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第九回(令和四年度)国基研 日本研究賞-記念講演会

国基研 日本研究賞 第九回「国基研 日本研究賞」受賞者記念講演会/令和4年7月13日/東京・イイノホール

日本とポーランドの百年史

第九回「国基研 日本研究賞」を受賞したエヴァ・パワシュ=ルトコフスカ氏(ワルシャワ大学教授)の記念講演会は、7月13日の授賞式の後に行われました。

登壇者略歴

エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ
(Ewa Pałasz-Rutkowska)

ワルシャワ大学教授
1953年、ポーランド・ワルシャワ生まれ。ワルシャワ大学日本学科卒業。1987年、同大東洋研究所(現在の東洋学部)で博士号(人文科学)を取得。2003年に同大学教授となり、2006年から2013年まで同大東洋学部日本学科長、同時に2007年から2013年までポーランド日本情報工科大学教授も務める。現在もワルシャワ大学日本学科の教授。この間、1983年から1985年まで東京大学に留学、以来数十回にわたり日本(主に東大)に留学・研究(客員教授としても)を続ける。2015年には旭日中綬章を受け、2019年には国際交流基金賞も受賞した。主な著書・論文には、日本研究賞受賞作となった『日本―ポーランド関係史1904-1945』『同1945-2019』のほか、『明治天皇、近代化する日本における君主像』(ポーランド語、ワルシャワ大学出版 2012年)、『日本におけるポーランド人墓碑の探索』(文化省編、2010年)、『20世紀の日本』(ポーランド語、K・スタレツカと共著、TRIO 2004年)。論文として、「ポーランド日本間の国交回復問題。第二次世界大戦後の外交関係」(『日本歴史』2015/7)、「日本に眠るポーランド人たち」(『軍事史学』2011/47/3)など多数。

「ロシア」で接触

東京大学名誉教授の伊藤隆先生の貴重な専門的な助言、ご指導により、日本研究者としての私の歩みは今日に至りました。八〇年代に最初に東大に在籍したときに多くの資料にアクセスすることができ、真崎甚三郎と皇道派について博士論文をまとめました。佐賀県千代田町犬童の実家の親戚のもてなし、また、世田谷のお宅の雰囲気と、長男の真崎秀樹さんとのとても楽しいお話を今でも覚えています。

その次に、東大で先生のご助力を得て、牧野伸顕と昭和天皇などの研究とともに、「日本・ポーランド関係史」に関する資料を収集し始めました。この研究の成果は、受賞した二冊の本の中にあります。

長年にわたる研究で、私がたどり着いた結論は、世界史の流れや、そこから派生したさまざまな差異にもかかわらず、すでに百年以上にわたって続いてきたポーランドと日本の関係は、基本的に友好的なものであったということです。そして、最も重要なことは、両国の社会では、お互いに親しみの感情が広まっているということです。これは私も身をもって体験してきました。

ポーランドと日本の関係史の主な段階を紹介したいと思います。

第一段階は両国が公式な関係を締結した一九一九年より前、一九世紀の終わり頃に遡ります。その起源は感情、精神面と政治面にあると思います。精神面ではアイデンティティーの保護、伝統の尊重、勇気、家族に対する価値観を両国の人々は同じように理解していました。ポーランド人は、日本人が利己的個人主義を持たず、集団の利益のために自国に献身することに重きをおき、一方、日本人はポーランド人の持つ愛国心や母国への献身的な尊敬の念を高く評価しました。

政治面では、歴史的に、アジア太平洋戦争勃発まで、ポ日両国は共通の隣国、帝政ロシア、そのあとソ連を抱えていました。

日本のポーランドへの親近感の始まりは一八八五年に遡ります。一八八五年、東海散士は、政治小説『佳人之奇遇』のなかに、初めてポーランド民族の悲劇、すなわち国土分割や独立運動について記しました。一七九五年のロシア、プロシア、オーストリアによる第三次分割の結果、ポーランドは独立を失いました。東海は長年にわたり抑圧されてきたポーランド民族への連帯感を強調しながら、日本が開国してから世界の国々との付き合いを始めるにあたって、巨大国の植民地化政策に対する警告を発していました。

一八九三年の落合直文『騎馬旅行』長編詩の一節、後年軍歌となった『波蘭懐古』のなかにも、ポーランドが描かれています。その動機となったのは、ベルリンからポーランドを経てウラジオストックまで、シベリア大陸横断旅行(一八九二〜一八九三年)をした参謀本部の福島安正少佐のストーリーでした。福島は私の好きな主人公です。福島の主な目的は、ヨーロッパ諸国の近代的な軍備状況の調査、それも特に日本にとってもっとも危険な隣国・ロシアの探査でした。彼は占領国ロシアに対して長期にわたる抵抗運動の経験を持つポーランド人と接触し、ロシアについての情報を得ることに成功したようです。

大国ロシアを破った日本

福島の得た情報は、十数年後に起きた日露戦争(一九〇四~〇五年)のときに活用されたようです。その当時ポーランドは三カ国によって分割されたため、ポーランド人はロシア軍をはじめ、それぞれの軍に徴兵されました。ロシア軍は多民族軍ですが、全てのポーランド人はロシア化を強いられ、ロシア語を喋らなければなりませんでした。

その戦争で日本人はポーランド人と接触しました。日本側にとっては、ポーランド人からの軍事情報とシベリア鉄道の破壊が大事でした。一方、ポーランド人は、この戦争をポーランドのために利用しようと試みていました。ポーランド人は、ピウスツキとドモフスキなどで、日本人は明石元二郎や宇都宮太郎などです。

ポーランド人の二人は、一九〇四年に別々に日本に行きました。ピウスツキは、独立回復のためのポーランド人による武装蜂起やシベリア横断鉄道の反乱工作は、ロシア軍の弱体化に繋がり、日本人にとって大きなメリットがあると強調しました。なぜなら、ロシア軍は蜂起勃発を防ぐため、軍の一部をポーランドに駐屯させなければならなくなり、その分、極東の守備が手薄になるからでした。日本側にお願いしたのは、補助金と武器の調達援助、ポーランド軍団の編成などでした。

ドモフスキは、蜂起はポーランド人に再び悲劇をもたらすだけで、日本にとっても無益だと警告しました。蜂起を起こすより、ロシア軍のポーランド人の兵士を日本軍に投降、脱走させることは価値があると提案しました。

二人の政治に関する意見は異なるものの、ポーランド兵士の脱走についてはピウスツキも同意見でした。

また、ポーランド人捕虜に対する特別な処遇などを求めることについても、ピウスツキとドモフスキの二人は同意見でした。日本全土における二十九箇所の捕虜収容所に計七万人以上のロシア兵士の捕虜が収容され、その中に四千六百人以上のポーランド人の将校、兵卒、水兵がいたようです。ピウスツキとドモフスキは、ポーランド人を別個に収容して欲しいと要望しました。四国の松山では、収容当初からポーランド人とロシア人の兵士を別々に収容していました。ポーランド人捕虜収容所は雲祥寺にありました。

結局、ピウスツキの使命は失敗に終わりました。ドモフスキの影響もあったけれども、日本とポーランドの協力関係に対する双方の目的が異なっていたのも要因でした。日本側は軍事情報とシベリア鉄道の破壊を要求しただけで、ポーランドの政治問題には全く関心がありませんでした。日本にとってポーランドは地政学的にあまりに遠く、国家としても存在しなかったのです。日本の政治的な目標は、ロシアの解体ではなく、極東におけるロシアの野望を制限することだけでした。

共同工作は成果がありませんでしたが、まさにそのとき、遠くて、しかも小さい、やっと国際舞台へ登場したばかりの日本という国が大国ロシアを打ち負かしたことは、ポーランド国民の中に日本人への深い親近感を植え付け、後の友好関係の源泉となったと思います。日本では一九世紀の終わり頃に、ポーランドではその十数年後に生まれた親近感は、その後の関係に影響を与えました。

日本軍とポーランド

日本とポーランドの関係の第二段階は、一九一九〜一九四一年の公式関係です。第一次大戦後、一九一九 年の三月六日、日本政府がポーランドを独立国家として承認して以来、両国の関係は徐々に進展しました。ポーランドは独立を回復すると、一九二〇年代は、新興国家として安定した国境線確定とヨーロッパ大陸内で地位強化に邁進していました。ポーランドにとって日本と友好関係を維持することは、東側隣国ロシアとの難しい関係を考える上で、適宜にバランスを取ることに繋がりました。

一方、日本は、一九二〇年代に世界の諸問題を協議する国際連盟の主要国の一つとして大国の道を歩み始めました。国際協調ということを学び始め、極東地域での国益維持に気をはる日本は、自国に直接関連しない事項には介入せず、他の大国との対決姿勢を避けるように努めていました。しかしながらポーランドに関しては、概ね友好的な中立的な姿勢を示しました。

日本においては、文官よりは軍部がポーランドに強い関心を示していました。その証拠として、参謀本部の派遣で一九一九年からワルシャワにおいて活動していた山脇正隆中佐(後大将)の業績を上げることができます。山脇は、ポーランドを選んだ理由を三つあげました。

引用します。「第一に、その当時、ポーランドは日本社会のなかでまことに人気のある国だった。第二に、…ポーランド人は『背骨の真っ直ぐ』な、つまりまっ正直な人間である。そして、最後に、長期にわたる抑圧や長年にわたる占領者による民族性撲滅政策にもかかわらず、自己の言語や文化を護りぬいた。これは教育や家族の有り方が基準にかなっているが故である。こどもたちは日本と同じように、両親を敬う」

山脇は、一九二一年に日本公使館が開設された後、初代の駐ポーランド日本公使館付武官に転任しました。これ以降、彼は戦間期を通して、ポ日関係に重要な役割を果たしました。直接には軍事面での協力、間接的には、特に三〇年代の後半に、ポーランドに対する日本の認識に影響を及ぼしました。一九二〇年のポーランド・ソビエト戦争では、観戦武官として活動し、また、日本軍諜報将校はポーランドにおける暗号通信システムを学ぶよう進言しました。ヤン・コヴァレフスキ大尉が日本参謀本部に派遣された一九二三年に暗号解読の協力関係が始まり、三〇年代にはさらに進展し、第二次大戦中も維持されました。三〇年代には百名以上の士官・下士官が、研修、具体的な部隊の顧問などの目的でポーランドに派遣されました。

ポーランド孤児救援

両国関係に大変よい影響を与えたのは、シベリアのポーランド孤児救援でした。一九二〇年から一九二二年まで数度にわたり、シベリアと満州から約八百名のポーランド児童が日本赤十字社の難民救済事業で救命救助されました。一九一七年のロシア革命勃発後、内戦や列強の反革命支援、対ソ「シベリア出兵」などもあって政情が大きく乱れたときでした。そのため、アンナ・ビェルキェヴィッチとユゼフ・ヤクブキェヴィッチ等、ウラジオストック在住ポーランド人は、一九一九年にポーランド救済委員会を設立し、日本に支援を求めました。その結果、ポーランド孤児は日本行きの許可を得ました。

子供たちは敦賀経由で東京と大阪へ渡りました。敦賀、東京、大阪の各地で子供たちは非常に好意的に迎えられました。貞明皇后陛下も、一九二一年の四月に東京の福田会という養護施設を訪れました。日本人はポーランドの子供たちを支援するために、多くの心づかいを熱心に寄せました。

ビェルキェヴィッチはポーランド人に関する情報をできるだけ多くの日本人に知ってもらおうと努力しました。彼女はポーランドの歴史の簡単な紹介やシベリアのポーランド人の状況などを、ポーランド語、英語、日本語の三カ国語で記載した『極東の叫び』という雑誌を発行し、それは東京、京都、大阪、神戸、横浜で販売されました。

シベリア孤児に寄せられた心づかいは、彼らの記憶に深く刻まれて、帰国後もずっとそれを忘れないでいました。その後、ポーランド極東青年会とシベリア協会を結成し、日本人の多大な厚意と感謝の念に応えるべく活動していました。彼らにとって日本滞在は忘れられない思いになったわけです。今でも福田会も敦賀も、シベリア孤児は忘れないまま、ポーランドと日本の関係のためにみんなすごく活動していらっしゃるんです。

駐日大使の泉岳寺参拝

一九三〇年代は、満州事変などのため、欧米諸国は日本への批判を強めていましたが、ポーランド人と日本人との関係は一般的に変わりませんでした。国際政治で日本の立場が悪化するなか、日本は一層ポーランドへの関心を高めました。それに国際政治上、ソビエトの地位が強固になることは、日本にとっては危惧すべきことだったため、日本はポーランドを常に対ソビエト政策上の同盟国と見ていました。

日本とポーランド、両国間の友好関係を示すものとしては、三七年の十月一日に公使館が大使館へ昇格されたことが挙げられます。初代の大使は、酒匂秀一とタデウシュ・ロメルとなりました。ポーランド側にとっては、ポーランドとドイツの関係で日本情勢が大事であり、日本側にとってはソビエトに関する情報が大事でした。また、三九年の八月二十三日に、独ソ不可侵条約が締結されると、日本側はドイツの裏切りとして受け取り、ドイツに関する情報も大事になりました。面白いのは、そのときにすぐロメル駐日ポーランド大使は、泉岳寺に参拝し、このように発言しました。

「心の命じるままに忠誠と信頼への誓いとして四十七士の赤穂浪士の墓前に花を捧げることにより、日本国民に我が国民の感情を表明いたしたく思います。」

ポーランドと日本の関係は、第二次大戦勃発後も著しい変化は生じませんでした。日本政府は中立の立場でヨーロッパ戦争に参戦しないと公式に声明し、また、非公式に外相の有田八郎と松岡洋右はロメル大使に友好関係の維持を確証してきました。ドイツの同盟国だったのに、一九四一年の十月まで東京におけるポーランド大使館が正式に活動していました。そのうえ、両国の諜報将校の協力関係は続いていました。日本人はヨーロッパにおける独ソの軍の動きに関する情報と引き換えに、ポーランドの諜報将校に対しドイツ、バルト諸国、スカンジナビアの日本公館において、日本の外交クーリエで、ポーランド人の報告書などを指定した目的地に送ると約束しました。ポーランドと日本の諜報員は、最初一九四〇年の半ばまでリガとカウナスにあって、その後はベルリン、プラハ、ケーニヒスベルグ、ストックホルム、ブカレスト、ソフィア、イスタンブール、バチカン、ローマ、満州でも活動していました。

杉原千畝との関係

第三段階は戦争です。ポ日関係が変わったのは、一九四一年の十月四日でした。日本政府は駐日ポーランド大使館の閉鎖を決定しました。その理由は、同年の六月にドイツがソ連を攻撃し、三九年の九月からソビエト支配下にあったポーランド東部を含むポーランド全土が占領下に置かれており、日本は大東亜進出をめざし、ドイツ、イタリアとの三国同盟の決定に基づいて、ヨーロッパにおけるドイツの政策を支援せざるを得なかったからです。でも、十月四日に、ロメル大使と会った天羽英二外務次官は、ポーランド国民と日本国民の間に存するこれまでの友好的な関係を考慮し、日本政府はポーランド大使に対し、十月末まで外交特権を付与し、全てのポーランド市民は日本に在留可能で、日本政府に庇護をしてもらえるということでした。

アジア・太平洋戦争が勃発後、一九四一年十二月十一日、ロンドンにあったポーランド亡命政府、とりわけ大統領は米英と同じように対日宣戦布告。しかし、ポーランドが一方的な対日宣戦の布告をしただけで、その通告を日本側は正式に受理していませんでした。理由は、日本政府が正式に亡命政府を承認しなかったからでしょう。

ポーランドと日本は正式な敵となりましたが、一九四五年まで諜報協力関係が継続していました。特に大事だったのは、三九年の十一月から四一年の八月末までの、カウナス領事館での杉原千畝副領事とレシェク・ダシュキエヴィチ中尉とアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉という陸軍諜報将校との関係でした。

先に申し上げたとおり、ソ連やドイツに関する情報の見返りに杉原は日本のクーリエを利用して、リトアニアから西側、すなわちポーランド亡命政府へ、または西側からカウナスやワルシャワへ、ポーランド地下組織や諜報機関の連絡物資を送ることを約束しました。杉原領事とポーランド諜報将校との協力関係は、ポーランド避難民への日本通過ビザでも結びついています。

第二次世界大戦が一九三九年九月一日勃発すると、ドイツ軍はポーランド侵攻に入ります。十七日にソビエト軍はポーランドの東部国境を越えて、ヴィルノ(ヴィリニュス)を含む東部地方を占領しました。そこに駐屯していたポーランド軍部の一部は、リトアニア国境の収容所に抑留されました。やがて脱走が始まり、それにともない脱走者を援助するネットワークが構築されました。十月の上旬に、ポーランドでの戦いが終わって、ポーランドの領土はドイツ軍とソビエト軍の占領下に入りました。そのために約四万人の軍人を含む避難民がリトアニア国境を越えました。一九四〇年六月にソ連軍がリトアニアとラトビアに侵攻、八月にバルト三国を併合した後、日本政府はカウナスとリガにあった公館を閉鎖することになりました。難民の救助が急務となりました。

杉原千畝副領事の「命のビザ」のお陰で約三、四千人のポーランド系ユダヤ人とポーランド人の命が救われました。外交史料館の資料には杉原リストがあり、二千百三十九名が載っているのですが、子供連れの大人もいたし、カウナスで杉原と協力していたポーランド人将校の手による偽ビザもあったため、実際には日本を経由して逃げたポーランド人の数はもっと多かったと思われます。

日本政府も協力的

カウナスで杉原からビザを受け取ったポーランド人は、四〇年八月からシベリア経由で日本の敦賀に上陸し始めました。彼らを世話していたのは、ロメル大使と彼によって組織された「ポーランド戦争被災者救済委員会」でした。委員会は東京に来た避難民の衛生、衣類、文化面の援助や、家族との連絡、日本入国ビザ延長(杉原のビザは十日間しか有効ではなかったからです)、パスポートの交付、目的地ビザの手配などしていました。

避難民はほとんどの場合、在カウナスのオランダ領事、ヤン・ズヴァルテンディクが旅券などに記入した注釈に基づいて、当時はオランダ領であったキュラソーなどのカリブ諸国を最終目的地とした日本通過ビザを持った人々でした。ズヴァルテンディクは、「キュラソー他のオランダ領土への入国ビザが不要である」と記載しましたが、キュラソー知事のみが入国を許可し得るという部分が抜けていたから、誰もキュラソーなどへ行けないと知っていました。ロメル大使は、日本政府との仲介もはたして、日本側がとても協力的だと報告していました。その上、難民の中に将校もいて、ロメルは、ポーランド独立のために戦う軍隊への志願兵をカナダなどに送り出すという件にも関与しました。

カウナスでの杉原とポーランド将校との協力は四一年の八月末、領事館の閉鎖まで続きました。その後、ポーランドの情報将校ヤクビャニェツは、ベルリン駐在日本武官室の通訳官として架空雇用されていたが、実際は最高司令官第二部諜報機関の指揮官の役目を果たしていました。陸軍将校ダシュキェヴィチは、杉原と共にプラハに行き、続いてケーニヒスベルクでドイツ軍とソ連軍についての情報収集を目的とした日本総領事館を一九四一年三月に開設しました。諜報部員たちが独ソ戦は避けられないと報告したからです。しかし、ヤクビャニェツがドイツのゲシュタポによって逮捕され、ドイツ外務省はカウナス、プラハ、ケーニヒスベルクの杉原は外交上好ましくない人物として引き揚げさせるよう日本外務省に圧力を加え始めました。

その結果、四一年の秋、ケーニヒスベルクの領事館が閉鎖され、杉原はブカレストへ転任となりました。在ドイツ大使の大島浩は、ドイツ側との関係の悪化を心配して、ポーランド人との如何なる接触も禁止しました。それにも拘わらず、その後、その諜報協力関係が四五年まで続いたのは、ストックホルムの駐在武官・小野寺信少将とドイツの専門家のミハウ・リビコフスキ少佐などによります。

「スターリンの死」によって

第四段階は冷戦時代の非公式関係です(一九四五〜一九五七年)。戦後の世界は、資本主義と共産主義という二つの陣営への分裂がより明確になりました。ヨーロッパの東西間の鉄のカーテンはますます深いものとなり、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーなどの中欧諸国は、ソ連の支配下に入りました。アジアの分断も根深いものとなったため、アメリカの占領下にあった日本は一九四九年からアメリカの同盟国となっていきました。ポーランドと日本は反対側陣営に属したため、ポーランドはソ連とチェコスロバキアと共に、サンフランシスコ平和条約に署名しませんでした。しかし両国の間に如何なる否定的な要素もないため、日本に関して肯定的な発言をする政治家もいました。

両国の国交回復への気運が高まったのは、一九五三年のスターリンの死とフルシチョフのスターリン批判のお陰でした。五〇年代の半ばにすでに発展を見せ始めました。五五年の夏、「第五回世界青年学生フェスティバル」に日本から八十六人が代表団としてワルシャワに来て参加しました。その年の秋には、参議院議員団がポーランドを初訪問し、また、ポーランドからの代表団が広島の原水爆禁止世界大会に参加しました。

五六年には、ポーランドと日本の労働組合員の交流が始り、同年に森元治郎さんのお陰で東京で「日本ポーランド協会」が設立されました。

五四年にポーランド外務省は、日本と外交関係を結ぶのは極めて重要と判断。五六年に日本とソ連の間で外交関係の回復に関する共同宣言が署名されてからは、ポーランドと日本の交渉も増してきました。その結果、一九五七年の二月八日に署名された「日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定」により国交回復がなされました。

五月一八日、批准書の交換式のときに、日本側の代表、園田直特派大使はこう述べました。

「両国は、過去には心からの友情の絆により結ばれていた。その絆は第二次世界大戦の時期に引き裂かれ、そのことは両国にとって大きな損害をもたらした。我が国民と政府は、両国の友情が日本とポーランドの利益においてより緊密になることを確信している」

天皇皇后両陛下の訪問

第五段階は冷戦時代の公式関係です(一九五七〜一九八九年)。六〇年代、七〇年代には、両国の異なる政治体制にも拘わらず、両国の接触が少しずつ進展していました。特に労働党の第一書記ギエレクの時代に経済協力が発展しました。日本の大手商社やメーカー、そして、ジェトロ(日本貿易振興機構)などが事務所を開設。経団連の代表団がよくポーランドを訪れました。

八〇年代に入ると、日本では労働組合「連帯」の運動や、後にノーベル平和賞を受賞したレフ・ワレサ委員長に対する共感が呼び起こされました。日本の労働組合「総評」の招待で、「連帯」代表団は日本を訪問し、「総評」の富塚さんはポーランドを訪問しました。

両国の関係は、八一年十二月十三日のポーランド戒厳令により悪化しましたが、日本政府は、他の西側諸国のように制裁を科すこともせず、ポーランドの債務の支払期限の延期と、さらなる借款についての交渉の停止を決めただけでした。

一方でそれまでに約束していたポーランド情勢の安定化のための経済援助を継続し、国際赤十字が仲介するポーランド国民のための人道支援のスキームで、食料や衣服、医療機器を拠出しました。その上、「連帯」系の地下運動、反政府活動家とその家族など、迫害に苦しんでいたポーランド人を援助していた日本人と日本組織もありました。その中には、例えば議会の「ポーランド問題を考える議員連盟」、工藤幸雄、伊東孝之、筑紫哲也等のアイデアで創立した「ポーランド資料センター」や工藤久代等による「ポーランド人を助ける会」などもありました。

「ポーランド資料センター」によって出版していた「ポーランド月報」のお陰で、ポーランドのさまざまな問題が日本で紹介されました。

正式な関係は、安倍晋太郎外相がポーランドを訪問した一九八五年から次第に改善されました。

最後の第六段階は一九八九年からの公式関係です。「連帯」派が政権を奪取してマゾヴィエツキが首相に就任し、ポーランドにとって大転換となった一九八九年以降も、債務の支払い問題は、対ポーランド政策に影響を与えました。しかし、日本は最終的に、中欧の民主化を支援する取り組みに参加し、その後、パリクラブとロンドンクラブにおいて、ポーランドの債務の削減に合意しました。

日本とポーランドの関係改善は、ポーランドが民主化に踏み出した九〇年代に勢いを増しました。転機となったのは、一九九四年のワレサ大統領の日本訪問であり、とりわけ重要なのは、二〇〇二年の天皇皇后両陛下のポーランドご訪問でした。その時にはポーランドで最も古いワルシャワ大学日本学科の学生や教職員ともご会見されました。それは本当に重要な出来事でした。私はそのときに日本とポーランドの関係の簡単な展示会にご案内させていただきました。天皇皇后両陛下のご訪問の目的は、両国の友好親善を深めるもので、天皇皇后両陛下を大歓迎する市民がポーランド人の日本人に対する深い親しみを表わしました。

百年にわたる親近感

その後、日本とポーランドの関係がとても良好であるのは、私が聞き取り調査を行っている大使やその他の多くの人々から何度も聞いており、外交文書や報道資料からも明らかです。両国の利害が対立するような争点はなく、両国間の領土問題、戦争補償金、少数民族などの複雑な問題も全くなく、二一世紀の現在の政治、外交、経済、文化、学術などの協力関係は順調に発展しています。国際関係における重要な場面において、我々は近い立場にあり、国際機関や平和維持活動、イラク、アフガニスタン、中東などでの復興支援、テロとの戦い、環境保護などの分野で協力しています。今のウクライナにおけるひどい戦争をはじめ、国際的に重要な課題について、両国は近い立場にあります。

日本は経済大国として、またアジアの安全保障に貢献する国として、この地域におけるポーランドの主要なパートナー国の一つです。他方でポーランドは、安定性、EUやヴィシェグラード諸国との結びつきの観点から、日本にとって中東欧地域における最も重要なパートナーだと思います。

両国の友好関係は、文化、学術分野にも及びますが、これは百年を超える両国民の間の伝統的な親近感、友好関係によるものです。一九二〇年から二二年、および八一年から八三年にポーランド人が日本から受け取った人道支援、日本人が大震災の一九九五年や二〇一一年にポーランドから受け取った人道支援は、その親近感の証拠です。

その他にも、ポーランドと日本において外交関係の締結百周年を記念して企画されたさまざまなイベントや、二〇一九年六月の秋篠宮殿下ご夫妻のポーランド訪問もその根拠に数えられるでしょう。

百年以上前からポーランド人も日本人もお互いに親近感を覚えています。この親近感は、戦争と冷戦の期間を超えて、両国の社会のなかで綿々と受け継がれてきました。そのお陰で昔から両国の友好関係があり、友好関係のお陰で多くの分野における協力が発展しています。だからこそ、両国を隔てる距離と文化的な差異にも拘わらず、お互いに身近な国民なのだと思います。(了)

 

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「日本とポーランドの百年史」

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