私は三十七年前、交換留学生として初めて日本に来ました。まだ高校生でした。そのときから私は大きな夢を抱いていました。それは、日本についての研究を続けていって、いつか、日本の方々に「彼の書いていることには、一理あるのではないか」と認めてもらえる日がくるのではないかということでした。それを、ずっと待っていました。
今回、このような素晴らしい賞をいただいたことは、一部の日本の方々が私の研究を認めてくださったということで、私の夢が少しずつ実現するようになってきたのではないかと思います。
過去三十七年間を振り返って、日本と私の関係がどう変わってきたのか。日本と世界の関係がどう変わってきたのか。そして、日本のツァイトガイスト(Zeitgeist=時代精神)の変化によって、私の考え方がどう影響されたのか。そうした点について、今日は、学術的な分析や論文ではなく、個人的な話をしたいと思います。
日本と世界の関係、日本と米国の関係、そして、私と日本との関係は、時代とともに変わってきました。そこで、この三十七年間を四つの時代(期間)に区切り、それぞれの時代を振り返って、私の印象を説明したいと思います。
最初は一九七七年から八九年です。ちょうど昭和が終わる最後の十年くらいの時期でしたが、私の心に最も残っている言葉は巨峰、つまり巨大な山です。
二つ目の時代は一九八九年から二〇〇一年ですから、平成が始まった時期です。そのとき、私の研究は主に民族でした。また、国民についていろいろ考えていましたので、この二つの言葉がこの時代を表していると思います。
三つ目の時代は、二〇〇一年から〇六年、これは私にとって非常に重要な時期でした。このとき初めて、私はカトリックが日本にどのような影響を与えたのか、また、カトリックが日本でいかに重要だったかということを発見し、認識した時代です。
そして四つ目の時代は、二〇〇六年から現在ですが、法の支配が重要視された時代だと考えています。
一九七七年の秋、ロータリークラブ主催の交換留学プログラムに選ばれて、初めて日本に来たときは高校生でした。右も左もまったくわからず、私は長野県の上田市というところに行くのだということだけしか知らないまま、やって来たわけです。
パンアメリカン航空に乗って日本に到着したときは、羽田空港でした。それは日米をつなぐ国際線が羽田を利用した最後の年でした。翌年、アメリカに帰国するときは、オープンしたばかりの成田空港を利用したのです。
この二つの空港は私に深い印象を与えました。というのは、羽田に到着したときには雨が降っていたこともあり、羽田は古い日本を象徴していたように感じました。しかし、帰りに利用した成田はまったく違う世界でした。新しく裕福で自信に満ちた日本人を象徴するような空港でした。
実は昨年、私は秋田国際大学に飛ぶために羽田に行きました。一九七七年以来のことで、新しい羽田空港に、とてもびっくりしました。私が記憶していた、本当に戦後間もない古いようなイメージの羽田がひとかけらも残っていなかったからです。
つまり、成田の新しい文化が昔の羽田の文化を完全に飲み込んでしまったのです。今の輝かしい新しい羽田国際空港はまったく違うものになっていました。
空港にびっくりしたわけですが、それだけではありません。私は来日以前にも空港を見たことがありました。しかし、当時、私が見たことがなかったものもありました。それは山でした。
今でもはっきり記憶に残っていますが、準急あさま号に乗り、上野駅を出発して数十分たったら、突然、私の目の前に巨大な山、巨峰が広がったわけです。地平線が垂直に立ち上がったという感じがしました。
非常に興奮して、一緒に行った日本人通訳に「あれはいったい何ですか」と聞きました。彼は退屈そうに私を見て「ただの山じゃないか」と答えました。しかし、私から見れば、あれは山ではないと思いました。それまで、私はたくさん山を写真で見ていましたが、実際に山そのものを見たことはなかったのです。山というものは全部ピラミッド型で、頂上が尖っていて、人間が立てないような形をしているものだと思い込んでいました。
というのは、私はアメリカの中西部のイリノイ州という大草原が地平線まで続くような真っ平なところで育ったからです。
その巨大な山を越えて、私は目指す上田市に到着したわけです。この「山を越える」ということは私にとって大きな意味を持つようになりました。
上田にいた一年間、四つのホストファミリーに面倒を見てもらいました。そして、毎日学校に通いながら、柔道のクラブにも入りました。
楽しいこともたくさんありましたが、困難というものにも直面し、長い一年だと感じていました。私は状況が難しくなるたびに、山々を思い出しました。どんなに難しい問題があっても、どんなに高い山が目の前にあったとしても、それを乗り越えることができれば、反対側にはもっと素晴らしいものがあるのだと、ずっと自分に言い聞かせていたのです。
実際、私が山を越えて到着した上田市は素晴らしいところでした。上田では違う巨峰、甘いおいしいブドウにも出会うことができました。ほかにも、例えばリンゴのふじなど、すばらしい名物にも出会いました。温泉というものがあるということも初めて知りましたし、スキーを楽しむことなど、いろいろな経験をしました。
ロータリークラブの会合にも、よく招待されました。そこでは、まったく違う巨峰に出会うことができました。
ここで言う巨峰は巨人のことです。つまり、いろんな分野のビジネスマンや成功を収めているコミュニティーのリーダーといった巨人たちに出会ったのです。私は一人ひとりにたいへん感動しました。とても勇敢で、世界を深く理解している方たちばかりでした。こうした多くのロータリークラブの会員はグローバルなビジョンを持っていましたし、強いリーダーシップを常に発揮していました。
ロータリークラブの方たちには大変お世話になりました。鈴木さん、小山さん、西川さん、飯島さんが、私のホストファミリーの父親でしたが、そのほかに岡さんという方には北海道に連れていってもらいました。そして、家族旅行にも同行させてもらいました。また、堀さんは一週間、和歌山、大阪、山口に出張するとき、私を一緒に連れていってくれました。
こういう方々の話を聞いて、私はどんどん日本語を学んでいったわけです。話の中で、よく出てくる、耳に入るような言葉を勉強ノートにたくさんメモしました。今、話した方たちはみなさん、社長でしたので、社長という言葉は最初に覚えました。さらに、当時よく使われていた言葉には、景気とか円高、経済摩擦、あとはロンヤス会談のロンヤスなどがありました。
今、振り返ってみますと、ロータリークラブの会員は私を本当に親切にしてくれました。彼らの世代はアメリカと戦った世代です。つまり、彼らはアメリカを敵国として、当時の私のような年齢のアメリカ人と戦ったわけです。しかし、戦争の話は一切出ませんでした。
そこで、私はこう思いました。この方たちはビジネスの世界、商業の世界で非常に成功を収めている方たちばかりでした。彼らのようにグローバルな世界で活躍できるような人たち、グローバルな見識を持っている人たちは、戦時中にさまざまなことを学んだからではないだろうか。いろいろな意味で、こうした方たちは巨人、巨峰だったと感じています。
そして、次の時代(一九八九年から二〇〇一年)は、私にとって重要な期間です。
平成元年に私はナショナリズム、そして日本ロマン派についての論文を書き上げました。私生活では、最初の息子が生まれ、父親にもなりました。
私はノースカロライナ州に移り、ウェイクフォレスト大学の助教授になって、日本史を担当していました。とてもうれしいことに、ウェイクフォレスト大学は、日本の東海大学と交換留学生のプログラムを持っていました。それによって、私は一九九二年、多くの学生を連れて東海大学に来たわけです。妻と二人の小さな息子と共に神奈川県の秦野市に一年間、滞在することができました。
さらに、一九九八年、私は再び日本に来ることができました。大学の三カ月間の夏の休みを利用して、京都大学の人文科学研究所で研究させてもらったのです。
その次には、イリノイ州立大学に移りました。幸いなことというか、私は日本との縁が深いということだと思うのですが、イリノイ州立大学も甲南大学と交換留学生プログラムを持っていました。そこで、二〇〇〇年から二〇〇一年、私はやっぱり家族と共に日本にきて、一年間、甲南大学にいました。
先ほど少し触れましたが、当時、私が研究していたテーマは、日本のアイデンティティーをどのような観点から見るかということでした。今までとちょっと違った観点から見ようということで、民族、あるいは国民という概念を通して日本のアイデンティティーを考えたいと思っていました。
これは本当に言葉の問題です。英語のnationの日本訳にはいくつかの言葉があると思いますが、国民、民族のどちらも英語ではネーションになります。同じネーション、同じ概念を説明するために、この二つの言葉がどうして存在するのか。そして、二つの言葉をどのように使い分けるのかということです。これは私だけが考えていた問題ではなく、当時、日本の多くの学者がこのテーマについての論文を次々に出していました。私はそうした学術論文をかたっぱしから、夢中になって読んでいました。
なぜ、私がそれほど興味を持ったかということです。それまでの伝統的な研究では、日本の政治機関、あるいは日本の政治制度に特化していたわけです。主な研究の対象は国家がどういうものであるか。あるいは、政府、政界のエリート、つまり支配的階級についての研究はいろいろありました。ですから、当時、まったく新しいアプローチが誕生したということです。ネーションという概念を通して、日本の政治とか日本の新しいナショナリズムを理解しようという考えが出てきたわけです。当時、私はこれはとてもいいトレンドだと思いました。
つまり、それまでの政治制度、あるいは国家などの研究は戦後日本の状況を考えると、いろいろな限界があったと思います。限界というのは、やはり米国の支配的影響力が日本にあったため、それほど深く政治制度や国家についての研究が進まなかったと私は感じました。そしてまた、逆な言い方をしますと、私はどんなに国家や政治的制度を研究したとしても、日本の社会、あるいは文化レベルに流れているさまざまなトレンド、潮流までは網羅できないと考えていたのです。
私だけではなく、他の方たちも同じようなことを感じていたと思います。だから、今まで主流だった政治、政党の研究に対抗するため、学者の間では文化主義的な研究が盛んになっていったのです。
こうして、文化主義的なアプローチで研究を進めましたが、これにはいい面もたくさんありましたが、やはり盲点もありました。ウェイクフォレスト大学から多くの生徒を連れて、日本にきたときに、学生の一人から「ところで先生、日本の今の首相の名前は何ですか」と聞かれました。しかし、私は答えられなかったのです。当時、宮沢喜一さんが首相でしたが、本当に申し訳なく思っています。そのとき、私は非常に反省しました。日本史を専門にしている教授でありながら、当時の首相の名前も知らないというのは、ちょっと困ったことだなと思いました。
これは、文化主義的研究に没頭し過ぎたからと言えるのかもしれません。非常に反省しました。確かに、もう少し時事問題について勉強しなくていけないと感じました。しかし、言い訳になってしまうかもしれませんが、こうしたことは私だけではありませんでした。多くの米国の日本専門家も同じような状況にいたのではないかと思っています。われわれは日本の大きな潮流、思想的、文化的トレンドに着目していましたので、そのときどきの首相がだれかといった細かいことにはあまりとらわれなかったのです。そういう時代でした。
文化主義的なアプローチで日本政治を考えると、今までとの一番の大きな違い、大きな強みと言うのは、ネーションという概念を追求していくと、ネーションはそこに住む人々で構成されているという概念に出会います。そこで初めて、ネーションの主役は人々であるという考えに到達するわけです。
これは当時としてはわりに新しい認識だったのです。ネーションの主役が日本人であると考えると、細かいこと、あるいはそのときの日本の首相はだれであるのか、与党はどうなのかということはそれほど重要な問題ではなくなるというようになります。
逆な言い方をしますと、今までは日本の政治制度、政治的リーダーについていろいろ細かい研究がされていましたが、戦後の日本のナショナリズムの理解を深めるような研究というのはあまりありませんでした。そのような研究のアプローチは役立たなかったとも言えるのではないかと思います。
しかし、文化主義的なアプローチにはメリットもたくさんありますが、弱点もありました。右に立つにしても、左に立つにしても、一部の日本人はやはりネーションという概念を重要視するために「ネーションは一つの民族国家として考えるべきだ」という考えを持つ人が出てきたわけです。
民族という概念はとても大切だと思います。しかし、この当時はもう平成に入っていて、日本そのものが変わり始めていた時代です。日本は多民族的、コスモポリタン、国際的な時代になってきていましたので、民族だけを重要視する考えとは相反するような状況がありました。
ということで、一九九〇年初頭は、二つの概念が議論されるようになりました。一つはシビックネーション(国民的なネーション)で、もう一つは、エスニックネーション(民族的なネーション)。この二つの概念が共存していました。
国民ネーションと民族ネーションはどう違うかということですが、まず、国民ネーションは、そのネーションの一員になれるかどうかは法律によって決まります。つまり、市民、公民になるルールが定まっているということです。そして、ネーションの市民はオープンで民主的なプロセスに参加できるということです。
一方で、民族のネーションは、その一員になるために、やはり血族関係が必要だということです。そのネーションの人々は何らかの形で、血がつながっているという概念です。そして、暗黙の了解のもとに、幅広い文化的活動がナショナルアイデンティティー、ネーションアイデンティティーを表現するという特徴を持っていました。
一九九〇年に、ドイツが民族的ネーションとして統合されました。その結果、民族的ナショナリズムは大変いいものだと、多くの人が考えました。ところが、その直後の一九九二年に、ユーゴスラビアがいくつかの民族の対立によって分裂したわけです。クロアチア人、セルビア人などが武力衝突の形で対立しました。
さらに、一九九四年には、とても悲劇的なルワンダの紛争がありました。フツ族とツチ族が厳しく対立して、エスニック・クレンジング(民族浄化)、大量虐殺が起こりました。
世界はそうした民族主義の恐ろしい側面に直面して、民族ナショナリズムに対する考えが少し変わってきたのです。このとき以来、もう一方の概念、シビックネーションが見直されるようになりました。
私は仕事として、国民、あるいは民族、この二つの概念についていろいろ考えていましたが、当時も、日本でいろいろなことを経験することになりました。
そのときは甲南大学に来ていましたので、家族と一緒に神戸に住んでいました。二人の息子が公立の小学校に入学して、彼らは毎日、日本語で宿題をこなし、他の日本人の子どもたちと一緒に机を並べて勉強したわけです。サッカーチームにも参加しましたが、一年いた間、家族のだれ一人も人種的な差別を感じたことはありませんでした。
当時、周りの多くの方たちはボランティア活動、あるいは市民活動を通して、より国民的、シビックな社会を構築しようといろいろ努力していました。ちょうど、その時期に櫻井よしこさんの『日本の危機』という本に出会いました。そして、櫻井さんが日本人のデモクラティックスピリット(民主主義的精神)を高めようと努力していることに、私は非常に共感を覚えたわけです。
この時期を、経済を専門にする学者は「失われた十年」と描写していましたが、私から見れば、まったく失われた十年ではありません。
つまり、日本は今まで経済の成長ばかりを追求していましたが、九〇年代に入ってから大きく方向転換したわけです。経済成長、あるいは物的豊かさだけを求めるのではなく、人生の生きている意味といったような内心的、精神的なものを求めるようになったのではないかと思っています。
それまでの日本はエコノミックアニマル、経済成長だけを追求する動物のようだと言われていました。しかし、ちょうどこの時期から、エコノミックアニマルの国から普通の国になろうとし始めたわけです。そして、普通の国になろうとした時期から、民族主義ではなく、国民主義、シビックネーションという言葉のほうがよく使われるようになったことは注目すべき点だと思います。
そして三つ目の時代が、二〇〇一年から二〇〇六年です。
先ほど話したように、私個人にとって、これは重要な時期でした。なぜなら、この時期に、私はカトリック教会が日本において非常に重要な存在であったということを再認識したからです。
個人的にも、いろいろな動きがありました。二〇〇二年にイリノイ大学から今、在職しているジョージタウン大学に移りました。ジョージタウン大学はアメリカでカトリック教会、そしてイエズス会が創設したもっとも古い大学です。私はカトリック信者が日本において重要な存在であると主張し、たくさんの論文を出し始めましたが、やはり懐疑的な目で見られました。
日本では、カトリック信者、教徒数は人口の〇・五%にしか相当しません。「日本の文化や社会を理解するために、カトリックの研究をして何の意味があるのか」というような批判的なコメントももらいました。また、別の評論家は、日本とカトリック教会の関係はあまり意味がないと思うけれど、例えば、昔の隠れキリシタンの時代を研究すれば何か役立つかもしれない。一六四〇年に、カトリック信者は日本から完全に消えてしまいましたが、近代日本とまったく関係ないけれど、歴史的に一時的に何か、あった現象を研究するのはそれなりにおもしろい。マイナーな研究だけど、おもしろいかもしれない。と言ったようなコメントをもらいました。
私はどちらのコメントにも賛成できません。もちろん、カトリック信者は日本で非常に少数派です。それは否定できません。しかしながら、カトリック教徒は今まで、日本の文化、社会に大きな影響を与えてきたと信じていますし、今でも与え続けていると感じています。
日本のことわざに「少数説には大義あり」という言葉があります。少数意見からは学ぶことが多くあるのではないかということです。普遍的な人権を守る大切さ、あるいは人間の尊厳を尊重するといったことは、まさにカトリックの教えから学べることが多いのではないかと思います。
さらに、日本にカトリック教徒が今でも存在しているという事実自体が大きな意味を持つのではないかと思います。フランシスコ・ザビエルについてはよくご存じだと思いますが、一五四九年にキリスト教(カトリック)を日本に紹介しました。それ以来、日本のカトリック信者は片足を日本国内に置きながら、もう片方の足をグローバルな近代的世界に置いてきたわけです。日本を深く理解しながら、同時に世界的な視野を常に持っていたと思います。
さらに注目すべき点ですが、戦後の日本においてカトリック信者の視点は非常に珍しかったと思います。つまり、海外を見るときに、カトリック信者はアメリカだけを見るのではなく、もっと広い世界、国際社会を見ていたのです。
私はカトリック信者がまだ日本に存在することだけでもすごいと思っています。一八七三年(明治六年)にキリシタン禁制の高札が撤去されて以降、日本のカトリック信者の権利はずっと守られてきたわけです。非常に少ない人数かもしれませんが、存在し続けているということはそれだけ興味深いことです。
さらに言えば、日本でカトリック信者はこれまで大変な活躍をしてきました。
例えば、平民として初めて首相になった原敬はカトリック信者でした。また、日露戦争の英雄、山本信次郎海軍少将もカトリック教徒でした。彼は皇太子裕仁親王殿下(昭和天皇)にフランス語を教えた方でもあります。そして、吉田茂首相もカトリックの信者でした。彼はカトリック教に基づいた考えを戦後日本に大きく広げています。
今、挙げたのはいくつかの例だけです。ここで強調したいのは、カトリック信者の数は少ないかもしれませんが、数が少ないからと言って影響力は限定的だと考えるのは間違いだということです。
最後の四つ目、私にとっての重要な時代は二〇〇六年から現在です。なぜ、二〇〇六年から重要な時代が始まったのかということですが、このとき、大きな出来事が起こったからです。ほとんどの評論家は大した出来事ではないという認識だったと思いますが、振り返ってみると、実に重要なことでした。
つまり、二〇〇六年に、第一次安倍政権が誕生しました。しかし、一年後には、健康問題を理由に首相が退任してしまいます。その結果、多くの評論家は彼の政権はあまり重要でなかった。大したことはなかったと言って、片付けてしまったわけです。
それは間違っていました。どうして間違えたかといえば、彼らは完全に一つの固定観念にとらわれていたからだと思います。つまり、評論家たちは日本で本当に民主主義的な考えを進めるのなら、自民党支配を壊さなければならないと考えていたのです。当時、二大政党制を何とか定着させなければならないと考えていたわけです。そして、安倍首相が退任したあと、次から次へと首相が代わりました。
今、振り返ってみますと、それまで続いた政治的不安定を正す第一歩になったという意味で、第一次安倍政権は第一次吉田茂政権と非常に似ているのではないかということです。
二〇〇六年からの安倍政権主導の日本を見ると、法の支配の原則が重要になってきた時代ではないかと考えています。
法の支配という原則は素晴らしいものです。しかし、それなりのリスクがついてくることもあります。それは、リーガリズムに陥りやすいということです。お役所的、形式主義と訳したほうが分かりやすいでしょうか。このリスクがあるのです。
そこで、法の支配の原則が、行き過ぎたお役所的、形式的主義にならないために、何が必要かという問題が出てきます。その問題を解決するためには、実定法(人間がつくった法律)を超越するようなuniversal principle of justice、直訳すると、普遍的な正義、あるいは法の原則が必要になってくると思います。
普遍的な正義、あるいは法の原則という基盤がない場合、実定法だけで道徳や倫理などが決められていくわけです。そうしたアプローチになってしまうと、少数意見の人々の人権を守ることが必ずしもできるわけではありません。民主主義そのものが危ういことになってしまいます。普遍的な正義あるいは法の原則に必要なものは何かと考えれば、自然法、natural lawではないかと思います。
これまで述べてきたように、私は過去の三十七年間、四つの時期、時代に分けて、それぞれ違う四つのテーマについて考えてきました。最初は巨峰、はっきり言えば、ビジネスの世界、商業が大きなテーマでした。二つ目のテーマは、民族と国民という二つの概念の違い。そして三つ目のテーマはカトリックの日本での意義。そして四つめのテーマは法の支配ということでした。今、それらすべてのテーマを統合しようと考えています。
そして、いろいろ研究した結果、田中耕太郎の書いたものに注目しました。彼は法学に関するたくさんの書物を残している日本有数の商法の専門家でした。民族論についても、非常に独創的な考えを持っています。彼はカトリック信者でしたし、判事でもあり、最高裁判所の長官も勤めた人物です。
田中は、商法に関する著述の中で、人間は商業、ビジネス、あるいは取引を通して、市民的な責任を果たす役割をしているだけではないと書いています。それによりますと、ビジネス、あるいは取引を通して、人々は最も人間らしい生活を送ることができると書いています。become free humanという言葉を使っています。人々は利益を追求しながら、いろいろな商取引、ビジネスを行いますが、まさにそのときに最も合理的な行動、行為をとると田中は言っています。その合理的な行為は文化、民族、人種の違いがあっても、関係ないということです。つまり、すべての人間が合理的な行為を理解できると彼は主張しています。
また、田中は民族的なアイデンティティーの重要性も非常に高く評価しています。人間は自分の生まれている、育っている、生きている文化の中でしか行動できないのだから、民族的な意識はとても重要だと言っています。そして、この民族という概念は法の支配や人権といったより広い概念、原則に相反するものではなく、十分に共存できるとも言っていました。
そして、民族的なアイデンティティーは重要だとしても、普遍的な正義、法の原則、自然法の中に、民族、文化、宗教などは基本的に入れるべきではないと考えていました。田中はカトリック信者という日本ではマイノリティーの一員でしたから、このことはナイーブに考えていたのだと思います。
少し難しい話になるかもしれませんが、基本的な問題はこういうことです。
一方で、普遍的な正義、あるいは法の原則を持ちたいと人間は考えるわけです。これは田中は自然法であるべきだと主張していました。同時に、さまざまな民族、さまざまな異なる文化の人たちの権利を守る、尊重するような体制が必要であるという一見、相反するものをどうして統合するのかということが大きな課題だったのです。
最終的に彼は、一つしか存在しない普遍的な自然法をつくり、すべての他の法律、実定法は普遍的な自然法の表れにしか過ぎないという法体系をつくるしかないと結論づけました。
ここで強調したいのは、自然法が存在しなければ、文化的相対主義(cultural relativism)、あるいは文化的帝国主義のようなものが蔓延してしまいます。しかし、自然法が存在すれば、民族的なネーションに暮らすマイノリティーの人たちの人権は十分に守ることができます。そして、多数民族が自分たちの民族アイデンティティーをいろいろ文化的な形で表現したとしても、民族的マイノリティーに暴力行為を犯すことが許される社会にはならない。田中はそう言っていました。
一番重要なことは、田中は学者でしたが、こうした結論やさまざまな考えは書斎の中でいろいろ哲学書を見ながら抽象的に決めたわけではないということです。彼は商法の専門家ですから、人間が実際に、どういう行動をしているのか、どういう取引、ビジネスをしているのかということを研究したうえで、商法の規則、原則を研究し、実務経験に基づいた結論を出したわけです。
先ほどからの話には、国民的ネーションとか民族的ネーションとか国家という抽象的な言葉が多いと思います。こういう抽象的な言葉を使えば使うほど頭が痛くなります。そして、壁にぶつかるという現象があると思いますが、田中はまったく違うアプローチをしています。
彼はこんな言い方をしています。人間は価値観が違っても、文化が違っても、人種が違っても、何千年前からお互い取引をしてきたではないか。ちゃんと商業、ビジネスを行ってきたのではないか。抽象的な概念と戦うよりは実際に日常生活、人間が行っている日常生活を見るとその答えが出てくるのではないか。
商法を勉強すると、非常に多くの専門用語があります。しかし、田中が残した書物を読むと、日本の戦後の文化史、歴史そのものを描いているように感じます。つまり、経済発展を国家の最優先とした吉田ドクトリンから安倍政権のもとで今、展開されている法の支配の原則までが、すべてその中に入っているような気がします。
私は今、田中耕太郎のすばらしい実績の前に立っていますが、田中の存在は目の前にある巨大な山、巨峰のように感じています。あまりにも偉大な方なので、この巨峰を乗り越えることができないのではないかと今、悩んでいるところです。
櫻井大変に難しいようですが、説明を聞いているとだんだん分かってきたような気がします。ドーク先生の『大声で歌え 君が代を』という本に関しても、今までのご研究に関しても、実は田中耕太郎をどのように解釈したらいいのかということは審査委員会でもたびたび議論になった点です。非常におもしろく拝聴しました。
質問山本七平さんが、日本のキリスト教徒は日本教キリシタンに過ぎないというようなことを書いています。今日、日本におけるカトリックの役割ということを初めて聞いて、なるほどと思いましたが、山本氏の考え方について、どう思いますか。
ドーク『ユダヤ人と日本人』も読みました。文化的決定論(culture deterministic)というのでしょうか。彼のやり方は田中耕太郎とちょっと違います。なぜかといえば、山本七平が主に主張したのは、やはり独特な、特殊的な文化の面が必要だということだと思いますが、田中耕太郎はもっと普遍的な立場を同時的にとっています。
言ってみれば、一つのやわらかいプロテスタントの批判ということですが、日本のプロテスタントの人たちは、もう少し普遍的な思考、やり方を考えてほしい。それは、山本七平にも当てはまるのではないかという気がします。
質問第二次大戦中、原爆投下があり、また多くの町が空襲にあって、非戦闘員がたくさん亡くなっています。米軍のそうした行為に対して、先生の見解を聞かせてください。
ドーク喜んでお答えします。このことは、別のカトリックの問題として、日本の歴史の中に入っているのです。なぜならば、長崎の原爆投下のとき、戦闘機に乗っていた爆撃手はカトリック信者でした。そして、長崎で被爆した人たちは主にカトリック信者だったからです。こうした戦争が起こした現象はカトリックの歴史の中で、普遍的に哀れで、非常に悲惨なことです。民族や国家の境界を越えて、カトリックの人たちがカトリックの人たちをお互いに殺しあったのです。そして、カトリック信者だった永井隆が戦後に書いた『長崎の鐘』を読んだり、映画化されたものを見たりしたカトリック信者からは重要な反応がありました。そのうえ、カトリック教会は、非戦闘員(non combatant)という普通の人を戦争の中で殺すことを固く禁じています。
なぜかといえば、先ほど述べましたが、自然法を認めれば認めるほど、それをやっても許されるというような国家法律があったとしても、正しくないことは罪になっているのです。ですから、東京の空襲(firebombing)も広島や長崎の原爆投下も罪です。法律違反だけでなく、道徳と自然法、神に対して罪だったということです。それは深く後悔しなければなりません。
櫻井今日はお二方に、それぞれの分野で大変深いお話をいただきました。中国の方、そしてアメリカの方が日本について非常に深く考えているということ。そして、日本の位置づけについても明確なお考えを持っていることに対して、大変に敬意を表すものです。今日のセッションはいつにも増して、日本人の私たちはいったい何者であるのか。私たちはいったい何ゆえに日本人であるのかということについて、思いを深める一つのきっかけになるだろうと思います。
劉岸偉先生、ケビン・ドーク先生、今日は本当にありがとうございました。