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2023.03.07 (火) 印刷する

【詳報】 国基研15周年記念対談「国基研の15年と安倍総理」

国基研15周年記念対談/令和5年1月6日

国基研15周年記念対談「国基研の15年と安倍総理」

15周年を迎えた国家基本問題研究所。理事長と副理事長がその歩みを振り返り、次の15年で、国基研が果たすべき役割について語った。

略歴

櫻井 よしこ(さくらい よしこ)

国基研理事長
ハワイ大学卒業(アジア史専攻)。クリスチャン・サイエンス・モニター紙東京支局員、日本テレビのニュースキャスターなどを経て、フリージャーナリスト。平成19年(2007年)に国家基本問題研究所を設立し、理事長に就任。大宅壮一ノンフィクション賞、菊池寛賞、フジサンケイグループの正論大賞を受賞。「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会(通称、民間憲法臨調)の代表を務めている。著書多数。最新刊は国基研副理事長 田久保忠衛との共著 『宿命の衝突』 (ビジネス社)

田久保 忠衛(たくぼ ただえ)

国基研副理事長
昭和8(1933)年生まれ。早稲田大学法学部卒。時事通信社でワシントン支局長、外信部長、編集局次長などを歴任。杏林大学社会科学部教授(国際関係論、国際政治学)、社会科学部長、大学院国際協力研究科長などを経て、現在名誉教授。法学博士。国家基本問題研究所副理事長。 正論大賞、文藝春秋読者賞を受賞。産経新聞社の「国民の憲法」起草委員会委員長を務めた。 著書は『戦略家ニクソン』『米中、二超大国時代の日本の生き筋』『憲法改正、最後のチャンスを逃すな』など多数。

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国基研15周年記念対談「国基研の15年と安倍総理」

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安倍さんが並走

櫻井よしこ 今年、令和五(二〇二三)年はどんな年になるか。私は国家基本問題研究所(国基研)はまさにこの一年のために創設されたと思ったりします。なぜなら今年、日本は戦後最大の危機に直面し、日本国の在り方を根本から変えなければいけないからです。台湾有事という「戦争が起きる可能性がある」という大前提に立って、戦略、戦術を考えなければいけない。課題は相変わらずすごく多いけれども「その分もっと働きなさい」と私たち国基研が神から促されているような、そんな奮い立つ気持ちで私は新しい年を迎えました。

国基研は十五周年を迎え、活動内容、役割は確実に充実し、目指すところとその意味はより明確になっています。国基研を立ち上げた時のいちばん大きなテーマは憲法改正でした。憲法から生まれる外交と安全保障、日本国の抱える問題に対しての私たちの提言は広く知られてきました。その意味において「国基研ここにあり」という存在感はいよいよ増して、より重い責任を感じています。

田久保忠衛 代議士が選挙に出るとき、「地盤、看板、カバン」が必要だとよく言われますが、国基研は無一文で立ち上がったわけですよね。私は今のような働きをする国基研になるとは当時、夢にも考えなかった。せいぜい数年なんとか続けていきたいということで頭がいっぱいでした。十五周年は一つのけじめの年で、これまでにつけた実力をもって、この後の十五年で大きく羽ばたく重大な節目に我々は立っているのかなと思います。

国基研は創設された当初から米中印、そして日本という大国間外交の視点を持っていました。具体的には平成二十二(二〇一〇)年のシンポジウムでいちばん最初にインドを引き込みましたね。今でこそ誰もが「インドは重要だ」と言うけれども当時は違った。どう対応してよいかわからないような複雑極まる大国間外交の中で我々は少しずつ手探りで考え、歩みを進めてきた。でも今や日本政府の意思ははっきりしたのではないですか。感慨無量です。

大きなことを言うようだけれども、十五年間、安倍晋三さんは国基研と並走してくれたと思っているのです。我々は安倍さんに盛んに憲法改正を要求しましたし、安倍さんと共にインドと交流しました。やはりこの十五年間を振りかえる時、関心を寄せるべき、評価すべき政治家は安倍さんであったなあ、と思います。安倍さんと同じようなランニングでトラックを周ってきて、ようやくここにたどり着いたなという気持ちです。櫻井さんが安倍さんと親しかったから連動していたかなとも思うのですけれども。

櫻井 平成十九(二〇〇七)年に安倍総理がインドに行かれて「二つの海の交わり」という素晴らしい演説をなさいました。その後、二〇一〇年六月四日に国基研は、シンポジウム「インド洋の覇権争い―二十一世紀の大戦略と日米同盟」を早稲田大学国際会議場で開催しましたね。その年は日米安保改定五十周年だということで他のシンクタンクは日米に焦点を当てていた時に、私たちは日米印中という四カ国の代表を集めて国際シンポジウムを開いた。そして翌年二〇一一年の九月十九日から二十三日には、安倍総理と一緒にインド(ニューデリー)を訪ねて、インドの首相や国防大臣と面会しました。安倍総理は私たち、訪印団の代表でした。

田久保さんが仰った大国間外交の視点とは、言い換えれば日本の「国家戦略」を考えるということです。国基研が「国家戦略」に焦点を当てることができたのは、田久保さんのご指導ゆえです。田久保さんがよく言われるように「戦略なき戦術という罠に落ちないように」と研鑽を重ねてきたと感じますね。大きな視点から日本国を眺めなければ、正しい道に進むことはできないということです。

今、とりわけその視点が大事な時です。戦後の秩序が破壊され、新しい時代に入る大国間関係の中で、真の意味での日本の戦略をどのように考えていくべきなのか。その視点を提供するのがおそらく私たち国基研の重要な役割の一つだと感じます。これは安倍総理の地球儀を俯瞰する外交と重なります。

最初にインドを

田久保 二〇一〇年の当時、インドを引き込んだシンポジウムを具体的にどう実現させるか。これはもうお亡くなりになりましたが、産経新聞の住田良能社長(当時)に相談しました。すると「どうしてインドという発想が田久保さん、浮かんだの。国基研というところは何をしようとするの」と彼は非常に驚くと同時に敬意を表してくれました。

そのシンポジウムには、今やあちこちに引っ張りだこのインドの優れた国際政治学者であるブラーマ・チェラニー教授(インド政策研究センター)、日本通の楊明傑さん(中国現代国際関係研究院副院長)、それからマイケル・ピルズベリーさん(米国防総省顧問)を招いて、櫻井さんと私がジョインしました。

ピルズベリーさんについては、もう言うまでもないだろうと思います。彼の世界的なベストセラー『The Hundred-Year Marathon(百年マラソン)』(二〇一五年刊。邦題は『China 2049』日経BP刊)が出版されたのは、このシンポジウムの五年後です。

五年後にピルズベリーさんはこの本を書いて世界中が大騒ぎになった。彼は本ではじめて告白するわけです。中国と仲良くしてソ連を封じ込めるということが自分の頭の中に終始あった、これはニクソン政権以来、一貫して自分が歩んできた道だけれども、突如として、自分は騙されているのではないかという天の言葉みたいな閃きに目を覚まされて本を書いた、と。「過去百年に及ぶ屈辱に復讐すべく、中国共産党革命百周年に当たる二〇四九年までに、世界の経済・軍事・政治のリーダーの地位をアメリカから奪取する」とする中国の計画「百年マラソン」に騙されてはいけないという中国批判の本です。

でもこのシンポジウムの時には、彼は国防総省顧問だったので何も言えなかった。楊さんは独裁国家の研究院の副院長なので何も言えないことはわかっています。けれども、このシンポジウムが関係者に与えた衝撃は、私は大きかったのではないかと思います。

そしてこれが安倍さんと連動し、見事に安倍総理の時代になって実を結んだ。安倍さんの考え方をアメリカのトランプ大統領が借用したのです。我々は民間のシンポジウムとして最大限のできることをしたのではないかなと思います。それはもちろん安倍さんにも影響を与えたし、その波はアメリカ大陸まで押し寄せていって、米国を中心とする大戦略にまで波及したのではないかと自画自賛しています。我々が誇っていい大シンポジウムだったし、これがいかに重要であったかは今、もう一度紹介してもいい。

戦略としての人権問題

櫻井 そうですね。それからもう一つは、今、世界中で人権という要素をなくしては経済も政治も外交もありえないわけですが、私達は中国の人権侵害について、他のどのシンクタンクよりも先に問題提起をしました。

二〇一二年にチベット亡命政府のロブサン・センゲ首相をお招きして、憲政記念館でのシンポジウム「アジアの自由と民主化のうねり―日本は何をなすべきか」を開催しましたね。ロブサン・センゲさんの他にはドルクン・エイサ・世界ウイグル会議事務総長(当時、現・世界ウイグル会議総裁)、オルホノド・ダイチン・モンゴル自由連盟党幹事長、そして田久保さんと私が出席しました。今は多くの政治家の皆さんがチベット、ウイグル、モンゴルを応援するようになりましたが、この時、初めて憲政記念館で三民族が集うシンポジウムを行ったのです。当時、自民党はまだ野党だったわけですけれども、安倍総理をはじめ多くの政治家の方が参加されました。

私たちは民間の団体として非常に鋭くこの問題を提起してきましたけれど、残念ながら日本政府は中国に対してまだ表立って人権を守りなさいと要求できていない。これは日本国の弱さだと思います。私たちは目指すべき方向性を、国内では一番先取りしてきたという自負があります。

日本国の歴史に鑑みれば、私たちの国は人権を非常に大切にしてきたという実績がある。その価値観は私たちの中に深く染み込んでいます。ですから私たちのシンポジウムは国際社会の潮流に合わせるという意味ではなくて、むしろ日本は日本の国柄を踏まえて国際社会の潮流を先導すべきだという問題提起だったと思います。

田久保 先に紹介した早稲田大学でのシンポジウムの年に我々はインドに行きましたが、その翌年には実はチベット亡命政府の拠点であるダラムサラまで行ってるわけです。私はその時、体調を崩してデリーにとどまりましたが、訪問団は皆、一様に目を輝かして帰ってきた。ダラムサラで見たチベットの人たちにじかに接し実態に感銘を受けたんでしょうね。この体験は我々の言動の中に大きく広がり今日に至っていて大きな推進力になりました。

我々は戦略問題を研究し、それに関連して戦術問題を研究しています。では「戦略」とは何か。私は政策の上にある大きな哲学的な意味のあるものが「戦略」だと思うのです。人権問題は優れて「戦略」であって、いかなる独裁国家もこれを言われることを非常に嫌がる。「嫌がれば嫌がるほど、これを言うべきである」ということに遅まきながら気が付きました。拉致問題など地域的に限られた政策が続けられてきましたが、大本の戦略が人権問題です。これに我々は日本の中ではいち早く取り組んだということは、いくら強調してもいいと思いますね。

実際に二〇〇八年には、我々は初めて韓国に行きました。拉致問題も新しい見地から取り上げるようになったということです。

初の海外訪問団派遣

櫻井 二〇〇八年の七月十日から十三日まで韓国(ソウル)に行った時のことを今でも鮮明に覚えてます。国基研として初の海外訪問団派遣でした。

その時、韓国の人たちに「日本の保守的なシンクタンクの皆さんは朝鮮半島が永久に分断されていることが良いと思っているのではないか」と言われたわけです。私たちは「そうではなくて、朝鮮半島が韓国の掲げる自由と民主主義の旗の下に統一されることが日本の国益であり、より良き日韓関係の発展のためになる。私たちはむしろ分断されている朝鮮半島の現状を非常に危惧してるんだ」と言いましたよね。そして「韓国が掲げている立派な民主主義、法治国家としての立場を守りながら統一を進めてほしい。そのための応援をするんだ」と言ったことを今でも鮮明に覚えています。

それは今も変わらない。朝鮮半島と私たちの価値観に基づいた協力関係を強化していくことが日本の国益でもあり、韓国の人たちの幸福でもあるというふうに思います。

田久保 そうでしょうね。おそらく韓国の人たちは分断政策を問題にしていたんだろうと思います。南北を分断して統治する “divide and rule” というものですが、でもこれは「分割統治」という中国の戦略ですよね。日本人は「当面、朝鮮半島を分断して、両方を抑えるんだ」なんて、そんな実力もないし、考え方もない。しかも「分割統治」は実は「戦術」だと私は思います。私たちの本当の戦略「中国に対する民主主義国家の大きなブロックができる。我々はそこと仲良くしていく」というものを、この韓国訪問で触れた人々に気づかせることができたのではないかと思います。そういう意義はありましたね。

櫻井 共有すべき土台を示したという意味で非常に有意義だったと思います。

日本研究賞の功績

田久保 シンポジウムで、アーサー・ウォルドロン教授(ペンシルベニア大学)を呼んだ時があったでしょう。

櫻井 平成 二十六(二〇一四)年十二月二十五日に行ったシンポジウム「戦後七〇年―国際政治の地殻変動にどう対処するか」ですね。ウォルドロン教授の他、インド政策研究センターのブラーマ・チェラニー教授、田久保さんと私が登壇しました。日米中印の四カ国のシンポジウムで、中国側から時殷弘さん(人民大学教授)が来ることになっていたのですが、日本に来られるという前々日の夜遅くにドタキャンされた。

田久保 そうです。飛行機に乗れなくなったとメールが来た。

櫻井 それは嘘なんですよ。

田久保 そう。ウォルドロン教授を呼んだシンポジウムがなぜ重要かというと、その事件のことではなくて、ウォルドロン教授は「マクマリー覚書」を書籍『平和はいかに失われたか』として出版しました。邦訳は北岡伸一さんの監訳で原書房から出ています。マクマリーは昭和初期の北京公使(いまの大使)ですが、彼がなぜ重要か。当時、ほとんど全部の国が、アジアを代表するのは中国だと言っていたのですよ。でもマクマリーはそうじゃない。日本だと。この国(日本)は時々行き過ぎがあるけれども、名誉とそれなりの責任を与えると必ずいい方向に向かう。我々の友人はむしろ日本だよということを言った。この覚書は潰されてしまいますが、その経緯が『平和はいかに失われたか』に書かれています。

国基研がなぜウォルドロン教授をシンポジウムに呼んだかと言えば、今でもアメリカの対日政策は日本を好きなグループとそうでないグループに分けているからです。アメリカにはチャイナスクールとジャパンスクールがあるのですよ。たまたま日米関係は今、いい方向に進んでいるけれども、また時計の振り子が逆に振れると日本派が少なくなって、チャイナスクールが出てくるのです。この原理原則を我々は学んだということで、このシンポジウムには意義があったと思います。

それからもう一つ、国基研は「国基研 日本研究賞」を毎年出しています。これは平成二十六(二〇一四)年に寺田真理さんから百万ドルのご寄付をいただき「寺田真理記念 日本研究賞」として始めたもので、平成二十八年から名称変更をしました。

寺田さんには何回でもお礼を申し上げたいと思います。というのは、我々の活動がこの日本研究賞のおかげで文明、文化、伝統、それから歴史に大きく広がってきたからです。国基研に集う人たちの中にも、例えば平川祐弘先生や福田逸先生、伊藤隆先生と文人的な感性を持ったインテリが非常に増えたというのもこれまた疑いない事実だろうと思います。

櫻井 外国の方が日本に関わる研究を自由な形でなさったものに対して評価をする奨学制度を作ったのは素晴らしいことだと思います。このような相互の理解を進める、しかも高いレベルでの理解を進めるのは日本国の力にもなります。

アジアは日本と中国という二つの大国が、ある意味で覇を競うわけです。私はどのような角度から考えても、日本国の方が人類の幸せに大いに貢献できると信じていますし、中国的な世界を作らない、作らせない、私たちは決してそれに屈しないという意思表示をする一つの具体的行動が、この日本研究賞であろうかと思います。

田久保 こういう大きなプロジェクトが次から次へと実を結んでいる、この原動力はやはりお金があったからだと思います。そのお金は事実上理事長一人が大活躍して集めているわけですが、これが続かないと困るので、どうぞひとつお続けいただきたいと思います。

櫻井 頑張ります(笑)。

意見広告に大反響

田久保 運営資金で特筆すべきなのは、二〇〇八年五月六日に初の意見広告「内閣総理大臣福田康夫様」を出したことです。当時、国基研は髙池勝彦弁護士(国基研副理事長)の事務所と同じビルに入っていました。意見広告を出した時、髙池弁護士から電話がかかってきて「とんでもないことが起こった」と言うのです。その日は振替休日でしたが、髙池君は翌日の仕事の資料を事務所に取りに来て「今日は産経新聞に大きく意見広告を打ったから何か反響でもあったかな」と国基研の事務所のドアを開けた。すると廊下が白一色になっていたという。「えっ!?」と思ったらそれは全部ファックス用紙だったのです。その日に中国の胡錦涛国家主席が訪日し新聞の一面トップはみな「胡錦涛」ですよ。そこで我々が福田さんの土下座外交はけしからんとやったものだから衝撃を与えたのでしょう。

櫻井 今でも意見広告の冒頭の文章を覚えています。

「媚びへつらいは、外交ではありません」と書きましたね。

田久保 そうそう。白いファックスの紙は入会申込み用紙でした。それで一気に一人一万円の会費が数千万円分も集まったのです。我々にとっては本当に驚天動地の出来事でしたが、でも主張すれば何らかの反応はある、反応してくれる人はいるのだとつかんだ。そういう意味で大きな意味があった。

櫻井 世論に働きかけて、あのように千人単位の人々が国基研の会員になってくださるということは、非常に大きなことだと思います。それが私たちの財政基盤になっていく。国基研が誇るべき点の一つは、会員の皆さん方の会費で全てを運営しているということです。会員の皆様の寄付というご厚志によっていろんなプロジェクトも成り立っています。業界や政府のお金は今まで一度ももらったことがありません。これは健全なシンクタンクのあり方で、これからも続けていかなければいけないと思います。

なぜ政官業界からお金を貰わないか。私たちは常に政治と協力はするけれども、阿ることはしない。政治を導くことはするけれども、政治によって私たちの道を変えることはしない。いつも日本の価値観や保つべき資質を大事にして、私たちが考える日本の国益を中心軸に据えて政策提言をしていく。それが時の政権と合えば良し、合わなければ第一回目の意見広告のように、政府や権力に対しても物を言うということです。

この姿勢が私は非常に大事だと思うのです。つまらないところで政権批判に明け暮れる野党とは違って、私たちの政権批判はあくまでも国益に叶うかどうかが基準になっている。それに反するような言動を私たちは今まで一度もしたことがないと思いますので、それは密かな誇りとなって私たちを支えていてくれると感じています。

田久保 その通りで、我々の大きな特色の一つは財政的にどの団体にも、ましてや国家にもお世話になっていないことです。依存する財源の場所はどこにもありません。仮に政府から補助金が出れば、受け入れるかどうかは大きな問題になってくると思います。

なぜなら是々非々は一番重要なことだからです。戦後の日本は左翼の全盛時代で、徐々に徐々にノーマルになりつつある。ですから我々が政府の側に立ってもこれは正論だったわけです。ところが健全な野党が出てくるとします。すると必ずしも今までのような姿勢でいいのか、ということになってくる。あるいは国益を守ると言いながら、悪い政策をやるであろう政党政治が出てくるかもしれない。この時、我々は毅然たる態度をとらなければならない。だから、できれば硬直した純粋さだと言われようがなんと言われようが、私は資金の面では清潔な出所を心から望みます。これからもそれを続けていかなければいけないと思います。

十一年早かった意見広告

櫻井 意見広告ではこんなこともありましたね。二〇一一年に「3・11」がありました。千年に一度の大地震で、その結果、大津波によって記憶に新しいあの福島第一原発事故という惨事が生まれたわけです。日本は民主党政権、しかも菅直人さんというとんでもない総理大臣を戴いていた中で、原子力発電を科学的ではなくイデオロギーを根拠として、次々に全部止めてしまいました。

それから約半年後、私たちは「選ぶべき道は脱原発ではありません」という世論に逆行する意見広告を出しました。その反応を今でも私は覚えています。わずか五、六人くらいしか会員になって頂けなかった。その時、なるほど今、原発の必要性を説くのはメデイアや政治家においてもタブーなのだな、国民もそれにはまったく関心を示しておらず、むしろ反原発で凝り固まっているのだと痛感しました。

でも私は、その時に国基研が多大な予算を使って意見広告を打ったことは誇りにしてよいと思っているのです。あれから十一年が経ってみて、ようやく原子力発電の必要性がオープンに語られ、今や原発の再稼働だけでなく新しい原発の必要性まで堂々と各新聞が社説で書くようになりました。

私たちの意見は十一年早かったわけですが、正しかったということです。当時、なぜ私たちがその意見広告を出したか。一つには科学的な見地からで、もう一つには国家のエネルギー戦略を考えた時、日本は原発なしにはやっていけないと分かっていたからです。当時、資源小国の日本にとって原子力発電がいかに大事かという全体像の話をしましたね。

もう一つ、私たちが注目したのは、あの3・11によって台湾などは原発を止めましたが、中国をはじめとする大国は原発の技術を高めていかなる地震も津波も乗り越えようという強い国家意思を示し、その方向に進んでいったことです。

日本はあの場面で総理大臣が菅直人さんだったという事情があったとはいえ、やはりメディアや政治家は日本の国力について真剣に考える必要があったと思います。そのための知的能力と国民を説得する政治的な勇気を、わが国の政治家は持たなければいけないと痛感し、今も同じように感じています。それらの必要性を指摘するという意味で、当時、国基研が苦言を呈したことは私たちの誇りだと思います。

田久保 あの原発に関する意見広告は、少数意見は必ずしも間違った意見ではないということが分かったという意味で、我々にとって大きな事件だったと思います。

3・11で、自衛隊と災害がテーマになりました。自衛隊に関して言えば、日本全体が自衛隊は災害派遣をしなければならないというムードになってきたのです。これは大変な行き過ぎであって、我々は国軍は防衛に全力投球すべきで災害要員にしては駄目だと主張しました。吉田茂は大磯に引退した時に口を極めてこの点を強調したのです。それまでの日本は自衛隊を日陰者のように扱う大きな行き過ぎがあったけれども、今度は逆の行き過ぎも出てきた。これを中間に戻す大きな一役を我々は買ったのではないかと思います。

原発に関して言えば、台湾やドイツのメルケル首相のように、災害が起こったからといって即、政策を変えてしまうのは物事の原理原則を知らない人たちなのではないかと思います。重要なのは原子力発電はエネルギーの中でどういう意味を持っているのか、です。エネルギー政策は人災だけで良い悪いを論ずるような問題でもなくて、もっと永遠性を秘めたものではないかなと思うのです。

3・11の当時、原発に賛成だなんていう人がいましたか。私はいなかったと思う。そのような中でNHKや民間放送を見ていたら、ただ一人、学者の中で少数意見で叩かれながらも「それは違います」とはっきり言っておられたのは奈良林直さん(当時・北海道大学大学院教授、現・東京工業大学特任教授、国基研企画委員)なのです。私はその議論を感慨しながら手帳にとっておいて、奈良林先生に御参加いただいたのです。それから奈良林先生が国基研に来られて、果たされた役割というのは少なからぬものがあった。今、岸田政権になってこれを無視できなくなりました。いくら誇っても誇りすぎることがないのはこの問題じゃないかなとすら私は思っています。

国軍のソフトウェア

櫻井 二〇二三年の今は防衛三文書もできて自衛隊の強化が予算編成を伴う形で具体的に議論されています。その自衛隊は何のために存在するかと言えば国家と国民を守るためです。そのためには自衛隊員の士気も重要ですが、私たちの軍隊に対する視点も変えていかなければならない。3・11でもその前の阪神淡路大震災でも国民の見方は変わったわけですが、今はもっと見方を変えなければならないところに私たちは立っています。

例えば軍隊と政治の関わりはどうあるべきか。国基研では政軍関係の研究をしてきましたが、今年半ばにはそれが単行本となって世に問われます。軍隊のあるべき姿、政治のあるべき姿という普通の国なら当然の理解が日本国には欠けている。それをなんとか正そうという知的努力も私たちはしてきました。

また、国基研の企画委員の一人である織田邦男さんは正論大賞を受賞しました。すばらしいことです。これは織田さん一人の功績を超えて、長い年月の中で自衛隊の先輩諸氏、安全保障問題の研究者の方々の知的覚醒による問題提起があってのものだと思います。国基研はその精神を非常に大事に思って繋いできた研究所です。今後も国軍、政治のあり方、国民はそれをどのように考えるべきかという国を守る哲学について理解を深めていきたいと思います。

田久保 軍隊は国家が生まれた時から備わっていなければいけないバックボーンなのです。日本では戦争に負けた結果、これがどこかに流されてしまった。でも元に戻さなければいけないというのが我々の主張です。

今の自衛隊は国軍ではない。なぜかといえば二つの面で欠けているからです。一つは、お金で片付くけれどもハードウェアの問題、もう一つはソフトウェアの問題です。ハードウェアについてはどの研究所でも言っているのですよ。ところがソフトウェア、軍隊が政治とどういう役割を演じあうべきか、肝心の問題をきちっと議論した研究所はない。

これは学会でも作って我々が推進してかなければいけないと思いますが、まずは第一段階として本を作り上げようと。これをソフトウェアのたたき台としてきちっと法整備をすると立派な国軍が姿を現す。その時には日本も安倍さんが言った「戦後レジームからの脱却」になる。私は「蟬脱」(古い因習や束縛から抜け出すこと)という表現が好きなのですけれども、それをすべき時期が迫っていると痛感します。

先ほど櫻井さんからあった自衛隊に関する長年の問題提起について少し個人的なことを申し上げると、銀座の並木書房社長だった奈須田敬さんが私の事実上の恩師みたいな人でした。奈須田さんが兄貴分、私が弟分で奈須田事務所でずっと研究をやってきたのです。私が杏林大学の大学院で教えていた頃、いま国基研の客員研究員で政軍関係の研究を手伝っている堀茂君(近現代史研究者)が学生で、来栖事件をテーマにした論文を書きたいと言うので、早速奈須田さんのところに連れて行った。奈須田さんにゼミの事実上の教師になってくれと言ったら「おう、引き受けた」と。奈須田さんが二年引き受けて彼を育てました。

奈須田さんが自衛隊にどのくらい貢献してきたか。銀座の酒屋の二階で、一介の浅草っ子が義憤に燃えて応援団をやってきたのです。国基研にもその遺伝子が生まれているなという気持ちがつくづくします。

「日本を取り戻す」

櫻井 田久保さんが国基研に注いできた知的活力の源は凄まじいものがありますが、私たちはそういったものをあまりにも伝えないで来ているという気がするのです。戦後の研究者、学者の皆さん方は非常に海外の知識に豊富でいらっしゃる。それはそれで大事なことなのですが、私たちは国家としての日本をもう一回作らなければならない。しかし、進駐軍の下でスタートした日本は本当の日本ではないという気持ちを失わずに、本当の日本を取り戻すにはどうしたらいいかを十分に考えているかと言えば、中々そこに辿り着けていない。

先ほど、インド太平洋戦略も含めて安倍総理が私たちと並走してくださったと田久保さんが仰いました。安倍総理もまた「日本を取り戻す」と仰ったわけです。その「取り戻すもの」は何か。それはただ単にいろんな制度や文化的なものということではなくて、根源的な意味で、日本人とは何か、日本国とは何かを証す価値観です。安倍総理はそれを取り戻そうとしたのだろうと思います。

私はこのお正月休みに『古事記』を一生懸命読んだのですが、それは古事記の世界にまで立ち戻って考えないと本当のところは理解できないような気がしたからです。そして古事記だけにとどまらず、その後の日本の発展を偏りなく見つめながら、その中で変わらない芯のところ、それを歴史に学ぶという謙遜な姿勢を国基研の特徴の一つとして進めていきたいと思っています。

田久保 それは国のあり方ということに関わり合いを持ってくると思います。我々の分科会の一つである「令和の国家像研究会」でそれをずっと研究してきたものです。これを再び活性化させなければいけないと思います。研究会の最初にあったのは「国体とは何か」ということです。国体はまずは水戸学ですね。藤田東湖あるいは会沢正志斎という、ああいう人たちの考え方も参考にしなければいけない。先崎彰容さんがそれを初めのリポートで言われました。私は大変感銘を受けたのですが、これはもっと明るみに出さないと日本の国体が何かということがわからない。

「国体とは何か」とは、やはり「皇室とは何か」ということなのです。「皇室とは何か」とは、皇室の中心である「神道とは何か」です。神道がキリスト教やその他の「宗教」と違うのはなぜか。儒教とも違うのはなぜかを考えないと国家全体のあるべき姿に関する完全な議論にはならないのではないかなと思います。

私はどんな人間に対しても百%同調してたまるかという徹底した評論家精神が重要だと考えてきた人間ですが、安倍さんは比較的百%に近い政治家だと思います。安倍さんが行ってきたこと全体を見てみると、我々が総合的に「国体」と言っていることのいろんなところを少しずつ掴み取ってくださっているのです。我々にはそれを掴み取る手段も方法も正直言ってないわけですが、我々が考えたことをいちばん言動で示してくれたのは安倍さんなのです。

私は古い人間だから、我々が若かった時の佐藤栄作や吉田茂を覚えています。佐藤栄作、河野一郎、それから池田勇人。そういう人たちをいろいろ見てきましたが、実際にそういう意味でものを掴んで改憲に手をつけたのは安倍さん以外にいないですね。

ただし、我々は「安倍そのもの」ではないし、安倍事務所の一部でもないということは当たり前のことだけれども、申し上げておかなければいけない。我々が安倍さんに近い研究所だと世間の人が言うのは自由ですけれども。

安倍さんと橋本左内

櫻井 研究所としての安倍さんとの距離の取り方については、内容から言うと他の研究所よりもはるかに濃密なものがあったと思います。それは誇っていいのだろうと思います。

安倍さんが目指した国の形は、非常に素直で明るいものでした。先ほど申し上げた『古事記』も聖徳太子の「十七条の憲法」もそうですし、その後の歴史の中で我が国が目指した国の形は、透明性が高くて明朗で明るい。儒教の教えが出てきて、それがすごく堅苦しいものをもたらしたことも確かなのですが、でもそれを適用する日本の国の形、社会や国民のありようは比類なく明るかった。日本は将来に対してある意味楽観的で希望を失わない、人間に対して基本的に非常に優しい社会だと思うんですね。また、道義を重んじる社会です。どの国も建前として同じようなことを言いますが、実際に国家・社会として実践したのが日本国です。それを思うと私はすごく明るい気持ちになるのです。

田久保さんがよく挙げておられる橋本左内にしても、吉田松陰にしても、あれほど見事な戦略論の論陣を張ることができた。そのような二十歳そこそこの人たちを数多く生み出した日本国の歴史を考えると、安倍さんが言った「日本を取り戻す」の中身の深さと重要さを思います。確かに今の日本は問題山積ですけれども、歴史を学べば学ぶほど、わが国の本質を追求してそれを広げていく限り、国基研が本来の仕事をする限り、私は日本国は大丈夫だ、と思います。また大丈夫にしなければならないと新たな決意を抱くのです。

田久保 安倍さんは吉田松陰の信奉者かもしれませんが、私は彼は橋本左内に似ていると思うのですよ。橋本左内は福井の殿様の命令で江戸にきて西郷隆盛に会う。安政二年、一八五五年です。将軍の跡継ぎと国際情勢の二点を意見交換するためでした。その初対面で西郷は橋本を福井の小侍が来たと馬鹿にするのですよ。西郷はその時、若い者の相撲を見ていて橋本にちょっと待てと言うわけです。その後、面通しをするわけですが、そこで西郷の顔色が変わる。橋本の話にびっくりしたからです。

当時、幕府はフランスについている。お金も武器もバックはフランスです。で、薩長はイギリス。これもう日本という国じゃない、風前の灯だった。

平泉澄氏によれば、橋本はこう言うんですね。ロシアが本当の敵か、イギリスが本当の敵かじっくり考えてみる必要がある。自分はよく考えてみると、当面手を結ぶべきはロシアではないかと思う、と。彼は日露同盟でイギリスと戦うべきだと、こういったわけです。二十二歳の若者がこんなストラテジックなことを考えた。これにびっくりした西郷は橋本佐内が綿密に書いた戦略論を国元の家老に送っているのですよ。大阪の緒方洪庵の適塾で習得したオランダ語からドイツ語、英語を活かし国際事情に通じていたのです。日本には今、そういう戦略論を張る若い政治家がいるかどうか。失礼ながら私は感心した政治家はいない。だからまた安倍さんということになる。

私は安倍さんと会って意見するような関係ではなかったけれども、一番感心したのはこういうことがあった。奈須田さんのところで、まだ若い時の安倍さんを呼んで話したことがありました。その時に彼が、では自分が責任者になったときに防衛問題で何をすればいいか、と尋ねた。それに対してこれは奈須田さんが言ったのだったか、自衛隊の優秀な人をどんどん官邸に持ってきなさい、できればその中の一人を首相補佐官にしてはと言ったのです。いつのことかも忘れるくらい、もう何十年も前の話ですよ。ところが、安倍さんが政権を取ってから、いつだったか安倍さんに声をかけられた。「田久保さん、自衛隊が官邸に上がりましたからね」と。にやっとした顔をして「あの時、言ったことは果たしてやったろう」というような顔をしていた。只者ではないと思った。

櫻井 何十年も前の奈須田研究会での話をきちんと覚えていた。

田久保 そうそう。その時、彼はまだバッジをつけたばかりの感じでした。軍隊の重要性について、安倍さんは初めからその本質を知っていたというのが確言できるね。

櫻井 すごいですね。それは今初めて聞いた話ですが、安倍さんの類稀なる素質だと感じます。国家のあり方を常に考えているから、そういったものがスッと頭に入ってきて深く刻み込まれるということでしょう。

私たち国基研も国のあり方を示す努力を続けていかなければいけません。田久保さんと私が相補い合いながら、私利私欲なくひたすら日本国と国民のために頑張り、そして「必ず私たちは良い結果を出せる」という楽観を忘れずに強い意思を持ってやって行けば大丈夫だと思っています。
 

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