日本学術会議(日学)は連合国軍総司令部(GHQ)内の左派の支援により1949年に国の機関として発足した。初代会員選出では激しい選挙運動が展開され、共産党シンパの研究者が多数当選し、政府と対決するその後の方向が決まった。50年にGHQはレッドパージを実施したが、日学に影響はなかった。
●改革進まず反政府に先祖返り
日学に対して政府は改革を3度試みた。最初は発足直後の50年に行革の一環として総理府から文部省に所管変更を求め、53年には民間への移管を検討したが、日学の反対で実現しなかった。その後、政府は日学の力をそぐ立法・行政措置を続けた。56 年の科学技術庁設置、59 年の科学技術会議創設、67 年の文部省学術審議会発足により、日学の政策提言機能は不要になり、80年代の各省庁審議会設置で政府から日学への諮問はほとんどなくなった。
81年に政府は2度目の改革を実施し、会員選考方式を選挙から学会による推薦へ変更した。このとき野党の反対を封じるために「推薦者をそのまま任命する」と国会で答弁したことが、現在問題になっている。改革により一部の政党が積極的な選挙運動をする弊害は無くなったが、会員が母体学会の利益代表になる新たな弊害が生じた。
3度目の改革は90年代に始まる行革の中で行われ、2005年に現会員が次期会員候補を選ぶ方式に変更された。また「俯瞰的、総合的な視点から提言を出す」体制作りを目指すとともに、民営化については10年間の猶予期間後に検討することになった。
しかし、2015年に猶予期間が終了した際、なぜか政府の意見が出されず、現状維持が認められ、日学に危機感が消えた。これにより改革機運は無くなり、日学は反政府的な組織に「先祖返り」した。2017年に定員以上の会員候補を事前に政府に提示して協議する方式をとったにもかかわらず、2020年にこの方式を簡単に破棄するという信義違反を行い、しかも一部の会員候補の任命が拒否されたことで政府を一方的に批判した。こうした現在の姿勢の背景には、以上のような日学の歴史がある。
●民間の提言機関に転換を
私は2000年から2011年まで日学の会員を務め、最後の3年間は副会長として働いたのだが、この間は緊張感をもって政府との関係改善に努力し、わずかながらも政府からの諮問が出された。退任後は残念ながら新たな諮問はなく、自主的に数十件の報告などを発表しているが、軍事研究反対を確認した2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」以外に社会的な影響はほとんどない。
国との関係が悪化しただけではない。次期会員推薦制度がなくなって学会とのつながりが切れて、国が支給する科学研究費補助金の審査委員の推薦権も2005年に失い、研究者との接点がほとんどない「根無し草」になった。これも国の機関でありながら政府と対立した結果であり、このままでは日学に明るい未来は見えない。欧米の科学アカデミーに倣って民間組織に生まれ変わり、真に社会の役に立つ政策提言機関として活動する道を選ぶしかないと考える。(了)