公益財団法人 国家基本問題研究所
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第五回(平成30年度) – 日本研究賞 受賞者

寺田真理記念 日本研究賞
産経新聞PDF

2018年6月14日付産経新聞に、
第5回「国基研 日本研究賞」の
記事が掲載されました。
内容はPDFにてご覧いただけます。

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日本研究賞
ロバート・モートン(中央大学教授)

「A.B. Mitford and the Birth of Japan As a Modern State: Letters Home」(Renaissance Books,2017)
(ミットフォードと日本における近代国家の誕生、邦訳なし)

受賞のことば

ロバート・モートン

 私はこのたび「日本研究賞」受賞の栄誉を賜り、大変驚きながらも深く感謝しております。この賞の他の多くの受賞者リストを眺め、さらに、昨年出版された日本に関する他の立派な書籍を考えたとき、言うまでもないことだが、私が受賞の候補者になったこと、ましてや受賞者に決まったことはとても信じられない思いでいます。アーネスト・ヘミングウェーはかつてノーベル文学賞を受賞した時、「賞を受けたことのない偉大な作家を知っている作家はだれも謙虚さ以外の思いで賞を受けることはできない」と語りました。そこで私も感激と驚き、そして感謝や謙虚さ、当惑といった気持ちを抱きながら、私の著作がどう書かれ、私がそれをどう感じているかについて少し述べてみたいと思います。

 まず最初に私の著作が明治維新から150周年記念のことし、2018年に受賞したことに格別の喜びを感じていることを申し上げたい。明治維新は私の著作の中心的出来事であり、多分日本の歴史でもそうだと思います。明治維新はいくら研究しても、し過ぎることのないテーマであると考えており、実に多様な視点から分析され、そこから新しい洞察も多く出現しています。

 私の著作は明治維新期に日本に駐在したA.B.ミットフォードという英国人外交官を中心人物として扱っていますが、彼が1866年に日本に着任し、1870年に日本を去ったことは、信じられないくらい幸運でした。もし彼がもう数年早く着任していたならば、日本はまだ西洋と意味のある交流する用意ができていなかったし、危険な状況にもあったため、その滞在経験は強い挫折感に包まれたものになっていたでしょう。他方、彼の着任がもう少し遅かったとしたら、彼はより安全でより快適だったかも知れませんが、もっと退屈なものになっていたでしょう。

 もし彼がもっと平穏な時期に日本に滞在していたとすれば、彼は日本にそれほど関与することもなかっただろうと私は考えています。彼はすばらしい機会に恵まれました。彼は将軍を含めほとんどの人が御簾の奥の天皇にしか語りかけることができなかった時代に、まだ十代だった明治天皇と向き合って立つ機会がありました。彼はまた、江戸幕府の最後の将軍(徳川慶喜)が権力を失っていくのを観察することができた。彼は武士の腹切り(切腹)を目撃した最初の西洋人グループの一人であったし、その様子も書き残しています。こうした多様な経験がなかったら、彼は中国こそがその社会的混乱や不潔さにもかかわらず、より一層刺激的な国である、という日本滞在当初に抱いていた見解のままでいただろうことも十分あり得たと思います。

 明治維新の節目を記念する本年は、この150年間に日本が遂げた発展を振り返る機会でもあります。私は、ミットフォード自身は基本的にこの発展を喜んでいると思っています。彼は技術や現代性をあまり好まなかった。後進的な日本には特異性があるからこそ、それを見ることに、より幸福を感じていました。伝統的な甲冑を身にまとった武士や異常な長さの大名行列は近代国家ではとても生き延びることはできないが、彼はそれらの伝統こそが日本を特別な存在にしている一部であるとして、大いに賞賛しました。日本がひとたびその伝統を失い始めると、もはや他の国々と同じになり、従って興味もより薄れていくことになったでしょう。彼は、すさまじい数の外国人観光客が今日、日本にやってくること、それもいとも簡単に訪問できるようになっていることには、絶対、嫌悪感を示したでしょう。彼は自分ただ一人だけ体験できることを好みました。しかし、こうした彼の立場にもかかわらず、彼は自身が見た日本の平和的な繁栄と、それをうまくやり遂げていた国民を大いに賞賛したことでしょう。

 伝記を書く作業を始める時、作者はその人物について最終的にどう感じることになるかはよくわからないものです。その人物への忠誠心を失うことは簡単だし、時にその人物をあまり好きでなくなるようなこともあります。私はミットフォードの伝記を書く作業を始めた時、果たして本当に彼について語る価値のあるものがあるかどうか大変疑問に思いました。だが、結果的に私は彼を大変好きになり、もう彼のような魅力的で興味深い人物と再び出会うことはできないかもしれないと不安になるほどでした。しかしながら、そうなれるかどうかは、著作にのめり込み、もはや引き返すことはできないようになるまでは、全くわからないものであります。

 伝記を書くことに関して最も良いひとつのことは、その人物が訪れた各地の場所に旅行できることです。伝記作家によっては作品の序言の中で、こうした旅は面倒な仕事だと思わせるように書くこともありますが、私には楽しい現地調査になります。ミットフォードは決して退屈な、あるいは不快な場所に住まなかったので、私は幸運にも訪問すべき場所には確かに恵まれました。特別景観地域にも指定され、英国で最も美しい地方のひとつであるコッツウォルズのバッツフォードにある彼の家はとりわけすばらしい環境の中にありました。彼は非常に幸運な遺産相続に伴ってこの家を建てることができたのですが、そこへの訪問は私には喜びでした。この家の現在の所有者のロード・ダルバートン氏はその輝かしい最初の所有者について熱心に語りながら、親切にも家の周りを案内してくれました。この家は一般公開されていないが、ミットフォードが造った庭園には、日本の四季の春と秋の二つの典型的な自然の目印である桜と紅葉の木々が植えられています。彼は英国で最も多様な種類の竹も植えたが、その一部は今もそこに残っています。さらに茶室や日本式の橋、小さな滝もあります。こういえば彼はまるで日本庭園を造ったように聞こえますが、実は彼は日本以外の地ではそれは不可能だと信じ、意識的にそうすることを避けていました。「われわれはそれを模倣すべきではない。なぜなら、もしそうすれば、われわれは単にそれを嘲弄するだけのことになる。竹や石や灯籠だけでは、日本庭園を造れないだろう」と言っています。

 英国のもうひとつの景勝地でもある英仏海峡に面した南部海岸地方の、沖合にワイト島を望む地、エクスべリーにある彼の父親が住んだ家を訪問した際は、少し不運でした。バッツフォードの家と同様に、この家も一般公開されていなかったが、その庭園は公開されていた。しかし、私は不運にもその中に入ることはできなかった。現在の所有者は、今の家がミットフォードの知っていた当時のものとは全く違っており、訪問する意味はないだろうというもっともな説明をしました。しかし、私としては、伝記作家にとってその人物と関係するすべての場所を訪れるのは執念みたいなものであることを理解してほしいと言いたかったのです。ひとつの場所について書くには、他人が描写した本の中からだけでは十分知ることにはなりません。その人物が経験したことを経験する必要があります。その場所が今はなくなっていても、残っているものから何らかのヒントが得られます。ロンドンの中心地、メイフェア―地区のミットフォードの生誕地には今は何も立っていません。しかし、その場所を訪れると、反対側に当時の国王の弟が住んでいたマンションが立っており、そこが非常に高級な場所であることを教えてくれます。このことと彼の家族が金欠状態にあったという知識を重ね合わせると、外見を取り繕うために懸命に苦闘している人の様子が浮かび始めます。けれども、この種の推定には危険性もあります。ミットフォードがよく夏を過ごした地であるフランスのノルマンディ地方の海岸にあるトルヴィルを訪問した時、その場所の豪華さに感動しました。その地は華麗な映画祭や2011年の主要国首脳会議(G8)の開催地として知られているリゾートのドーヴィルに隣接しています。とはいえ、ミットフォードの家族が訪れていたのはパリまでの鉄道が建設される以前のことであり、当時その地は単なる漁村でしかなかったのです。もし私がその地の印象を今日の姿に基づいて形成していたら、大きな間違いを犯すことになったでしょう。可能な限り多くの情報を見つけ、その人物と同じ経験をするよう試み、できるだけ正直かつ完全な形で実像を描けるようにする必要があります。私は著作の序言の中で、「伝記を書く時、発見したものの90%はそこに入らない。問題は残り10%の不可思議なことは現地を訪ね、情報源からそれが何なのか読み取らなければならないことである」と書きました。しかしながら、私はその考えを変えました。実際はすべてのことが伝記の中に入ります。たとえ、そうしなくとも、その人物のより全面的な、より本当の実像を描くのに役立つのならば、どんなことでも重要になります。

 本質的に伝記とはいわば容認されたお節介の形であります。何か隠されているものを見つけようとして必死にその人物の極めて個人的な文書を渉猟することもあります。伝記の対象となる人物は関係者の徹底的な調査によって、多くの秘密を墓場のさらに先まで保ち続けることは難しいでしょう。その点ミットフォードは自身の秘密を保つことに大変上手でした。でも、そんなことは誰にも分らないし、私はいくつかの大きなことを見逃しているのかもしれません。しかし、われわれは彼のアーカイブにあった日本語で書かれた二通の手紙から彼には日本人女性の愛人がいて、子どもももうけていたことを知っています。彼は明らかにその秘密を懸命に隠そうと努め、容易にそうできたでしょうが、このことは彼の日本滞在に関する重要な一面を示しています。残念ながら、こうした興味をそそられる情報は単に更なる数々の疑問を投げかけることになるだけです。トミという名前の愛人女性やオミツという名の子どもはその後どうなったのだろうか。ミットフォードに彼女らを経済的に支援する方法があったのだろうか。彼は1906年に一度日本に戻っていますが、その時、(多分すでに30歳代後半になっていただろう)オミツやその母親と会ったのだろうか。こうした答えるのに難しい疑問に直面した時、伝記作家ができる最善のことは、同じような状況に置かれた他の人々の物語に基づいて推測をすることです。そうすれば、当時違法な密通によって生まれたオミツの人生は決して楽なものでなかったことは多分に確実だということになります。母親のトミもミットフォードの法的手段によって子どもの親権を奪われてしまったのです。そのような同じ状況にあった当時の多くの女性たちは恥と汚名を着せられるのを避けるため、子どもを殺し、自身も自殺をしました。

 他の点では、ミットフォードは伝記作家に非常に親切だったといえます。というのも、彼は日本から驚くほど多くの手紙を父親に送っていたし、その文面はどれも退屈や平凡なものはなかったからです。彼はしばしば誤解や間違った考えに基づいていたものの、いろいろな行事について独自の特異な見解を示し、常に興味深い内容に仕立てあげました。彼の日本についての見解はむろん、彼の経歴によって大きく彩られています。ある意味で彼はその時代と階級に相応じた典型的な人物で、英国政治に関しては非常に保守派でした。しかし、彼は日本で虐げられた人々に対する同情心を持つようになりました。また、彼は日本文化のように伝統に縛られ、洗練された文化が西洋の影響を受けることは必ずしも良くないと考えるようになっていました。彼は部外者としての新鮮さを持ちながらも、無知な手法に基づいて、日本に対し馬鹿げた観察をすることがいかに容易なことかをすぐに学びました。彼が偉大な記録者、観察者でもあった何人かの仲間を持っていたことは幸運だったし、われわれとしても彼の話とその仲間のものとを比較することができます。外交官仲間の中でも最も重要なひとりの人物はアーネスト・サトウです。サトウは彼より年齢も若く、地位も低かったが、日本語の口語も文語も驚くべきレベルまで習得し、有益な交流関係を育てる不断の努力をして、日本に関する深い知識と理解力を持つようになっていました。ミットフォードは自分の前にサトウというお手本がなかったならば、日本語を学ぶというような努力をしなかったかも知れません。より重要なことは、サトウの存在があったからこそ、彼は日本の文化や国民をあれほど早く理解できるようになったということです。ただ彼は同時に自分独自の意見にも固執していました。だから日本を尊重し、自分の条件で日本を受け入れるようになるまでには時間がかかりました。

 もともと私はミットフォードの全生涯の伝記を書こうと出発しました。つまるところ、彼は英国で最も有名なひとつの家族の祖父であったからです。彼には“ミットフォード6姉妹”として名を馳せた孫たちがいて、そのうちの4人はベストセラー作家となり、2人はドイツのナチ体制を信奉してヒットラー総統と親交を結び、悪名を流しましたが、いずれの女性たちも波瀾万丈の人生を送りました。ミットフォードの息子、つまり彼女たちの父親はその娘たちのだれかについて新聞に何が書かれるかに怯え、毎日、新聞を開くことを恐れていました。この6姉妹については多角的に分析されたその業績も含んだ多くの伝記本が出版されています。しかし、この家族の系譜の中で、もっとも卓越した人物であるA.B.ミットフォードの伝記はありませんでした。問題は日本滞在期以外の彼の人生の記録がほとんどないことです。孫の6姉妹同様に、彼にも品位のあるビクトリア朝時代の仮面に隠れたスキャンダルがあったらしいヒントは存在しましたが、彼のアーカイブはほとんど何も明らかにしてくれませんでした。誰かがアーカイブを探索し、興味深いものをすべて持ち去った感じがあります(それが起こった可能性は高いと思います)。残されているものは、ほとんどまとまりのない文書の束だけで、真に価値のあるものは皆無です。

 私はそのために彼の人生で最も刺激的な日本滞在時代の経験に焦点を当てた伝記を書くことになりましたが、とりわけそれが今回の受賞となったことで、ひとしおの喜びを感じています。正直にいえば、日本体験に比べると、彼の行ったそのほかのことはおおむね平凡なことでした。今回の(受賞という)素晴らしい結末に至ったのは、不運に思えたことが幸運に変わったケースも含め一連の幸運な出来事の一部であったと思います。私の著作活動はジェットコースターに乗ったような冷や冷やの経験でしたが(行うに値するほとんどのことは同じだと想像しますが)、この著作を書くたことで私は多くを学びましたし、大きな喜びと達成感も与えてくれました。人々が、私のヒーロでもあるこの本の人物を注目し、明治維新を新鮮な光に照らし、改めて考えて下さるようになれば、と期待しています。多くの人がこの本を読み、私への今回の偉大な栄誉の授与が適切だと考えて下さるならば、表現のしようもなく幸福に思います。

略歴

 1965年生まれ。2000年から中央大学教授、それ以前は慶応大学の客員教授だった。英国のサセックス大学で歴史学学士、同ヨーク大学で応用言語学修士、さらにオーストラリアのクイーンズランド大学文芸創作課程で博士号をそれぞれ取得した。学習分野は直線的ではなく、バラバラで、美空ひばりが「川の流れ」で歌うように、でこぼこ道や曲がりくねった道だらけである。しかし、中央大学の支援のお蔭で、当初の目標である歴史、特に伝記を通して人生を探求するという天職を得ることになった。
 日本で最も歴史ある学術誌である日本アジア協会誌の編集長を2001年から続けており、2010年からの一年間は同協会会長をも務めた。明治天皇とビクトリア女王の関係について第24回秩父宮妃記念講演を行った。
 ベネディクト会修道院の驚くべき世界と修道僧の伝記 The Six Lives of Father Neal Lawrence日本アジア協会誌第四号、第21巻、2007年)を著した。英国の19世紀の歴史については多くの著作活動を行ったが、その中にはウエリントン侯爵やウイリアム・グラッドストン、ベンジャミン・ディズレーリについての作品もある。著者が特に興味を持ったのは、彼らとビクトリア女王との交流である。
 さらに、日英伝記シリーズには、ミットフォードと、彼が日本在任前半時代の外務大臣だったスタンレー卿、友人の一人であるヘンリー・ケッペルの3人の短い伝記を寄稿した。また、ジャパン・ソサエティが発行する British Foreign Secretaries and Japan,1850-1990:Aspects of the Evolution of British Foreign Policy の中のクラレンドン卿(ミットフォード在日後半時代の外相)の章を担当した。
 アーネスト・サトウの専門家であるイアン・ラクストンとは、サトウの日記を注釈付きで共著出版した The Diaries of Sir Ernest Mason Satow1861-1869 (2013年ユーリカ)。
 サトウは日本におけるミットフォードの親しい仲間であり、そのサトウの記述に親しんだのが本を書くうえで最も役立ったことの一つだった。最近、似たような著作、Interesting Period of Japan’s History:PrivateLetters from Sir Harry Parkes to Edmund Hammon, 1865-1868 を脱稿した。今年中にユーリカから出版される予定だ。パークス卿の書簡は、ミットフォードのようには面白くない、というのは、卿にはユーモアがないからだ。しかし、卿は疑いもなく、指示する重要な立場にある。その時代を研究する学者に役立つだけでなく、私がパークス伝を書くのにも資すると思っている。ミットフォードの本については、どんなものになるか、まだわからない。調査はほとんど終わっている。後は、このレンガの山から、どんな納得のいく家を建てられるかだ。日本研究賞を受賞したことで自信が深まり、今や成功すると感じるようになった。


日本研究特別賞
崔吉城(東亜大学教授、広島大学名誉教授)

「朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』」(ハート出版、2017)


受賞のことば

崔吉城

 「賞」には縁のない私にとって日本研究特別賞はサプライズである。私が日本留学をしてから日本学の教員になって反日感情にぶつかり、困ったことを思い出す。親日派とされ、私は反日を研究するようになり、そして日本植民地史を研究するようになった。つまり「反日」との戦いであった。私は完全な親日でも反日でもない。中立、客観的な態度を守っている。味方をしない。敵対もしない。両方から嫌われ、非難されることが多い。日韓スポーツ競技はどちらかの側に立って応援しながら観戦した方が楽しいだろう。しかし研究ではそうはいかない。

 私は38度線に近い所に生まれ朝鮮戦争の激戦を体験した。朝鮮戦争で北朝鮮人民軍が侵攻した、人民共和国時代には「金日成Kim Il-Sung将軍様の歌」を歌い、韓国時代には復讐の殺人を見、中国支援軍下では防空壕生活をした。再び国連軍の進撃、激戦の中、私の村は悲劇化、性暴行と売春村になった。この状況で父が亡くなりソウルSeoulへ転学、そして大学、陸軍士官学校の教官、日本留学、50才まで予備軍の義務を完全に終了後、日本に居を移した。その私を親日、非愛国者だと言う人には腹が立つ。こんな私が慰安婦問題を避けるわけにはいかない。本賞によって『慰安婦の真実』が正しく評価されたことに喜び、受賞に感謝する。

略歴

 1940年 韓国・京畿道生まれ、国立ソウル大学師範学部を卒業。高麗大学で修士、民俗学専攻。陸軍士官学校教官、文化広報部文化財委員会常任専門委員を経て、1972年 日本に留学、東大で文化人類学、成城大学で常民文化・民俗学専攻博士課程修了、1985年筑波大学で「韓国巫俗の社会人類学的研究」で文学博士号を取得。韓国・啓明大学校で教授、啓明大学校日本文化研究所所長を経て来日。日本では中部大学、広島大学を経て、現在東亜大学教授、東亜大学東アジア文化研究所所長、広島大学名誉教授。専門は文化人類学。
 主な著書としてはシャーマニズム研究から『恨の人類学』(平河出版)、『哭きの文化人類学』(遊学叢書)『韓国のシャーマニズム』(弘文堂)、日本植民地研究としては『親日と反日の文化人類学』(明石書店)、『日本植民地と文化変容』(御茶ノ水書房)、『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか』(ハート出版)『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』(ハート出版)。韓国では『日本学入門』(啓明大学校出版部)、『親日と反日』(多楽園)『植民地歴史を正しく見る』(民俗苑)『映像が語る植民地朝鮮』(民俗苑)
 1999年日本に帰化した。