靖国神社には、出撃前夜アリランを歌って沖縄に特攻出撃した朝鮮出身の光山文博陸軍大尉や、李登輝元台湾総統の実兄の李登欽海軍上等機関兵など、およそ5万人の朝鮮・台湾出身者が祀られている(秦郁彦著『靖国神社の祭神たち』)。ここで取り上げる洪思翊(本人は自らを日本読みで「こう・しよく」と呼んでいた)陸軍中将も、その1人である。
●戦犯として処刑
洪思翊は1889年、ソウル近郊の農村に生まれた。家は貧しかった。長じて韓国武官学校に進み、日韓併合の前年に日本への留学を命じられ陸軍中央幼年学校に編入、陸軍士官学校から李王家以外では朝鮮人としてただ一人陸軍大学校を出て、中将にまで昇進したが、第14方面軍(山下奉文司令官)兵站監として捕虜虐待の罪を問われ、1946年9月、フィリピンで刑場の露と消えた。
独自の日本人論を展開し続けた山本七平氏に『洪思翊中将の処刑』という書がある。
自らが戦犯容疑者として米軍から尋問を受けた体験を持つ山本氏は、朝鮮人である洪中将がなぜ絞首台にのぼることになったかを3000ページにも及ぶ英文の裁判記録から掘り起している。いわば、この著作は、戦犯法廷でのデュープロセス(法の適正手続き)を丹念に追ったものだが、資料を読み取材を重ねるうちに、いつしか洪中将の生き方に深甚なる興味を覚えた山本氏は、再三、法廷の場から離れて、洪中将の人となりに触れることになる。
浩瀚(こうかん)な書からそうしたエピソードを巨細(こさい)に書き抜くのは難しいことだが、忘れ難いものを引いてみたい。
●朝鮮人であることに誇り
陸軍中枢にあっても、洪中将は朝鮮人であることを貫いた。その日本語には朝鮮訛りが色濃くあった。だが、洪中将は、「朝鮮人なのだから当然のこと」と堂々とふるまった。子息に対しては「自分の姓名を名乗る時は必ず『私は朝鮮人の洪です』と、朝鮮人であることをはっきり言う」よう求めた。創氏改名には応じなかった。
戦争が終わった時、周囲が「これで朝鮮は独立する。閣下はお国に戻って活躍されることでしょう」と言うと、洪中将は「自分はまだ日本軍の制服を着ている。私は制服を着ているかぎり制服に忠誠でありたい。したがって、そのようなことは一切考えていない」と答えた。
マニラ軍事法廷での洪中将は、東京裁判における元首相広田弘毅のように、自身の裁判では終始無言を通した。アメリカ人弁護人が無罪を立証しようとして、「朝鮮人は長いこと抑圧されており、朝鮮人指揮官はいかに高位にあろうとも、日本軍においては事実上軽視されていた」との論陣を張っても耳を貸すことはなかった。
遺言は残していない。絞首台に赴く前にキリスト教徒の日本兵に旧約聖書を読んでもらったが、その兵士に「君は若いのだから身体を大事にしなさい。そして元気で日本に帰りなさいよ」と言った。これが最期の言葉だった。
洪中将は、昨日までの「鬼畜米英」がたちまちにして「鬼畜日本軍」(山本氏の言葉)に変貌した敗戦後の精神風土とは無縁の人だったに違いない。(了)