公益財団法人 国家基本問題研究所
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今週の直言

【第207回】戦死者の慰霊は善悪を超えて

平川祐弘 / 2013.08.12 (月)


国基研理事・東大名誉教授 平川祐弘

 

 1945年の8月は多事だった。広島・長崎が原爆で壊滅、ソ連が侵攻、15日に終戦の玉音放送があった。このお盆の月にあらためて死者の慰霊について考えたい。

 ●戦争認識の一致はあり得ぬ
 世界世論の多数派は、太平洋戦争について日本を悪玉、米国を善玉としてきた。米国こそが悪玉だと言い張る日本人もいるが、国内的には声は大きくても、外に向けて英語で説得しないから、地球規模では少数派だ。私は政府を無視した日本軍部に非があったと見る点では多数派に近い。近著『竹山道雄と昭和の時代』でもその見方を述べた。
 しかし、だからといって東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決に示された見方を私はとらない。戦争犯罪について東京裁判の判決に服するつもりはない。中学生の私は東京大空襲を見、無差別爆撃に憤激した。明治神宮も炎上した。住民を火炎の壁で包んで焼夷弾で殺す様はダンテの地獄さながらだ。原爆などの非人道が戦争犯罪とされぬような「勝者の裁判」には、人間として服しかねる。「原爆投下の日から善悪の立場は逆転した。米国が悪玉になった」。一フランス作家の日記に記されたこの見方には一理も二理もある。が、私はその説を声高に主張しない。また、日本は米国に原爆を2発落とす徳義的権利をいまも保留していると特に言うつもりはない。私は日米同盟支持で、日本が米国の核の傘で守られていることを良しとしている。
 そんな私は1948年11月12日、Death by hanging(絞首刑)の判決が東京裁判で下されるのを放送で聞いた。羽仁五郎はWeltgeschichte ist Weltgericht(世界史は世界の裁きの歴史である)とシラーを引用して判決に喝采した。だが福岡の市民はそんな裁判は認めず、米軍が去ると、大濠公園にA級戦犯廣田弘毅の銅像を建てた。日本人ばかりか、戦前の駐日大使グルーも廣田の死刑判決の不当を訴えた。そんなだから銅像が建って良かった。もちろん、それに不快を覚える人は中国にも日本にもいるだろうが。

 ●靖国は日本のアーリントン
 交戦国が戦争やその責任者について見方を異にするのは当然だ。判断は一致しない。降伏意思をすでに示した国に原爆投下を命じた大統領こそ戦犯だと私は思うが、米国は勝利し、罪は問われない。非人道的な無差別爆撃をしながら戦死した米兵も米軍墓地には祀られているだろう。だが、たとえそうした人の名が刻まれていようと、アーリントン墓地への日本の首相の献花は当然だ。なぜか。政治と宗教は次元が違うからだ。
 死者は区別せずに等しく祀るがいい。善人も悪人も神になる。善い神様にお祈りし、悪い神をもなだめ祭るのが神道だ(本居宣長『直毘霊』)。外人に「靖国神社とは何か」と聞かれると「日本のアーリントンだ」と私は答える。慰霊は善悪を超えて行う。そもそも善悪の判断など当てにならない。
 明治神宮へは米国大統領も参拝する。だが戦争中、米国は神道と天皇崇拝こそ日本の超国家主義の背骨だと信じて、明治神宮を狙い撃ちにした。だが、そんな判断は間違いだったと悟ったからこそ、クリントン国務長官はお祓いも受け「日本の文化と歴史に敬意を表した」のだ。同様に靖国についての誤解もいずれ解けるだろう。多国籍軍の一員として作戦中に死んだ自衛隊員が祀られれば、同盟国元首は靖国に参拝するに違いない。(了)