2月1日の夜7時のニュースで石原慎太郎氏死去を耳にした時はギョッとした。同じ年で、華麗な活躍を続けてきた彼が元気になって軽いランニングもできるようになり、その動画を見たばかりだったから、衝撃も大きかったのかもしれない。
●創成期の活力源に
何よりも、石原氏にはわが国家基本問題研究所が大変お世話になった。発足前の平成18年だったと思う。理事の一人に石原氏を、という関係者の意向に沿って、櫻井よしこ理事長と東京都庁の知事室を訪ねた。
櫻井理事長は国基研をどのような思いでスタートさせるか、趣意書の内容はどういうものかを丁寧に説明し、石原氏にはどうしても理事に就任してほしいと要請した。私は必ず何かの質問があるだろうと待ち構えていたが、彼はいとも簡単に「承知しました」と引き受けた。しかも「この種の組織には資金が要る。いつでも相談に乗ります」とまで言ってくれた。
正直に言って、櫻井さんも私も研究所の創設にどのような手順を踏んだらいいのかなどはずぶの素人だった。理事、評議員候補のリストは作れても、電話で簡単にお願いできる人とそうでない人がいる。正式に依頼するにはいかなる手続きが要るかという知識など持っているわけがない。ジャーナリストの立場なら対等の会話はできるが、この件はそうはいかない。が、石原氏はわれわれの心境を察してくれたのだろう。これで会報の第1号から役員一覧の理事の最初に石原慎太郎の名前が明記された。任期切れで今は消えたが、研究所前進のエネルギーになったことは間違いない。
●日米同盟信奉者に強烈パンチ
話は若干それる。平成10年に文芸評論家の江藤淳氏がフジサンケイグループの正論大賞を受賞し、前年受賞者の私と新聞用の対談をした。その際、私が、ブレジンスキー元米大統領補佐官が日本を米国の「事実上の保護国」と言っていると述べたら、江藤さんは「そんなことを言い出しましたか」とえらく驚き、対談後に英語の原文を是非読みたいと要望されたので、コピーをお送りした。
ところが、その後、石原慎太郎氏が「大統領補佐官ごときが日本を下僕と言っている」旨の文章を書いたり、テレビなどで発言したりし始めた。驚いたのは私である。もう一度原文をチェックしたが、「下僕」という英語は見当たらなかった。
江藤さんと石原氏は親しい。あくまでも推測だが、憤慨した江藤さんが石原氏に電話をかけ、米国の元高官が日本を下僕扱いしてけしからん、と息巻いたに違いない。それがブレジンスキーの表現にいつの間にかすり替わってしまったのではないか、と私は疑っている。
同じ時期に石原氏は共著で「『NO』と言える日本」を出版し、ベストセラーになった。自動的に日米同盟重視を唱える向きに痛烈なパンチを見舞ったものだが、よくぞここまで言ったと私は評価する。私は「強い日本」をつくったうえで米国と同盟すべきだというのが持論であって、方向性は一致する。石原氏の御冥福を祈るのみだ。(了)