私は周作人についての本を書きましたが、周作人は二十世紀の中国で、もっとも優れた散文作家の一人です。彼の八十二年に及ぶ生涯は、まさに波乱万丈でした。
ある長い時期において(文化大革命の一九六〇年代半ばから七〇年代まで)、彼の名を語るのはタブーでした。
しかし、一九八〇年代以降、中国大陸はようやく従来のイデオロギーの束縛が解かれ、思想、歴史、文学など、いろいろな領域でかつてない活況が現れてきました。そんな中で、周作人の作品も解禁されたのです。再び読まれるようになって、今はかなり根強い人気があります。
周作人をめぐる評価はある意味で、中日関係の起伏にも連動しているように思います。
例えば、彼が復活した八〇年代の最初の十年間は、日中関係がもっとも良好で平穏な時代でした。そんないい時代の八二年に私は日本にやって来ました。当時、千代田線の終点・綾瀬駅から、さらに支線の終点駅・北綾瀬に下宿していました。しかも、電車の本数が極端に少なくて、友だちと「あそこは東京の大田舎なんだよ」と冗談を言っていました。とにかく、東大の駒場に通うのには非常に遠い下宿でした。
しかし、私たち中国から来た留学生は周りのみなさまから、とても温かく迎え入れられ、大事にされました。今も心の温まる思いがたくさんあります。
最近、中日関係がご存じのような状態になっていますから、その推移によっては大陸において、周作人の名を口にするのもはばかれる日が、また来るのではないかと私は懸念しています。今のところはまだ大丈夫だそうです。
ある作家を理解するには、その作品がすべてだと思います。ですから、作家伝を書くのはよけいな仕事だとも言えます。場合によっては、骨折り損のくたびれ儲けになってしまいます。
私は周作人の作品を読んで、その波乱、起伏の人生に深い興味を覚える一方、ある意味でそれ以上に彼が生き抜いた、あの激動の時代、日中百年に及ぶ激動の歴史に非常に深い興味を覚えています。だから、一人の作家の人生を追うことによって、その物語を生み出した歴史も書いてみたかったのです。歴史の中には、作家の人生が埋まっています。
今日はたまたま七月九日、日本近代の大作家・森鷗外が亡くなられた日です。鷗外は特に晩年、虚構の物語(フィクション)をつくるのをやめ、江戸時代の実在の人物を取り上げて、一連の優れた史伝を書きました。鷗外にとっては、それがもっとも適切な表現形式だったのではないかと思います。そのときの心境を鷗外自身はこう述べています。
「歴史の資料の中に埋まる自然。つまり、ありのままの真実。それをみだりに変更するのがいやになった」
そこで、史伝という表現形式に落ち着いたわけです。
私はこの『周作人伝』の執筆を通して、少し、鷗外の心境がわかるような気がしています。歴史に埋まる真実の一つひとつを丁寧に掘り起こし、論評するよりは、事実、史実の正確な記述に気を配るように心がけたつもりです。この本のこうした側面が今回の研究賞によって評価されたとすれば、誠にうれしいことです。
周作人は書斎人で、並はずれた読書家でした。分厚い洋書も数日で読んでしまい、しかも、内容の細部まで全部覚えているという伝説もあります。だから、私にとっては実にありがたい読書の案内人です。「類は友を呼ぶ」という言葉があります。彼の作品に接して、彼の好み、あるいは好きな作家などが、いつの間にか私の好みにもなったような気がします。漱石に「趣味の遺伝」という言葉がありますが、それにならって、これは「趣味の連鎖」とでも呼びましょうか。
周作人が書いた書評というか、エッセイの一つに「銀の匙」があります。『銀の匙』は大正二年(一九一三年)の中勘助の作品です。今日では忘れ去られた作家の一人ではないかと思いますが、熱烈なファンもいると聞いています。中勘助は実にユニークで清らかな少年の心を持つ文人、詩人です。彼の作品を朝日新聞に推薦し、真っ先にその価値を認めたのが夏目漱石です。周作人も自分のエッセイの中でそれを引用しています。
小説は作者の少年時代の体験を踏まえて書かれていて、舞台はちょうど日清戦争でした。日清戦争の最中、日本帝国は清国を目の敵にしていましたから、子どもの世界まで敵対心一色に染まっていました。主人公の中少年は子ども心にこのような一辺倒の雰囲気に違和感を持ち、「この戦争で日本はきっと負ける」と、わざと逆のことを言います。少年は自分の心に嘘をつけず、思ったことを素直に言ったのです。そうしたら、えらいことになりました。先生のところまで告げ口される始末です。
日清戦争は遠い昔のことで、激動の百年がたって国際状況もすっかり変わりました。日本と中国は国交回復して四十二年。比較的良好で平穏な時期もありましたが、ここ数年はとくに領土を巡って緊張が続いています。お互いに非難合戦を繰り返して、世の中はまた一辺倒になりつつあります。こういうときだからこそ、他人の尻馬に乗らず、中少年のような清らかな心、自分の理性でものを判断する心構えでありたいものです。
みなさんも覚えていると思いますが、二〇一〇年九月、中国漁船と日本の巡視船の衝突事件がありました。今日の日中関係の推移を見ますと、あの事件が一つの転換点でした。
実は、ちょうどその直後、北京の清華大学で日中関係を考えるシンポジウムがありました。私も資料調査でたまたま北京に滞在していて、シンポジウムに参加しました。
一歩、会場の外に出ると、それこそ、反日一辺倒の雰囲気でした。それでも、このシンポジウムのテーマは「中国の改革と日本の経験」という意義のあるものでした。この三十年、中国の改革にとって、いろいろな意味で日本が経験してきたことは非常に貴重なものです。小さなシンポジウムでしたので、三十名の参加者は真剣に議論しました。そのとき、私は、『銀の匙』の中少年のことを思い出していました。
あれから四年たっても、日中関係は一向に改善されず、緊迫した状態が続いています。このような状況の中では、水掛け論ではなく、歴史と現実を見すえ、現状打開を真剣に模索する理性の声を上げることは、日中双方とも非常に難しいと思います。しかし、こうした抜き差しならぬ状況だからこそ、冷静で理性的な判断が求められると思います。
私は日本の昭和史を読んで、世の中が急速に戦争へ傾いていく中で、例えば、永井荷風とか清沢洌とかいった人たちがいたことを知って、救われる思いがしました。
最近、中国のメディア、あるいはネットを見ると、確かに対外強硬論が目立ちます。一方で、確実に建設的な意見もあります。例えば、みなさんも名前を聞いたことがあると思いますが、「対日新思考」を唱える人民日報の元評論員の馬立誠さんが四月、ネットで公開した発言を私は読みました。大変、示唆に富んでいて、感銘を受けました。彼を含めて中日関係をよく知っている識者の間では、両国の関係は後ろ向きの歴史ではなく、未来志向の互恵関係に基礎を置かなければならないという考えが強くあります。彼は、フランスとドイツがいつまでも歴史問題で応酬すれば、今のEUは成り立たない。だから、度の過ぎたナショナリズムは戒めるべきだという見解を示しています。
日本と中国の間には、確かにさまざまな厳しい課題があります。しかし、お互いが協力し合えば、両国民に繁栄と利益をもたらす分野も多々あるはずです。歴史問題にしろ、あるいは領土問題にしろ、みんなで知恵を出し合って話し合い、何らかの妥協点を求めるべきではないかというのが私の正直な感想です。
話を周作人に戻します。まず、私と周作人の出会いといいますか、この作家の文化史的な意味に触れてみたいと思います。本のあとがきにも書きましたが、一九六七年、文化大革命の最中に周作人がひっそりと息を引き取ったとき、私は満十歳でした。
当時、もちろん彼の名は知りませんでした。家には「魯迅全集」のほか、チェーホフやゴーゴリなど、ロシア人作家の作品が置いてあったので、中学生になると、こうした本を夢中で読んでいました。
周作人には魯迅という兄がいて、この人もやはり著名な作家でしたが、中日戦争の際、漢奸になったのです。漢奸というのはとても妙な言葉で、直訳すると、漢民族の裏切り者という意味になります。この呼び名は清朝の末期、アヘン戦争前後に侵入したイギリス軍に情報を提供したり、あるいは通訳、水先案内人を務めたりした邪悪な中国人を指して用いられたのが最初のようです。何度も異民族に攻められ、征服された中国の長い歴史の中には、すでにその原型はありました。漢奸とは、中国の民族利益だけでなく、自分の魂まで異民族の敵に売り渡す恥知らずの輩である、ということですから、国民感情で考えると、漢奸を憎むのはやはり当然かと思います。
当時の私も、周作人の本を探して読むという気持ちはありませんでした。たぶん、探しても無駄だったと思います。彼の本はあの時代には禁書となっていたのです。このような先入観があったからこそ、彼の本を初めて手にして読んだときの衝撃はとても大きいものでした。
まず、文章が非常に上手で見識が高く、ものの見方が新鮮でした。私は文化大革命のころ、中学生でしたが、当時、私の世代が教えられ、慣れていた考え方の枠やイデオロギーにとらわれず、私をまったく別の世界にいざなってくれました。しかも、堅苦しいお説教ではなく、おかゆの中に塩が溶けるように、読んでいる私の胸に自然と染み込んできたのです。
彼はしばしば日本の文人、作家を話題にします。例えば、小林一茶とか、滝沢馬琴です。それを論ずる文章はそのまま興味深い人生批評になっています。一茶のほうは素朴で自由奔放で子どもっぽいところがあります。一茶を周作人は非常に気に入っています。一方では、いかめしそうに構える馬琴です。馬琴の聖人顔といいますか、彼の勧善懲悪という儒教的な発想を周作人はからかっています。
話題も豊富で幅広い。例えば、飲食にはじまって文章にならないものはありません。それもただの博識ではなく、独自の世界観に染まっていました。そして、中国人にしては珍しく遊びの感覚、遊びの文化にも通じていて、セックスのタブーにも真面目に向き合っています。人間の歴史への深い洞察は時として、ある種のデカダンス、ペシミズムへ傾いていく節がないわけではありません。しかし、文明と理性を信頼して、最後まで捨てようとしなかったところを見ると、周作人は前向きのヒューマニストだったと思います。
私にとっては、実に新鮮な読書体験で、当時、どんどん引き込まれるように夢中で読んでいた覚えがあります。周作人は大変な読書家で、その範囲も古今東西に渡っています。彼は特に明、清以前のいわば中国の古典、古書を実にたくさん読んでいます。この点では、兄の魯迅もそうでした。孔子を批判して儒教の伝統と決別した同時代のインテリたちに比べてみても、ひときわ異色に見えました。しかも、読書のしかたは四書五経を読むという昔の読書人とは違います。それこそ古今東西を一つの坩堝に溶かして、近代人の目で古人の書、古典を読み直すという態度です。これは中国近代文化史における周作人の最大の貢献ではないかと思います。
その際、内容を浮き彫りにするものとして、周作人の左右には常に二枚の鏡が置いてあります。一枚は古代ギリシャという鏡。もう一枚は日本文化という鏡です。
次に、近代中国人の日本留学について触れてみたいと思います。
明治末期から始まった近代中国人の日本留学は世界史的な意味を持つ大きな運動だったと思います。中国大陸の近代国民国家の形成は、この運動と非常に密接な関係があります。中国の近代国家形成のプロセスにおいて、重要な役割を果たし、あるいは重大な影響を及ぼした数々のキーパーソンは日本留学の運動から生み出されました。
そうした人々を中心にして誕生した中華民国の先生であり、のちにはその敵にもなった近代日本と対抗していく中で、中国は自ら変容し、世界史の構図を変えていったと言っていいと思います。
話をまた文学と思想の分野に戻しますと、日本留学出身の大家といえば、まずこの周兄弟。魯迅と周作人を挙げなければなりません。魯迅は伝統の漢方医学に見切りをつけて、西洋医学を勉強するために来日しましたが、のちに文学に転じて、独自の文学世界を築き上げました。今も、魯迅は影響力を保っていて、人気は衰えていません。まさに国民作家です。魯迅は留学時代に漱石を愛読し、鷗外に対しても非常に尊敬の念を持っています。死ぬ間際も、日本人の医師を信頼していました。ただ、魯迅は日本文化、日本文学についてほとんど語っていません。
それに比べて、周作人は日本の衣食住から日本人の宗教信仰、それから民間の習俗、美意識、また好きな作家の書物にまつわる逸話まで、実にさまざまな場面で日本の文化、日本の文学を語りました。しかも、彼の日本文化論、日本文学批評はある意味で、中国文化論、中国文明論にもなっています。だから、今日、読み返してみても非常に示唆に富んだものなのです。
古来、日本は中国大陸からいろいろなものを吸収してきました。しかし、いいものだけを採って、悪いものは採りませんでした。例えば、唐の時代は去勢された宦官、宋の時代は纏足です。纏足は女性の足を布で縛るという一種の悪習慣ですが、日本は採り入れていません。それから、明の時代は八股文。八股文というのは科挙試験の答案に使われた非常に形式的な文体です。そして清の時代のアヘンも採っていません。日本は大陸の文明をさまざま吸収しましたが、いいものばかりを採って、悪いものを採らなかったのです。その日本人の選択取捨のよさを、彼は何度も文章の中で表現しています。だから今、読み返しても非常に興味深いのです。
それから、日本の古典への興味、関心は晩年までずっと続いていて、優れた日本の古典の翻訳という形で実を結んでいます。
あの時代の日本留学組の中で、周作人が非常に珍しいのは西洋の人文精神、ヒューマニズムにも通じていたことです。彼は南京で五年間、海軍士官養成学校で、すべての科目を英語だけで受けています。そのため、英語はよくできていて、例えば『アラビアンナイト』とか、ハヴロック・エリスの『性の心理』とか、実に幅広く渉猟していて、しかも見る目も確かです。この西洋との巡り合いを考えると、やはり日本留学の意味は大きかったと思います。
周作人は自分で語っていますが、自分の人生の師とも言えるイギリスの学者、ハヴロック・エリスと巡り合ったきっかけも留学時代です。エリスの著書を、すべて東京の丸善から購入しています。
二世紀の初頭、シリア出身の非常にユニークな作家・ルキアノスは、古代ギリシャ語でとてもおもしろいというか、皮肉な対話集を書いた人です。周作人は晩年、この対話集の翻訳に並々ならぬ情熱を傾けました。念願の翻訳ができたのも、やはり若き留学時代、立教大学の系列の東京三一神学校でギリシャ語を学んだからです。
世界史の視野で彼が成し遂げたことの意味を考えるとき、連綿たる人文主義の伝統を持つ欧州の文化を紹介し、しかも文学の狭い枠組みを越えて、自国の近代文化の生成に静かで強いインパクトを与えたという点で、日本との類比で言えば、森鷗外を思い出します。
そして、民間の古い信仰に目を向け、ついに現象の形態を探り出し、新たな解釈、意味づけを試みた点では、柳田國男の仕事に一番近いと思います。実際、周作人は柳田國男から多くの面で影響を受けていました。
次に、私個人の体験を交えて、民間交流の大切さに触れてみたいと思います。
私が書いた『周作人伝』は歴史人物を扱った書物です。この仕事を進めているうちに、つくづく感じたことがあります。それは、歴史は過ぎ去った過去の世界ではなく、現在進行形で現実につながっている。そして、目下の現実はいずれまた歴史となる。私たち誰もがこの歴史に身を置きながら歴史と未来をつなぐチェーンの一環であるということです。
一昨年の夏、私は日本国際文化会館の加藤幹雄先生から、英語で執筆された『The First Fifty-five Years of the International House of Japan(国際文化会館五五年の歴史)』を一冊いただきました。加藤先生とは二十数年来の古い友人です。私が東大に入学した当初からお世話になっています。
一九八六年ごろ、東京近辺の博士課程の中国人留学生を主体とする学術団体「中国社会科学研究会」が結成されました。そして、日本国際文化会館の支援のもとで、二十年以上にわたり研究、学術活動を進めてきました。この「五五年史」の冒頭には非常に興味深いエピソードが記されています。
そもそも、日本の国際文化会館設立のきっかけは、ニューヨークにあるインターナショナルハウスに由来しています。今からもう百年以上前、一九〇九年のある日、マンハッタンのキリスト教青年会(YMCA)に勤めていたハリー・エドモンズ氏が、コロンビア大学図書館の階段を上がっていたところ、中国人留学生とすれ違ったのです。そのとき、エドモンズ氏はこの若い学生に「グッド・モーニング」と声をかけ、あいさつをしたのです。まったく見知らぬ人から声をかけられた若者は多少戸惑いを感じながら、やはりうれしさを隠せずにこう答えました。「話しかけてくださってありがとうございます。私はニューヨークに着いてから三週間になりますが、あなたが私に声をかけた最初の人です」。この短い会話がエドモンズ氏の心に深く響いたのです。
彼は家に帰って、その日の出来事を妻に話しました。そうして、夫妻はアメリカに学びに来る留学生のために、何とか交流の場を提供しようと、毎週日曜日の午後、若者たちを自分の家に招くことを決めました。そこで、ニューヨークの郊外に小さなインターナショナルハウスができたのです。この一人の構想、実践が一九二四年に制度化され、ロックフェラー財団の援助のもと、立派なインターナショナルハウスがハドソン川を見下すモーニングサイドのハイツに建てられました。
同じ一九二四年の夏、イェール大学に留学していた日本人青年が、完成間近のインターナショナルハウスを目にしました。この青年は世界中から来た留学生たちが、一つの屋根の下で一緒に暮らし、お互いの文化、あるいは世界のことを学び合うというインターナショナルハウスの理念を知って、ある決意が心に芽生えたのです。いつか自分も同じものを日本でつくろう。この青年こそ、みなさまもご存じの、後日、著名なジャーナリストとして活躍し、西安事件のスクープを世界に流した松本重治です。彼は戦後、いち早く民間交流機関である日本国際文化会館を創設し、初代理事長を務めました。
一九二四年は通称「排日移民法」がアメリカの連邦会議で可決され、四月一日に実施された年です。その後の日米関係も悪化し、さらに中日関係も険悪になって、長き暗い時代に入ります。そして、ついに日中戦争、太平洋戦争に突入してしまいます。しかし、松本重治は心の中に秘めた決意を捨てなかったのです。それから半世紀以上もたって、松本先生の思いは八〇年代の初頭、日本で学ぶ私たち中国人留学生の胸にしっかりと伝わりました。
今、振り返ってみますと、松本重治が歴史のチェーンの一環であったように、私たち社会科学研究会のメンバーたちも歴史のチェーンの一環であったと、つくづく感じています。やはり、こうした民間の交流、民間の対話こそが、目下の日中関係の膠着状態を打ち破り、将来の歴史的和解を遂げるステップの一段目になるのではないかと思います。
次は歴史について考えてみます。
「歴史は鏡である」とよくいわれます。歴史学の効用といえば、私たちの来し方行く末を知る。あるいは現在を把握して、未来を予測することです。なぜそんなことができるかというと、歴史は一直線に未知の彼方へ伸びていくわけではありません。実は、らせん状に進行して、ある一定の条件が整っていれば、歴史は繰り返されるものです。
このごろ「戦前の思考」という言葉が聞こえてくるような気がします。例えば、最近の状況は第一次世界大戦、あるいは一九三〇年代に似ているといった言い方を聞いたことがあります。私はマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を中学生のころに読みました。その当時はさっぱりわかりませんでしたが、今、読み返してみると、ある種のリアリティを感じます。
歴史のアナロジー(類比)を語る意図はさまざまありますが、やはり戦前の再来を懸念しています。過去の不幸な歴史を繰り返さないために、あえて自分を戦前において考えるという立場もあるようです。
しかし、私は「戦前の思考」を別の側面から考えていました。それは、先人たちの経験と教訓について、くみ取るべきものがあればそれをくみ取って、これからの思考の糧にすればいいという態度です。
『周作人伝』の中でも触れましたが、一九二〇年代から一九三〇年代にかけて、東アジアの少なくとも中国と日本のインテリ層の間には、思想の共振というか、連帯感のようなものがありました。
例えば、周作人は一九一九年、妻の羽太信子と子どもたちを連れて里帰りします。妻の実家は東京なのに、彼はわざわざ宮崎県にある武者小路たちがつくったばかりの「日向 新しき村」を見学に行っています。今は交通の便がよくなっていますが、あの当時は行くのだけでも大変でした。彼は「新しき村」を見学して大変感激しました。そして、北京に戻ってから、北京の自宅に「新しき村」の北京支部を開設したのです。そこには、若きころの毛沢東が訪ねてきています。
さらに、エスペラントの運動があります。ロシア出身の盲目詩人エロシェンコは一九二二年、日本経由で北京にたどり着き、北京大学でエスペラント語の講師となります。エロシェンコは北京で何度も講演していますが、周作人はそのすべてに同行して通訳を務めました。彼は独学でエスペラント語を勉強していたのです。
それから、一九三〇年代後半から戦時中にかけて、周作人が柳田國男の仕事に示した関心も非常に興味深いものがあります。考えてみると、二人とも民衆の暮らしや一見素朴に見える思想の中からエッセンスを見出し、それを時勢に流されないように心のよりどころにしていたのです。
今年は第一次世界大戦勃発から、ちょうど百年になります。ですから、先ほど述べたこれらの動きの背後にはおそらく、あの大戦の影があったと思います。つまり、第一次世界大戦の参加と荒廃を目の当たりにして、世界を破滅から救うために真剣に取り組んだ社会改造の実践だったと思います。ある種のコスモポリタンの色彩を帯びた夢を見る人たちの実践でした。残念ながら、この人たちは挫折しました。しかし、これはさまざまな可能性を育んだ実践でした。彼らの「見果てぬ夢」の中には、今日、われわれが直面している多くの難題に対処するときのヒント、示唆があると私は信じています。
一部の地域で、民族、宗教、あるいは国家観の対立が日増しに先鋭化しつつある現在、「新しき村」のようなものを持ち出すのはただの戯言ではないかと、一蹴されるかもしれません。しかし、百年前と比べてみると、今は平和と国際協調が世界の大勢だと思います。
当時の「新しき村」の実践もエスペラントの発想も、相互依存をこれまで以上に深めていかなければならない地球村、地球社会のあり方を考えるにあたって、とても貴重な思想資源ではないかと思います。やはり、先人たちの経験を生かした多様な思考回路が必要ではないでしょうか。
一九八二年に初めて私が東京の土を踏んでから、もう三十年を過ぎています。考えてみますと、日中国交回復のおかげで今日の自分があります。当時は、日中関係がここまで悪化するとは想像もつきませんでした。非常に残念でなりません。中国は私が生まれて、私を育ててくれた国です。祖国です。そして、日本は青春の日々を過ごして、成長を遂げた第二のふるさとです。当時、われわれは戦争を知らない世代だから、おそらく日中両国の歴史的和解は私たちの世代で現実となるだろうと思っていました。しかし、昨今の状況を見ると、もっともっと長い道のりがあると思います。だから、この思いを次の世代に託すしかありません。ただ、自分にできることがあれば、微力を尽くしたいと思っています。
二〇〇四年九月、私が奉職している東工大と北京の清華大学が提携して、修士博士の合同養成プログラムを立ち上げました。私もそれに参加していますが、成功しています。東工大の学生を清華大に送り、清華大の学生がこちらに来て、それぞれ論文を書いて学位を授けるという非常に成功したプログラムです。私も東京、北京の両方を往復して両校の英才を教えています。
日中間の意思の疎通をはかり、信頼関係をつくり上げるには、次の世代の教育がとても大事です。教育に力を入れなければならないと思います。二十代の半ば、日本に来てから、日本にいる時間は長くなりました。私は東大駒場の比較文化専門課程に留学して、自由闊達で刺激に富んだ雰囲気の中で、七年間学べたことを実に幸福に思っています。しかも、今回この賞をいただいた『周作人伝』もある意味で、駒場の学府の薫陶を受けた産物です。
ですから、最後に、この受賞講演の場を借りて長い間、私を支えてくださった諸先生、諸先輩、学友、そして三十年、物心両面にさまざまなお世話になった友人のみなさまに心から感謝を申し上げたいと思います。
櫻井心に深く染み入る講演をいただき本当にありがとうございます。周作人、魯迅の話から、両国民の心の世界に分け入りながら、現在の問題、そして未来へと話をつないでくださったと思います。
会場からの質問中国の政府が自国の秩序を保てないので、反日教育を始めたのが日中抗争の出発点だと聞いています。今、その問題を何とか乗り越えていくというのが大きなテーマだと思いますが、どうお考えでしょうか。
櫻井劉先生は教育が非常に大事であるとおっしゃったけれど、今、日中関係が悪化しているのは中国政府による反日教育の影響が大きいのではないか。その問題をいかにして乗り越えることができるでしょうかという質問だと思います。
劉先ほど述べたように、私が来日した最初の八〇年代後半からの十数年間は非常に穏やかで平穏な日中関係だったと、みなさんも同じ思いがあると思います。おかしくなったのは、私の記憶では二〇〇五年あたりに中国国内で起こった反日デモです。その当時、若者たちが町に繰り出しているのを報道されている記事や映像を見ていると、私たちは文革の世代ですから、紅衛兵の姿がよみがえってくるのです。
考えてみると、一つの原因は、戦争時代のことをこの世代は娯楽のレベル、例えばドラマでいろいろ見ています。ドラマの中には、日中戦争をテーマにしたドラマがたくさんあります。しかも、真面目につくったわけでもないのです。さまざまなフィクションといいますか、視聴率をとるためにつくったというものもありました。確かに、そういう度が過ぎたプロパガンダといいますか、そういうものを国に帰って、たまに見ると、やっぱり苦々しく思います。これは正直な気持ちです。
何か物事が起こったとき、一つの側に絶対的な責任があるということはないと思います。ケンカを見てもそうです。最初は小さなきっかけがあって、それにまた応酬して、ケンカになっていくわけです。二〇〇五年の反日デモも、考えてみるとやはりその前にいろいろな経緯があったわけで、徐々に両国の関係がおかしくなっていったわけです。さらに、二〇一〇年に起こった巡視船と中国漁船の衝突事件。あれも大きなきっかけとなって、急速に両国民の感情は冷え切っていきました。本当に大衆レベルで悪くなったと実感しています。北京に帰ると、タクシーの運転手までが中日間の感情を話題にします。
今の状況になった以上は、どちらに原因があったのかを追求するより、現実をいかに打開するか。やっぱりこのままでは駄目だと思います。日本と中国は隣国ですから、お互い引っ越しできません。もちろん、中国国内でも過激な議論はあります。今にも戦争が起こるような議論もあります。私はこれではいけないと思います。やはり心のある人はこれを何とか阻止しないといけません。われわれの世代は戦争を知りませんが、いざとなったとき、どういう事態になるのか。北京に帰って、新聞の記事を見ると、文化人の中にもいろいろと意見があります。
私は、先ほど紹介した清華大のシンポジウムのとき、小林秀雄のことを思い出して、その話をしました。
小林秀雄は戦時中に、「文人がペンを武器にして戦う、と言うのは無意味なことです。もしある日、国が私を必要として戦うとすれば、私は一兵卒として戦う」ということを書きました。私はシンポジウムの会場で、そう話したのです。
会場はシーンとしていました。そんなこともあって、なんとかこの最悪な事態を打開していかなければならないと思っています。中国政府の教育には行き過ぎた宣伝もあるし、誤解された部分もあると思います。しかし、私の日々の仕事は教育です。次の世代の教育をしっかりと進めていきたいと思っています。
最近、中国は豊かになったので、一度も日本に来たことのない人が、日本に遊びに来て、帰っていきます。そして、さまざまな感想を書いています。これは実に興味深いことですが、来る前と来たあとでは、感想がまったく違っています。日本のよさを、自分の目で確かめて初めて分かるのです。たぶん、一介の市民に今の政府を動かす力はないと思いますが、こういう地道な交流は、一滴の水が、少しずつ水量を増すようにして、いずれは大きな川になると私は信じています。
質問今の北朝鮮と中国の状況をどう見ていますか。
劉国際関係には疎いですが、友だちと雑談していても、北朝鮮はある意味では中国の厄介者なのです。いや、これは本当に正直な話です。
私の世代は、朝鮮戦争があったので、中国は北朝鮮に志願兵を出して共に戦った友好国です。ただ、ここ数十年を見ると、中国がかなりの援助をしたにもかかわらず、大事なところでは全然、協力してくれません。六カ国協議のときもそうでした。当時、中国は一生懸命にまとめようと努力しました。それから、拉致問題もそうです。特に、横田めぐみさんのことは本当に見ていてやりきれない気持ちになります。おそらく、同じ思いを持っている中国人も多いのではないかと思います。
櫻井平川先生、何かコメントがございましたらお願いしたいと思います。
平川私は三十年前から劉岸偉さんを存じ上げていますが、実に立派な学者で、平川祐弘の名は将来、劉岸偉を教えたことがあるというだけで世の中に伝わるのではないかと思っています。
櫻井劉岸偉さん、本当にすばらしく心に染みるお話をありがとうございます。日中関係の中で、あなたのような人がおられることに、心から感謝したいと思います。次に、ではドークさんご登壇願います。