公益財団法人 国家基本問題研究所
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今週の直言

田久保忠衛

【第376回】自然体でいなした「92年合意」

田久保忠衛 / 2016.05.23 (月)


国基研副理事長 田久保忠衛

 

 5月20日に台湾民進党の蔡英文主席は第14代総統に就任した。台湾史上初の女性総統が中国に接近していた国民党の馬英九前政権に比べてどのような方向性を打ち出すのかに関心を抱いていた私は、「自然体」と言っていい淡々とした就任演説にホッとした。
 
 ●台湾新総統の就任演説
 就任演説は理路整然さを要請される学会での報告ではない。台湾にいるのは蔡総統の支持者だけではなく、国民党を中心とした反対勢力も、二大政党のどちらにも属さない人々もいる。台湾海峡の正面には、反中国の言動をあらゆる手段を使って妨害しようとする北京政府がいる。太平洋のかなたには、事を荒立てては困るというもう一つの圧力をかけてくる米国が存在する。筋を通すだけでいい学術論文と違って、就任演説を書くには国際政治における熟練を必要とする。
 蔡総統は、中国が強く要求している「一つの中国」原則を確認したとされる「1992年合意」を演説からやんわり外した。92年に中台の窓口機関が会談した歴史的事実を尊重する、とだけ述べたのである。中国ががなり立てる92年合意などはなかったとの主張は中国側にも分かったのだろう。中国共産党中央台湾工作弁公室は「92年合意を明確に認めておらず、完成された答案ではない」と論評した。百点満点ではないという中国側の言い方にむしろ遠慮が見られる。

 ●日米欧との関係深化
 台湾の方向性を新総統は改めて明らかにした。日米欧など友好的民主国家との関係を深化させ、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)やアジアの広い地域を対象とする「域内包括的経済連携」(RCEP)などに積極的に参加すると述べたのである。東南アジア諸国連合(ASEAN)やインドに重点的に投資をする「新南向政策」の推進も提唱している。戦術的には「両岸(中台)関係の平和、安定的な発展を進める」と常識的な表現にとどめ、戦略的には自由、民主、法治、人権の普遍的価値観を共有する国々との関係の深化を口にしたところに、蔡演説の大きな政治的意味がある。
 気になるのは東シナ海と南シナ海の争いを棚上げし、共同開発をするよう呼び掛けている点だが、友好国である日本絡みの東シナ海を台湾がどう考えているかは、これからの問題かもしれない。
 台湾の新指導者が中国による有形無形の圧力にさらされている実態を日本はどれほど理解しているだろうか。中国は台湾の22倍になった軍事費(5月21日付産経新聞)を背景に、総統就任式の前に中国南東部で陸海空軍部隊による上陸演習を実施した。3月には台湾と外交関係を持っていたガンビアと国交を結んだ。中国人の台湾訪問客が最近減少しているのも「圧力」と関係があるのだろうか。台湾の緊張はこれからも続く。(了)