえで重要な要素です。

私も、実のところ、日清・日露戦争の頃に、アメリカが日本人を応援していたのかということについて、なぜだろうという疑問がいつもありました。

しかし、このマークスさんの本の中で、弱い日本人を応援すると同時に、当時のアメリカはロシア人が嫌いだったのだということの理由を書いています。日本が日露戦争に勝つ頃まで、アメリカは日本を応援していたという理由について、この本によって、「なるほど、そうか。そういうこともあるのだな」と理解を深めることができました。

では、伊藤先生、伝記を書くということについてコメントをくださればと思います。

伊藤ご講演ありがとうございました。おもしろく聞かせていただきました。

今日のお話は、データがあって、そこからどのようにして記述していくのかというお話でした。私どもが歴史的な事実を書く、あるいは、伝記を書くという場合、最初にやらなければならないのは、信頼できるデータをどうして集めるかということだと思います。

今日のお話はその上の話で、その下の、どのようにして、情報、データを集めたのかというお話が全然ございませんでした。途中で、レターということが出てきました。それから、ニュースペーパーということも出てきました。そういうデータを追いかけたのは大変な努力だったのではないかと思います。

資料を集める旅といいますか、そういう物語をちょっとお話いただければ、ありがたいと思います。

マークス情報をどのようにして集めたかという、いい質問をいただきありがとうございます。

時期によって、どんな情報が入手可能かということがコロコロ変わってきます。だからこそ、本をまとめるのにも時間がかかってしまうということです。新しい情報がよく飛び出てくるということもあります。そして、出てきた情報によっては、ストーリー自体も大きく変えなければならないといった事態にもなります。

今回は、かなりいい資料となる書簡が私の手元に集まりました。これは、当初、青山学院の学生だった渥美育子さんが熱心に集められ、もうすでに出版されていたものです。レオニーに関しての資料は、かなり彼女の手元に残してあったということがありました。その資料はその後、カリフォルニアや慶応大学の図書館などに保管されています。

私は十年前、彼女をボストンに訪ねました。そのとき、彼女は、特にレオニー・ギルモア関連の資料をたくさん持っていて、私が引き継ぐことになったのです。彼女はその頃、すでに学会を離れていて、ビジネスの世界に関わっていたといういきさつがありました。というわけで、資料となる書簡は、かなり私の手元にありましたので、そこからいろいろなことを考えていったということです。

手紙も含めて、資料を見つけるという作業は、自分が見つけるぞという積極的な意志を持つことが重要だと思います。何か新事実のありそうな資料があるはずだ。絶対探そうという意気込みを持って進めるわけです。そして、実際には、運がなくて、見つからなかったときでも、頭の隅に、こういう資料が絶対どこかにあるはずということを忘れないでいますと、いつか、その資料がコロッと出てくるときもあるものです。ですから、とにかく根気よく探し続けることだと思います。

もちろん、グーグルもたくさん使いますし、最近は新聞社が出している新聞記事のデータベースがあります。アメリカでしたら、議会図書館が最もお勧めです。昔、アメリカで発行された新聞記事など、いい資料がたくさん所蔵されています。「アメリカの記憶」というデータベースがあって、そこには貴重な資料がたくさん入っています。古いアメリカの新聞、たとえば、『サンフランシスコ・コール』という新聞がありましたが、そこにも、当時のサンフランシスコに住んでいた日本人のことやヨネ・ノグチの周りにいる人たちの話などが載っています。

また、ニューヨークには、当時ニューヨークで発行されていた新聞のデータベースもあります。

ですから、場所はいろいろですが、データを取ろうと思えば、そのソースはたくさんあるということです。

いろいろな場所で、断片的に資料が出てきますので、その資料をつなぎ合わせながら、どのようにストーリーを紡いでいくかというのが次の課題になります。二つ、三つストーリーが出てきた。しかし、それぞれが、バラバラでつながりがない。作家としては、そのつながりを見つけて、結びつけていかなければなりません。ただ、毎回、一か八か、こうだったのだろうと憶測するわけにもいきません。すべてを憶測で書いてしまうと、結局、信頼性がまったくなくなってしまい、伝記として成り立たなくなります。

ただ、ストーリーをつくる場合、ときには「おそらく、こうだったのだろう」と、推測に賭けることも必要だと思います。ただ、そればかりをやっていると、危険なゲームに陥ってしまいます。後日、新しい資料が出てきたときに、「何だ、あのストーリーは全然間違っていたじゃないか」ということになり、作家のうそが露呈してしまうというケースも大いにあるわけです。作家としては、常に事実に気を配り、どうバランスをとっていこうかと考えています。どの部分で賭けて、憶測をするか。それとも、地道に事実だけを書いていくのかということです。

もちろん、作家ですから、賭ける場合でも、一〇〇%賭けに出ることはできません。賭けても、ある程度、無難な線でヘッジするということもやっています。ですから、時には、「あれもありました。これもありました」と、両論併記になってしまうこともあります。読者からすると、「本当はどっちなのだ。はっきりしてほしい」と、いらだちを感じてしまうかもしれません。

しかし、「すべて、こうだ」と、私の憶測だけで書くわけにもいきません。そのへんはバランスをとっていかなければならないと思っています。

先ほど紹介しましたように、アメリカの議会図書館にある「アメリカの記憶」は参考になるデータベースがそろっています。日本でも、いいデータが公開されるようになっています。たとえば、横浜の「ニュースパーク」といういいデータベースがあります。そこを見ますと、ヨネ・ノグチのキャリアについて、かなりの部分がわかってきます。また、日本の国会図書館にもいい資料があります。

今年、ジャパンタイムスも自分の持っている資料をデジタル化し、公開しています。そこからも新しい資料が見つかっています。

新しい資料が見つかるたびに、内容を書き直さなければなりませんが、これはうれしい仕事なので、もう少し、次の本の出版は、星野先生に待っていただければと思います。

櫻井どうもありがとうございました。まだ、多くの方がご質問なさりたいとお思いでしょうけれど、時間がなくなっているということですので、最後に、このすばらしい、五〇〇ページを超える大部の本を英語から日本語に訳してくださった三人の方がここにおられます。

実は、マークスさんが、この本をおつくりになったとき、あまりお金がなくて翻訳料も払っていないということで、この受賞をとても喜んでくださり、みんなでアウォードを分けますと言っておられました。その三人の翻訳者の方をご紹介申し上げたいと思います。羽田美也子さん、田村七重さんです(中地幸さんは欠席)。

マークスそれに蒲池美鶴さんです。ドウス昌代関係でお世話になりました。『ジャパンタイムス』に、私の本について好ましいレビューを書いていただいて、そのお陰で、私の本が広く世間に知られるようになりました。ご紹介申し上げます。デイヴィッド・ バーレイさん、どうもありがとうございました。

櫻井今日のゲストの中に、デイヴィッド・ハンロンさんのお書きになったミクロネシアの物語で、南の島々と関係のあるパラオのマツタロウ大使ご夫妻がいらしてます。本当にありがとうございます。

そして、第一回、去年の日本研究賞の受賞者でいらっしゃるケビン・ドーク夫妻もいらしております。本当にありがとうございます。

今日は、レオニー・ギルモアさんという類い希なる、私は、先ほど武士道の価値観を身につけたアメリカの女性という言い方をしましたが、凜とした、みずからを頼んで生きていくという女性。しかも、日清・日露のあの強い人種差別の時代、そして、日本人もまた、世界のことを知っているようで知らない時代に、アメリカと日本、その二つの国を行き来しながら、すばらしい人生を、強い人生を全うした、この女性の感動の物語を皆さん方に、ぜひ読んでいただきたいと思いつつも、「このような人物が存在していたのですよ」とご紹介できるのが、国家基本問題研究所の日本研究賞の日本研究賞たるゆえんであろうかと思い、喜んでいます。

今日は、記念講演はなさいませんでしたが、デイヴィッド・ハンロンさんのミクロネシアの島々における日本人の存在、そして、お互いに対するその影響。そうしたことにも、私たちの目を開いてくださったということで、今年の受賞者のマークスさん、ハンロンさんに心からお礼を申し上げたいと思います。

私たちは、民間のささやかな努力でありますが、日本のことを知ってほしい。また、日本も世界のことを知りたい。そのようにして、よりよい理解の中から、必ず確かな道を我が国のために、そして、価値観を同じくする人々、国々のために切り開いていきたいと思うものです。これからも、皆さんと一緒に、日本と世界のためにがんばりたいと思いますので、どうぞ、温かく見守りいただけますようにお願い申し上げます。今日は本当にありがとうございました。

記念講演会トップページへ