第三回「国基研 日本研究賞」受賞者記念講演会
平成28年7月6日
公益財団法人 国家基本問題研究所
国基研 日本研究賞
東京・内幸町 イイノホール
櫻井よしこ理事長 - あいさつ
国家基本問題研究所が主宰する日本研究賞は三年目を迎え、今年もすばらしい方々を選ぶことができました。大賞は南モンゴル出身で、今は日本国籍を取得されている楊海英さんが受章されました。受賞の対象になったのは、『日本陸軍とモンゴル――興安軍官学校の知られざる戦い』、そして『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』という二つの作品です。
今日は、大賞の楊海英さんに記念講演をしていただきます。
楊海英さんは、南モンゴル(内モンゴル)の出身です。中国にたいへん弾圧をされているところです。その歴史を見ますと、旧日本軍の影響力が非常に強い国柄です。楊海英さんのお話は、大東亜戦争において、私たちが成し得たことは何だったのか。成し得なかったことは何だったのか。今、私たちは戦後何年という話をしますが、戦後は終わっていないというのが楊海英さんの主張のポイントの一つです。なぜ、終わっていないのか。お話を聴けば、たくさん考える視点が与えられると思います。
日本研究賞
楊 海英(大野旭)・静岡大学教授
「日本陸軍とモンゴル 興安軍官学校の知られざる戦い」(中央公論新社、2015年)
「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史」(文藝春秋、2014年)
皆さんがこれまで受けてきた教育の中、あるいは日常生活の中で、軍人という言葉はあまり出てこなかったと思います。そして、軍人と民族主義者は結びつかないかもしれません。日本文明あるいは日本型文明がすばらしい文明であることは自明ですが、その文明を誰がつくったのか。これまで、そこをあいまいにしてきたのではないかと思います。
私はあえて、その真実を軍人と表現しました。日本人の軍人だけではなく、モンゴル人の軍人も含まれています。実は、二十世紀の一時期、モンゴル人も大日本帝国の軍人でした。そのことは、『チベットに舞う日本刀』と『日本陸軍とモンゴル』で書きました。
私は日本に来て二十七年になりますが、現代の日本人は、軍隊と軍人を避けているという印象を受けます。つい最近も、共産党の幹部が防衛費を「人を殺すための予算」と発言しています。週末に参議院選挙がありますが、この大事な選挙期間中に、中国の戦闘機が尖閣諸島に現れ、そして、まさに今、南シナ海では軍事演習をしています。自衛隊も一生懸命スクランブル発進で対応していますが、それに必要な経費を「人を殺すための予算」と表現している人がいる。自衛隊は日本を守っているのに、なぜ彼らを忌避するのか。
中国が東シナ海で膨張し、沖縄県の尖閣諸島を自国の領土だと主張している現在、日本は国家存亡の危機に直面していると思います。中国では、沖縄も中国の領土であるという論調が政府系の新聞、メディアにしばしば見られます。ですから、中国の野望は決して尖閣諸島で終わりません。彼らはアメリカに対して、広大な太平洋を二国で分け合おうと言っています。ということは、沖縄どころか西太平洋ハワイまでが中国の内海になる危険性も十分あるということです。
前例があります。私のふるさと南モンゴルです。今、行政上は中国の内モンゴル自治区ですが、戦前は満州国とモンゴル自治邦という二つの国家でした。満州国とモンゴル自治邦にそれぞれモンゴル人がいて、日本の強い影響下にありました。一九四五年八月、終戦によって、日本人は草原から撤退しました。しかし、日本は満州国とモンゴル自治邦という、日本の内地とさほど変わらない、非常に近代化の進んだ二つの国家をモンゴル人に残してくれました。
国家にはあらゆる装置が必要です。軍隊、工業、農業、モンゴルの場合は牧畜業、そして教育。この近代的な装置をすべて日本が残してくれたおかげで、モンゴル人は戦後、民族の独立、つまり中国からの独立が実現できると思っていました。しかし、ソ連、アメリカ、イギリスが結んだ対日戦後処理の秘密協定であるヤルタ協定で、南モンゴルは中国に占領させるという裏取引があったのです。ソ連はこの協定に従って、満州とモンゴル自治邦に出兵し、結果として、南モンゴルは中国の領土となってしまったのです。
南モンゴルに中国人が入ってくるときは、まさに尖閣諸島に現れるのと同じです。少しずつじわじわっと侵略し、気がついたら、人口の逆転現象が起きていたのです。
私は、亡国の民です。その亡国の経験から言えば、やはり尖閣問題は今、非常に危機的な状況にあると思います。今日の話のポイントではありませんが、大変な事態だということだけは知っておいてほしいと思います。
さて、本題に入ります。二十世紀において、モンゴル人の軍人と日本人の軍人がどのように近代文明をつくりあげてきたのか。その歴史についてお話しします。モンゴル人の歴史は、同時に日本人の近代史でもあります。
モンゴル人は普段、非常にゆったりした感じで、馬に乗っていますが、いざ敵が出現すると、瞬時に凛とした姿になり、遊牧の戦士になります。そして敵に向かって突進していきます。
私から見ると、日本人もやはり武を貴ぶ民族だと思います。たとえば、日露戦争のときの日本軍が戦馬に乗ってロシア軍に突進していく姿を描いた絵があります。
考えてみると、たいしたものです。日本には騎馬の伝統あるいは騎馬兵の伝統がそれほどありません。しかし、近代のヨーロッパに行って研究し、それを導入して、すぐに運営できたわけです。日本に馬はいましたが、モンゴルの馬より小さかったはずです。ところが、日本軍が乗っている馬は非常に背が高い。これは明治維新のころ、日本がアメリカ、オーストラリアなどから十数万頭も馬を輸入し、それをヨーロッパふうの背の高い馬に品種改良していったのです。日本人が慣れていなかったはずの背の高い馬に乗り、歴史的にずっと運用してきた騎兵ではないにもかかわらず、それを見事に運営してロシア人に立ち向かっていったのです。
ロシアはモスクワから日本海のウラジオストックまで、ユーラシアのあらゆる民族を征服してできた大帝国です。その大帝国を日露戦争で、東洋の小さな国・日本が打ち破った。この衝撃がユーラシアの諸民族、モンゴル人、トルコ人、アラブ人に与えた影響は非常に大きい。今でも、モンゴルあるいは中央アジアで調査をすると、「日本人はすごい」と、ロシアに勝った功績、衝撃についての評価は非常に高いものです。
私は「日本民族の精神性とは何だろう」といつも思います。日本は世界一すばらしい近代文明をつくりあげました。その近代文明を創造した明治維新以降の日本人を思い浮かべてみてください。おそらく彼らは全員、サムライ兼知識人です。モンゴルは日本の近代文明を学ぼうと、日本にやってきます。つまりモンゴルの近代化は、日本から学んだのです。もちろん、モンゴルは陸続きのロシアからも学びました。
モンゴル人の精神性の基は、遊牧、礼節、知識、戦士です。モンゴルは何があっても礼節を大切にする民族です。そして、生活の根底にあるのは遊牧です。移動しながら生活をする際も、礼節が非常に大切です。そして、移動しているので、幅広い知識が得らます。
農耕を営む人はずっと村の中にいますので、入ってくる知識は限られています。日本は農耕文明だと思われがちですが、日本は農耕だけではなく、海洋文明でもあります。船に乗って世界中の海を回るので、遊牧民と同じように移動しています。移動している人には知識が入り、その知識を大切にします。移動している人は保守的ではなく、開明的です。
モンゴルの男はすべて戦士です。そんなモンゴル人たちが目指したのが、日本型の近代文明です。
そして、近代型の文明の担い手は、モンゴルも日本も共通しています。軍人兼知識人です。明治維新の初期は、サムライ兼知識人でしたが、一九三〇年代になって、あるいは戦後にかけても、日本型の近代文明の担い手たちは、見事に軍人兼知識人です。
戦前をすべて否定する風潮が日本にあります。しかし、戦前と現代の日本は断絶しているわけではありません。高度成長期あるいは現代の日本をつくりあげたのは、やはり軍人たちです。もちろん他の存在を否定しているわけではありません。
そして、軍人兼知識人たちは、同時に民族主義者でもありました。私は「軍人民族主義者」と呼んでいます。軍人民族主義者が近代日本型文明をつくり、その日本型文明をモンゴル人は学ぼうとしました。しかし、戦後、軍隊、軍人を否定する風潮が、日本では非常に強いと、私には見えます。考えてみると、軍人と軍隊に対する否定は、自分たちが歩んできた歴史に対する否定です。彼らが日本型文明をつくりあげたのに、彼らを否定するのは、文明に対する否定でもあります。そして、何よりも民族の自決への否定です。
日本人は西洋による植民地化を避けるために、明治維新を推進しました。もしそのとき、サムライ兼知識人がいなければ、日本はイギリスあるいはロシアの植民地になっていたかもしれません。しかし、サムライ兼知識人たちの奮闘があって、それを避けられたのです。
モンゴルの場合は、中国の植民地になっていました。そのため、モンゴルの軍人たちは民族自決の目標を掲げ、日本とロシアと協力して、中国の支配から独立しようと頑張ったのです。日本人と違って、私たちは私たちの軍人、軍隊を否定しません。彼らにもダーティな部分、情けない部分、哀しい部分がありました。それでも、私たちは遊牧の戦士として、武を貴ぶ民族として、私たちの軍人、私たちの軍隊を私たちの歴史の一部として、心から愛しているのです。
千葉県の習志野は、サムライ兼知識人、軍人兼知識人たちが日本型文明をつくった揺籃の地です。ここに騎兵第十三連隊という看板があります。
騎兵第十三連隊
習志野はかつてモンゴルのような草原だったと思いますが、そこに近代日本の騎兵あるいは機甲部隊が展開されていたのです。ここには学校もありました。その学校にモンゴル人は留学してきます。
習志野には「騎兵第十三連隊記念碑」と歴史を伝えるモニュメントがあります。
歴史を伝えるモニュメント
この近くに小さな祠もあります。日本は歴史をきちんと残すという伝統があります。この点はモンゴルと違います。モンゴルも歴史は残りますが、南モンゴルの場合、中国の存在が大きいので、歴史の書き替えが、ひんぱんに行われています。
もう一つ、満州国生徒隊という看板がある建物は、現在も残っています。
満州国生徒隊
満州国生徒隊という名称は、ここに満州国のモンゴル人たちが留学していたからです。満州国ができてから、ほぼ毎年のように優秀なモンゴル人たちが選ばれて、日本の近代型の騎兵戦術を学ぶため、習志野に留学しています。
ご存じのように、モンゴルは遊牧の民で、ジンギス・ハーンの子孫です。ジンギス・ハーンの軍隊が世界帝国をつくりあげたのは、騎兵の力です。モンゴルの遊牧民の騎兵戦術がヨーロッパに伝わり、ヨーロッパ人がモンゴルに敗れた経験を生かしながら、ヨーロッパ流の騎兵術を誕生させます。ヨーロッパの騎兵術はどんどん進化し、それを秋山好古など、明治の軍人が学んで、日本に持ってきます。そして、その明治のサムライから今度はジンギス・ハーンの子孫が学ぶという、まさにユーラシア大陸を一周した文化の伝達です。非常にロマンチックな物語性を感じます。
習志野に留学していた人たちに関する記録は、靖国神社にも伝わっています。靖国神社の偕行文庫という資料室に、日本軍の史料が豊富に保存されていますが、その中にモンゴル軍の史料もあります。
偕行文庫に伝わるモンゴル軍
私は、その中の当事者たちを南モンゴルで追跡調査しました。彼らは、満州国時代に何をしていたのか。そして、満州国が崩壊してから、彼らは何をし、どんな運命を辿ったのか。その人生史を調べ、日本側の記録と中国、内モンゴルでのインタビューを合わせて、『日本陸軍とモンゴル』、『チベットに舞う日本刀』を書きました。モンゴル側と日本側の史料の両方を持ち合わせて研究すると、歴史の真相がわかります。
モンゴル人にとって、日本軍の軍刀は憧れの対象でした。日本刀はサムライの精神を見事に表す道具です。モンゴルの青年たちは、満州国の軍人になって、一生懸命勉強して日本に留学します。そして、あの日本刀をぶら下げてみたい。それが彼らの夢だったのです。
これは日本の騎兵たちの習志野での訓練の風景です。
日本騎兵の訓練風景
障害を飛び越えている風景ですが、同じような訓練方法をモンゴル軍も導入していました。これはモンゴル軍の火の輪をくぐる訓練風景です。
モンゴル軍の訓練風景
私の父親もモンゴル軍の一員でしたが、わが家にもこれと似たような写真がいっぱいありました。残念ながら文化大革命のときに没収されてしまいました。
さらに、日本はモンゴルのために満州国時代に興安軍官学校をつくってくれました。
興安軍官学校
この建物の造りは習志野にある騎兵第十三連隊の本部とまったく同じです。
日本は旧植民地において、とにかく学校をつくるのに熱心でした。台湾や朝鮮半島にも、国民小学校から各種専門学校、大学まで、いろいろな学校をつくっています。
特に、興安軍官学校はモンゴルという特定の民族のための学校です。満州国軍官学校は五族協和、つまり漢民族も朝鮮人も入る学校です。韓国の朴槿恵大統領のお父さん、朴正煕元大統領も満州国の軍官学校を出ています。そして、日本に留学もしていますので、その名簿は靖国神社に残っています。
日本陸軍士官学校の名簿は五十音順ではなく、成績順です。私は朴大統領の名前を見つけようと(当時の姓名は高木正雄)探したところ、かなり上のほうにありました。成績がよかったのです(十五番目)。
日本が特定の民族のために軍官学校をつくったのは、モンゴルだけです。軍官学校は軍のエリートを育てる学校です。これはよほどの信頼がないとできません。なぜなら、軍人は武器を持ちますから、その武器を誰に向けるのかということが非常に重要だからです。日本とモンゴルは相互に信頼し合っていたので、軍官学校をつくったと言えます。
日本がつくった学校の中で、モンゴルで一番人気があったのは興安軍官学校です。ここから二千数百人が卒業して、彼らがモンゴル軍の幹部になっていきました。彼らは徹底的な日本の陸軍士官学校の教育を受けて育っていますから、一九五〇年代まで、作戦命令もすべて日本語で書いています。
戦後、モンゴル軍は中華人民共和国の人民解放軍に編入されました。それでも、しばらくは、日本式の訓練方法を維持していたのです。そのことは内モンゴルのモンゴル軍が残した『騎兵操典』の中に記録があります。
これが日本の陸軍士官学校(陸士)に留学していたモンゴル人が、興安軍官学校に帰ってくるときの風景です。
陸士への留学を終えたモンゴル兵
記録を見ると、興安軍官学校には毎年数千人の中から五、六十人しか入学できません。大変なエリートですが、その中からさらに選ばれた人たちが、日本に留学し、帰国してきたときの表情が実にすばらしいです。
写真は一つの真実を伝えます。満州国時代、あるいはモンゴル自治邦時代のモンゴル人の写真を見ていると、みんないい顔しています。私は、一九四九年以降、中華人民共和国の市民になってからの写真も集めて、研究の資料にしていますが、だんだんその顔が暗くなっていくのです。
当事者たちにインタビューしてみても、「自分の人生の中で、興安軍官学校時代、陸士時代はもう輝くように幸せなときだった」と言うのです。満州国もモンゴル自治邦も、日本の支配下にあったのは事実ですし、中には、いばった日本人もいたようです。それでも、「人生の中で最高に幸せな時代だった」と言うのが、彼らに共通した認識でした。
彼らは徹底的な日本風の訓練を受けましたが、興安軍官学校の生徒だけでなく、満州国あるいはモンゴル自治邦の普通の中学校においても、日本式の剣道などの教育が実施されていました。日本的な訓練を受けて育ったモンゴルの近代的な知識人ですが、中国では「日本刀をぶら下げた連中」と馬鹿にした言い方をします。それはモンゴルの青年軍人たちが、日本刀に憧れていたという一つの真実も伝えているのです。日本刀は崇拝の対象で、むやみに人を斬るものではないと、サムライ精神も学んでいます。つまりモンゴル人は、人を斬る武器として日本刀を学び、使ったのではありません。日本刀にこめられた人間として守らなければならない精神──正直、公平、卑しくないこと。こうした精神を学んだのです。モンゴル人本来が持っていた礼節、仁義を大切にするという精神が見事にサムライスピリッツと一致したということです。
日本統治時代に、多くの日本刀をぶら下げた知識人が誕生しています。すべてエリートです。モンゴル語のほか、中国語も、日本語も話せます。場合によってはロシア語もできます。満州国時代とモンゴル自治邦時代に、三、四ヵ国語ができるモンゴル人のエリートが育ちました。
彼らはモンゴル軍ですが、同時に大日本帝国の軍隊でもありました。指揮官が抜刀の礼をし、遥拝の礼を行っているのはモンゴル軍です。モンゴル軍の遥拝の礼
モンゴル軍は、日本軍の一員として各地を転戦し、華北の戦線ではモンゴル軍が奮戦していました。当時の新聞には、大同に入場するモンゴル騎馬軍「颯爽蒙古騎兵、彼等また日章旗の下に」と、書かれています。
颯爽蒙古騎兵
名実ともに日本軍とともに、いわば大和のサムライとモンゴルのサムライが肩を並べて戦ったわけです。
当時の精神性を表す歌もいっぱい誕生しました。たとえば、「蒙古新生の歌」は大変すばらしい詩です。その中に、「幼年校の精鋭よ」という歌詞がありますが、日本はモンゴル自治邦の中で、蒙古軍幼年学校をつくり、さらに興安軍官学校をつくりました。モンゴル人のために軍の学校を二つもつくっているのです。
たとえば、名古屋陸軍幼年学校、熊本幼年学校、仙台幼年学校などの陸軍幼年学校は、すべてヨーロッパの貴族の軍隊教育を参考にしてつくった教育制度です。幼年学校を出たら、陸軍士官学校、その上が、陸軍大学校です。日本の陸軍大学校にモンゴル人は一人入っています。
これが、一九四五年までの歴史でした。そして、一九四五年以降、日本人のサムライたちは、日本列島に帰り、残されたモンゴルは、独立しようとしました。モンゴル人民共和国という同胞の国との統一合併を求めましたが、ヤルタ協定によって南モンゴルは中国に占領させることになったので、結果として、中国の一部になってしまったのです。
日本が満州国とモンゴル自治邦に残した軍隊は、五個師団の精鋭中の精鋭でした。しかし、その半分は中国共産党に、半分は国民党に分かれて、血で血を洗う戦いが始まるわけです。そして、一九四九年に中華人民共和国が誕生し、国民党は台湾に渡ります。
一九五〇年から毛沢東は三年連続、天安門広場で閲兵式を行います。そのとき、南モンゴルの騎馬兵が天安門を通るのです。戦争が終わってからまだ五年しか経ってないので、ほとんどの兵士も指揮官も、すべて日本統治時代を経験した人たちでした。
私は当事者にインタビューしましたが、号令はモンゴル語ですべきなのに、「つい日本語が出てしまう」とみんな言っていました。作戦命令は当然、日本語です。そのうち、中国の人民解放軍の指揮官から「もう日本語を使うな」と命令されますが、日本語で受けた訓練、受けた教育ですから、モンゴル軍の頭の中の近代的な知識は日本語でできていました。そこで、「どうしても日本語で思考するので、日本語が出てしまう」と彼らは言っていました。
天安門を通ったときが、実にかっこいい。白馬連隊、黒馬連隊、黒い馬、白い馬、そして茶褐色の馬、毛色を揃えているのです。その後、彼らの一部は朝鮮戦争にも動員されました。
伝統的には蒙古の馬は背の小さな馬でしたが、近代に入って、日本と同じように急速に西洋化します。日本がアメリカとオーストラリアから導入したヨーロッパ系統の馬、それが大量にモンゴルに持ち込まれます。ソ連軍もまた大量のヨーロッパの馬を連れてきます。南モンゴルの草原でユーラシアレベルでの馬の混血が始まるのです。ヨーロッパ系の馬はお腹が細く、脚がすらっとしています。モンゴルの馬は脚が太く、寒さに強い。そして持久力がすごい。何日間連続して走っても大丈夫です。ヨーロッパ系の馬は最初モンゴルで苦労していました。というのは、彼らは軍糧、特別の飼料しか食べません。ですから、その補給が断たれると、戦馬は走れなくなってしまうのです。
モンゴル軍のロゴマークにも、日本刀が入っています。
モンゴル軍と日本刀
日本の伝統がモンゴルにきちんと残っているのです。
中国は、日本が残した五個師団に対して、徹底的な粛正、再編成をします。反中国的な思想、あるいは独立思想を持っている人は、次から次へと騎兵から追い出されていきます。これは一九五六年、モンゴル軍騎兵隊第十五連隊です。
モンゴル軍騎兵隊第十五連隊
ここに私の父親がいます。父親は満州国を経験していません。しかし、父は私以上に反中国で、思想が非常に反動的だったので、除隊させられてしまいました。
除隊させられなかったら、運命が変わっていたかもしれません。一九五八年からモンゴル軍がチベットに派遣されます。ダライ・ラマ法王が五七年から中国の侵略に対して抵抗しますが、五九年には十数万人のチベット人を連れてインドに亡命します。そのダライ・ラマのチベット人をとことん追いつめ、鎮圧していた先兵がモンゴル軍です。これは中国の「夷を以て夷を制す」、つまり少数民族を使って少数民族を弾圧するという、実に汚いやり方です。
さらに、一九六一年当時、中国軍にソ連の戦闘機が配備されている空軍がありました。しかし、ソ連の戦闘機は六〇〇〇メートル以上飛べませんでした。チベット人はインドへ逃げるために五〇〇〇メートル、六〇〇〇メートルの山々も越えていきます。そのかわいそうなチベット人を五〇〇〇メートル、六〇〇〇メートルまで追いつめたのが、モンゴル軍です。
彼らは日本型の近代文明を導入し、モンゴルの近代化を実現しようと努力しました。しかし、独立は実現できず、中国に併合されると、中国のために汚い仕事もしました。チベット侵略の先兵を務めたという点で、同じ少数民族が少数民族を鎮圧するのは悲劇です。それでも、モンゴル人はモンゴル軍を愛しています。ぜひ日本も、日本の軍人を誇りに思うように変わってほしいと思います。
日本人女性の話をします。八重子さんという方で、彼女のご主人、トグさんはモンゴル人です。これは一九六〇年代初期に撮った一枚ですが、彼女は波乱万丈の人生を送っています。
八重子さん一家
八重子さんは一九二八年、山口県に生まれ、十四歳のときに中国へ少年義勇隊として渡っています。蘇州を経由して、哈爾濱義勇隊中央病院で看護婦の勉強をして、看護婦養成所の三期生になります。
一九四五年、戦争が終わりましたが、彼女は中国共産党の八路軍の第四野戦軍の看護婦になります。なぜかといえば、中国共産党は人材が足りなかったのです。特に医者や看護婦がいなかった。ですから大量の日本人が留用人士とされて残されたのです。彼女の場合、朝鮮人の病院長から、「中国革命のために残ってください。中国革命のために蒋介石をやっつけましょう」と懇願されて残りました。そして、人民解放軍とともに国民党の軍隊と戦いながら海南島の近くまで南下します。
その途中で、同じ病院の院長だったトグさんと恋愛をします。トグさんは日本の医科大学にも留学したモンゴル人です。彼と相思相愛になって結婚しますが、八重子さんは最初、結婚に躊躇していました。トグさんが「私と結婚しないなら自殺する」と言って、八重子さんを口説き落として結婚したのです。八重子さんは一九五四年に除隊となって、内モンゴル自治区の包頭市の第二医院の医師になります。
ところが、一九六六年から文化大革命が勃発し、二年後にトグさんは暴行を受けて殺されました。日本に協力したこと、日本が撤退したあと、モンゴル人民共和国と統一合併をしたいと頑張ったことが、罪になりました。夫が殺されたあと、一九七四年に八重子さんは日本に帰ってきます。私は『墓標なき草原』(岩波書店刊)の中で書いていますが、当時ジェノサイドがありました。研究者によっていろいろ説がありますが、モンゴル人が一〇万人、あるいは五、六万人殺されています。当時、モンゴル人の人口は一五〇万ですから、五万人だろうと一〇万人だろうと、非常に大きい数字です。見事に日本統治時代を経験したエリートたちが殺されているのです。
トグさんも、その一人です。八重子さんは文革中にモンゴル人が大量虐殺されるのを家族の一員として経験しています。写真はたぶん文化大革命が始まる前の一枚ですので、子ども三人と幸せに暮らしている雰囲気が伝わってきます。『歴史通』(ワック刊)の七月号(二〇一六年)に、八重子さんの手記が出ています。これは感動的な人間ドラマですので、関心のある方は、ぜひお読みいただければと思います。
モンゴル人は日本時代を経験したがゆえに、大量虐殺を経験せざるを得なくなっているのです。つまり、モンゴル人の大量殺害は、中国が日本の過去を間接的に清算しようとして発動したジェノサイドです。背後に日本人とモンゴル人が築き上げた良好な関係があるからです。
ですから、私は最近「日本はもっと元植民地と勢力圏に積極的に関与すべきだ」と主張しています。フランスを見てください。フランスは一生懸命アラブと北アフリカの国々に関与しています。日本も元植民地、旧勢力圏に関与すべきです。フランスは戦勝国で、日本は敗戦国だからと思うかもしれませんが、そういう縮み思考は必要ありません。積極性が大事です。
隣人中国はジェントルマンではないので、日本人が縮み思考になると、尖閣諸島や南シナ海にどんどん出てきます。誰かが憲法九条をコピーして尖閣諸島に立っていれば、飛行機が飛ぶのをやめますか。軍艦が現れるのをやめますか。問題はそういう隣人ではないのです。ですから、もっと積極的に関与しなければならないと思います。関与というのは戦闘機を内モンゴルに飛ばすということではありません。これほど日本人といっしょに暮らしてきた人たちが、今どうなっているのだろうと、関心を持っていただく。そこから始まると思います。
日本が関与すべきだというのは、日本型の近代文明には普遍性があるからです。日本型近代文明の普遍性は、決してハイテクの製品、便利な生活だけではありません。価値観です。日本人の公平さ、正直さ。この価値観が日本文明を生んだ普遍性の原動力だと思います。
そして、南モンゴルが今の状況に置かれているのは、ヤルタ協定があるからです。ですから、ヤルタ協定も見直さなければなりません。実は、ヤルタ協定を見直してくれた人がいます。ロシアのプーチン大統領です。クリミア半島を併合しました。あのクリミア半島でヤルタ協定が結ばれたのです。ウクライナに属していたところをプーチンが力でもぎ取って自国領としました。これは、ヤルタ体制の見直しという前例をつくってくれたのです。ですから、私たちも戦後体制を少しずつ見直さなければならないと思います。戦後体制を見直しできたら、おそらく尖閣問題も能動的に解決できると思います。
日本の植民地だった台湾に行きますと、高雄駅とかいろいろなところに日本時代の建物が残っています。そして、台北の近くにも温泉街があって、日本時代の雰囲気を残しています。しかし、内モンゴルでは、日本時代の面影を確認するのは非常に困難になりました。
東京の池上本門寺には満州国軍の慰霊碑があります。靖国神社では戦馬が供養されています。
満州国軍慰霊碑
靖国神社の戦馬
こういう風景を見ると、心が和みます。戦馬も供養されているというのは、日本精神あるいはモンゴルにも通じる精神性の表れだと思います。
現在、モンゴル軍は解散させられ、内モンゴルにはモンゴル人独自の軍隊はありません。軍隊がないため、中国政府はモンゴル人を大量虐殺できたのです。
南モンゴルの歴史が何を意味しているかと言えば、中国に平定された民族、国家の悲劇です。中国に呑み込まれると、その軍隊は他の民族を侵略する先兵になるのです。もし、日本が中華人民共和国日本自治州になったら、日本軍はアメリカを侵略する先兵になるかもしれません。そして、最終的には武装解除され、虐殺されるという運命になってしまうかもしれません。実際、内モンゴルの歴史がそれを物語っています。
南モンゴルは独立できませんでした。しかし、半分は独立できています。それが、白鵬の国モンゴル国です。希望はまだあります。日本型の近代文明はユーラシアの遊牧民、諸民族に高く評価されています。日本の未来は、ユーラシアにあると思います。そのユーラシアに立脚した世界戦略をつくらなければならないと思います。
モンゴル人同士で一つの国をつくるというのが最高の目標です。しかし、ヤルタ協定から、もう七十一年の歳月が経ってしまいました。そして今、南モンゴルのモンゴル人は五〇〇万人弱ですが、中国人は三〇〇〇万人もいます。これはもう多数の中国人に囲まれた弱小民族になってしまっています。ですから、国際社会の大国である日本は、中国が暴走しないよう、「私たちの友人を虐待するな」と、端的にずばりと言ってほしいと思います。
中国も将来どうなるかわかりません。チベット、ウィグル、南モンゴルの問題が未解決というだけでなく、漢民族自身が中国共産党に抑圧された状況下にあるのです。共産党支配下の中国がいつまで維持できるのかも未知数です。
ただ、世界は地方自治、地方分権、民主主義という流れですので、モンゴルも連邦、高度の自治という流れに乗らなければならないと思います。
歴史戦は当分まだ続くかと思います。『歴史通』の九月号(二〇一六年)で、渡辺利夫先生と不肖私が対談しています。その中で渡辺先生が「歴史戦こそが第三次世界大戦だ」とおっしゃっています。歴史戦は、冷戦構造の崩壊と連動している部分もあると思います。冷戦は東西二つの陣営のイデオロギー上の対立という要素がありましたが、冷戦構造が終わると、イデオロギーがなくなります。すると、負けた側の中国あるいはそれに付随する勢力が、再び歴史を武器として持ち出すわけです。
彼らは、従軍慰安婦問題、南京事件などを武器として、国際社会、国連を舞台にうごめいています。それに日本がどう対応するのか。それは、日本の近代文明をどう評価するかということと連動します。そういう意味で、第三次世界大戦は歴史戦争だという指摘を私は重く受け止めています。日本人が築き上げたすばらしい日本型近代文明の普遍性が世界に広がっていくためにも、この歴史戦は勝たなければならないと思います。
櫻井われわれは、敗戦したのだから、発言する立場にないし、発言してはならないという感じで、日本国内のことだけを考えて過ごしてきました。実は、日本が大東亜戦争の中で良かれと思ってしたことが、敗れたことによって、その場に残った人たちが大変な目に遭ってきている。敗北したあとにも、やるべきことがたくさんあったのではないか。
日本はその後、経済大国として蘇りました。蘇ったのなら、なおさら、戦時中のことに思いを致し、日本文明のあり方、日本型近代文明、その日本らしいエッセンスをいかに再生していくのか。
国内だけでなく、私たちが関係を持った民族、地域の中で、いかにもう一回息づかせるか。そのことによって、何ができるのかということを考えなければならないと思います。実は、モンゴル、ウィグル、チベットの三民族に加えられている中国の弾圧は、生易しいものではありません。私は中国人がどのような方法で拷問をするのか、ある大学が熱心に研究して書いたものを読みましたが、あまりの残酷さに眠れませんでした。たとえば、針金で縛って柱に括りつけ、その前で火を焚いて、死ぬまでそうしておく。田を耕す鍬の鉄板の上に燃え盛る炭を入れ、人の頭の上に乗せて、焼き殺す。どんなに苦しいことかと思います。
このような人間とは思えないような拷問の方法が、少なくとも五〇種類はある。読んだ私が眠れないのですから、された民族はどうでしょうか。チベットの人たち、ウィグルの人たち、どれほどの人が殺されたか。死ぬまでに苦しみ抜かせ、できるだけ長い時間を費やして殺すのがよい方法だと漢民族は考え、それを実行します。
大東亜戦争で敗れたことによって、多くの問題が発生しました。私たち日本人がその半分のところに関与している。大東亜戦争は終わったけれど、私たちが関わった民族、関わった地域で、その後いったい何が起きているのか。
それを忘れないことが大切だと思いました。
ヤルタ協定は誤りであると、ブッシュ大統領も言いました。アメリカの視点から見ても、ヤルタ協定はアメリカが犯した最大の間違いだということです。若い皆さんにとっては、ヤルタ協定について考えてみるのも、一つのいい課題だと思います。